北陸4 - 第2回北陸海岸紀行 -
2007年9月
2泊目の宿屋を探し求めて富山へ
黒い鏡の窓に囲まれて、糸魚川から富山に向かっている。ただ賑やかな富山に向かっているはずだという認識だけが、希望を持たせた。それほど沿線は漆黒の海岸の町々で、富山に向かっている感触が少しもなかった。がらがらの車内を車掌がしょっちゅう巡回していてやや息苦しい。さて明日の予定はどうしようか。筒石で決めかけたようにもう取りやめて帰るか。まあともかく富山に着いてから考えよう。すべてはそこからだ、と決定を先延ばしにした。泊から富山近郊に近づくにつれて自然と人も増えていたはずだが私は一向に無関心らしい様態だった。やがては列車も、乗客も疲れきって、車掌の放送も聞こえ疲れして、いわれてみると今までのところよりかは確かにネオンのあるといえる富山駅になだれ込んだ。
列車を降りたらそのまま歩き通して改札を抜けて、寄り道せず駅前へ出た。地鉄への通路あたりで、五十くらいの男性が酒を片手に大きな声で管を巻いていて、富山の人々はそれに目を向けないようにしつつ、歩き過ぎていく。富山もこんな駅の一面があるのかと意外だった。その人は、金持ちなのはあんたらが金を持っているからじゃない、日本が金持ちだからなんだ、な、と空中に説教を垂れていた。
しかし私にはそれについて考察する余裕は無に等しく、ともかく今夜のことを決めないといけないので、富山駅前の端に立って、考え込みはじめた。特急で帰ってしまうか、それとも予定通りここで一泊するか…。一泊するとすると予約なしで当てがあるのは先泊のひどいホテルしかないだけに、余計に帰りたがった。しかしせっかくいま得がたい富山にいて、次の日の予定もしていたというのに、車窓も見えない中一散に特急で帰るのはさすがにもったいなく、これは取り消した。じゃあ急行きたぐには、と思いつき、わざわざもう一度駅舎に入ってみどりの窓口に入って時刻表を見たら、発車が深夜になってだめだった。それでも誘惑に駆られてすんでのところで切符を求めかけた。なんとか退場し、結局どんどん安い方にと、昨日この駅前で見た夜行バスの乗り場を思い出して、それが空いていたら帰れということだ、と、この方策を探りはじめた。偶然かこの暗い中観光案内所が開いていて訊ねると、不穏な感じで電話番号を教えてくれた。確かに当日になってこんなことする人いないよなと思いつつ、電話ボックスに入ってかけると、一瞬驚いたようなニュアンスではじめつつもやがては落ち着いた口調で、満席ですと返って来た。今思うと当然だったが、それほど明日の予定の決定が欲しいとも思えたし、それほどバスのことを何も知らなかったとも言えそうだった。
結局これで富山宿泊が確定。でも昨日のホテルはいや。駅前に東横インがあり、その壁に電話番号が書いてあったので、それを記憶し、また電話ボックスから掛けた。富山にはこんなにホテルがあるんだから空いていると思って。するとお姉さんが、今夜は満室ですと冷たく断る。ある人には当たり前のことでも、自分には今一つわからないこともあった。
その電話は落ち着きを装って丁重に切ったが、受話器を戻してボックスから出ようとすると、さすがに今夜はどうしよう、と青ざめた。もう昨日のホテルに泊るということは考慮に入っていなかった。焦燥感に駆られて、大通りを歩く。ほんとにびっくりするほどホテルが多い。建物といえばホテルで、決まってネオンがついていた。そのうちのあまりしられていない一つに飛び入りした。いらっしゃいませ、ご予約の方ですか、とにこやかに迎えてくれたのに、していないというとその人、顔を変人を見たかのようにこわばらせて、本日満室ですと硬い応対で追い払う、これでたいへん恥ずかしい思いをした。夜の街の信号前では、決まってスーツ姿の人が二三人待ち、談笑していた。ひとり夜陰に私は身を隠す。駅前で管を巻いていたあの人の姿が思い浮かぶ。このときまでは夜はどこかに泊るものという認識があって、そういう義務感を持っていたのに、数か月後についにそれを失ってしまったのはまことに自分自身を造りそこなったようだ。
それからはホテルを見ても目でさああと通過するばかりで、もう飛び入りはできず、結局あそこか、と、うなだれて日本ビジネスホテルへとおぼつかなき足取りで向かった。
私はしばらくぶりに転機というものを知った。転機というのが訪れることもあるんだ…。富山駅前に沿う大通りを、白いヘッドランプに射られつつ、逃げゆくテールランプに暗さを感じつつ、歩道を歩いていた。打ちひしがれて眉をしょんぼりさせながら、ほんとにもうないのかな、せめてこの道中に何かないかな、と、あてどなく探していると、新しいアパートのような小さな建物に、ホテル名が書いてあるのが目に自然と入った。こんなのがホテルなのかとふっと値段を見ると、3700円となっていて驚く。先泊のよりも安くて新しい。出入口を見ると、やはり普通のアパートのような感じで、入ってもよいかどうかもわからなかった。「やっぱりこんなのは特殊なホテルなのかもしれないな」。しかし値段の横には電話番号が書いてあり、こんなふうにホテルに思えない造りだから、書いてあるのかもしれないと考え、また目の前に電話ボックスがあったことから、よし、いちかばちか電話してやろう、ここで断られたらあきらめがつく、と番号を覚えてすぐボックスに入り、電話を掛けた。コールしつつ、その建物を斜めに見上げる。電話が繋がる。もう単刀直入に、今晩空いてますか、と訊いた。すると丁寧な中年女性の口調で、「はい、空いてございます。」と返って来た。興奮が高まる。「今どちらにおいでですか?」 私は有頂天なのを隠すのに必死になりつつ、「え、今ホテルの目の前です」と言うと、その人は少し含み笑いして「あ、そうですか、ではお待ちしております」。
電話してよかったと心底考えつつ、歓びに打ち震えた。俄然今晩の買い出しをしたくなったが、お待ちしておりますと言わせたからには、先にチェックインをしよう。
フロント。
あくまでただのホテルなのを確かめつつ、階上に上がると、壁の一角がもげていて、そこがフロントらしい。そこには二重の気だるそうに眼を細めながらも微笑んだマダム然とした人が待っていた。改めて宿泊の意思を表明し、名前などを書き込む。もうこのときにはその人に微笑みなぞなく、硬かった。私が彼女の想像した客ではなかったのかと思ったりした。「3700円頂戴します」。渡すと、その人は一枚一枚を本物か確認するかのようだった。「明日何時ごろ出られます? 早いですか?」「あ、早いです。朝5時ぐらいです。」「え、早いですね。起こしましょうか?」なかなか親身でうれしくなった。しかしそれは一応断って、部屋へと向かった。
さて部屋は…。
解錠して部屋に入ると、むっと空気が籠っている。それでも、あの料金で入れるのかと思うほど、どれも新しく、そして何でも揃っていた。東横イン調の明るい茶のフローリングに白い壁。しかしどうやらここはワンルームマンションで、それを宿泊施設として経営しているようだ。それだけにホテルらしくなく、やや疲れる明るさで、新しいとはいえただの寝部屋だった。ともかく空気が異様に苦しいので窓を探したら、なんと窓がない。何か欠点があるとは思っていたが…。それでさっそくエアコンを低温にしてかけた。この優れた気密性でこのままだと病気に罹ってしまいそうだ。
やはりホテルではない。
小卓、テレビ、冷蔵庫。
一応揃ってはいた。飲み物は持ってきたもの。
左手奥の扉が玄関。
洗面台。きちんとしている。ポットがあるのは助かるが、今回は使わなかった。
浴室の様子。シャンプーなどを配備。
洗面所に最も驚かされた。模様入りのプラスティック袋がガラスコップにかぶせてあり、ほかに小物などがそろっていて、どうしても女性らしさが感じられた。この一角がなければ硬いばかりの部屋になるところだった。そんなものもありつつ、やっぱり清潔で新しいのはいいなと思って、油を塗りたくられ日焼けで燃えるようにほてった体全体に、気持ち悪さを感じつつも、遠慮がちにベッドの寝心地を試してみたが、大丈夫、寝つけそうで、とても満足らしい表情を私は一人で浮かべた。
テレビでも点けたいところだが、とにかく買い出しに行かなくては明日倒れてしまうかもしれない。鞄と鍵を持って、部屋から出た。マダムがまだいたので、買い物に行ってきます、と一言かけて、階段を下りた。住まい持つようになった者の実直らしさが私からにじみ出ていたかもしれない。
コンビニは少し歩いた斜向かいローソンがある。昨日はハートインで買ったから今日はローソンにしようと入ったのだが、存外棚がすかすかで品物がなく、いぶかしがった。富山のこの時間はもう、どこもこんなものだろうか、だとしたら別のところに行っても仕方ない、ならここで決めようか、などと巡らせたが、やっぱりハートインに行ってみることにして、ローソンでは何も買わずに出た。
ほとんど富山駅ビルのそばにあるさらに離れたハートインに入ると、商品がみっちり。客も多い。結局JRの関係会社に、してやられたようだった。そこで買い物し、今夜の我が家に帰る。もうマダムはいなかった。
冷房は効きはじめていて、安心した。例のごとく寂しさの紛らわしにテレビをつける。
ほかのホテルと同じようにとこの部屋と融和しようとしたが、やはりワンルームマンションの生硬さがついてまわり、なんだか心の隙間が埋まらなかった。
ベッドの端に座ってテレビを見つつ、体内にドーナツやおにぎりなどの燃料を投入。買って来たものを食べきってしまうのではないかと、食べ始めは思ったが、途中でこと足りてよかった。このままずっとぼーっとテレビを見ていた気持ちになった。明日もまた4時半に起きなければならないとは。時刻はもう夜9時だし、たっぷり寝るには、早くお風呂に入らないといけない。ホテルに入っても忙しくて、何のために泊っているのだろうかと思った。ホテルは自分の旅にあっていないとわかり、これから先は別の方法で一晩過ごすようになった。
日焼けで全身がひどく重苦しい中、人の出演しない天気予報がテレビに映った。「明日も太平洋高気圧に覆われ、よく晴れるでしょう。」と図解して、あっさり終わった。予想気温はやはり30度を超えていた。ああ、あっそ、明日曇りならおとなしく帰るだけで済ませそうなのに、と、いい予報なのにもうたいして喜ばなかった。でももうこうとなったら明日もやろう。じゃあまずお風呂だ。と、湯をためさせながら、洗い場でシャワーにかかった。
上がり終えて、たまたまバスマットを裏返したら、死んだ小蝿が数匹付いていた。いつしか眉間に皺が寄り、部屋のほかの場所確認したら、隅の方にも同じように死んでいる。窓がないのにどこからと思う。ちょっと今一つだなと思いつつ、冷房の効いた部屋で湯あがりの冷たさを背に感じていたが、それが時としては夏の旅行の一刹那で楽しみでもあるものなのに、なかなかどうしてこの部屋では旅情育まれず、ただの一人暮らしで、現実的だった。
鞄の中の整理をし、11時過ぎには床に就いた。窓がないゆえ空調を切るのが恐ろしくそのままにした。疲れ過ぎて却ってなかなか寝つかれない。ホテルにいるんだからよけいにぐっすり寝よ、と迫られているようで、義務のように感じられ、寝るのさえもどこか面倒だった。ホテルは機動性がない。旅にありながら少なくとも家にいるようには、過ごせるようにできている。
時計が鳴ってぼんやり起こされると朝4時半だった。もうこんなのは昨晩の延長に過ぎない。5時になると機械的にテレビの天気予報を見た。当たり前のように晴れとなっている。支度に見積もった、起床後1時間で一通り整えて部屋から出ると、昨日のマダムとは似ても似つかない、しわ枯れの婆さんが出てきて鍵を受け取った。がっかりし、昨晩起こしてもらうように頼まなくてよかったなどと思う。
ウィステリアホテル富山。
税込3700円から。お電話0120-83-6122。困った際はぜひ…?
早朝の富山駅(5時半)。いるのは鳩ばかり。
未明の富山駅前。いたずらに肌寒く、とうに秋だった。今日は七尾線を目指す。昨日の予定に引き比べればどうでもよい予定ではあった。帰途となる始発上り普通に乗るのがうすら寂しく、そして心に張り合いがなかった。私の拠点からは、金沢以東というのは訪れにくいところで、離れるのが惜しかった、何よりも朝一番にというのが。
5時50分発小松行き(上り普通始発)の車内の様子。
こんなところにごみ箱が。しかも改造の匂いがする。
車窓から見た改札口。
2番線側には寝台特急がいた。おそらく日本海4号大阪行き。
始発だけあって、上っていってもたいして混まなかった。ただ朝日が昇るとともに、九月の朝の冷たさにちょうどよさそうな黒詰襟を着た学生が、ちらほら乗って来た。
津幡で降りる。七尾線に乗り換えるために。朝6時半過ぎだったが、駅はがらがらだった。今日もよく晴れるようだが、どこか気持ちがからっぽで、虚しかった。ホームに佇みながら、今日一日やっていける気がしてこなかった。
七尾線の列車を椅子に腰かけて待った。
七尾行きを待っていると、寝台特急「北陸」が停車(客扱いある停車)。到着時刻が少し遅れている。
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