九州都市周遊

2008年3月

小倉へ、そして夜行バス

  私はその視線を避けるように、入って来たドアの方に向き直って、発車を見送った。動き出してから、私はそっと頬をつねる。確かに列車に乗ったな? 想像だけで列車に乗っていないな? あの駅がいつまでも握って放そうとしない、もう過ぎ去った時代の影響をあの駅で受けている延長にいる気がしてならなかった。また、乗りたい列車、乗らなければならない列車ほど、乗ることを何度も想像するゆえ、乗る前からあたかも乗ってしまったような気になることが私にはあった。うまくあの影響、憑依から決別することができただろうか。あのとき着実に橋を渡ったろうか。
  大丈夫。見ると確かに足は列車内の床に付いている。ただ振動があまりない新車だったため、不安になって目で確認し直しただけだ。車内はやや込み合っていて、座ることはできなかった。
  西屋敷に着く。立石と同様、ホームが離れていて、停車本数もまた同じという寂しく特異な駅である。真っ黒のシルエットで3人ほどが待っていた。
  無事、峠区間を切りぬけて主要駅、宇佐に着く。そして2駅先の終点柳ヶ浦に着き、列車からは全員出払った。私も降りる。ここまで来るとほっとするものだ。柳ヶ浦で乗り継ぎ待ちというのは、普通列車旅ではたいへんよくあることで、いろんな人がここで待ったのだろう。その様子を時刻表上で想像していたが、こんなところだったのか、と、このどこにでもありそうな旧体裁の大きめの駅を見回した。といってももう夜で、蛍光灯が一列に灯るばかりだ。寒さも増していた。しかしこのとき乗り継ぎ待ち客は私だけだった。構内に人影がない。あるとすれば変な客である私と、さっきの終点の列車から降りた運転士ぐらいのものだった。

柳ヶ浦駅。

ここもまた広い構内の駅だ。

跨線橋内にて。これといってなし。

  18きっぷだから、下車もすいすいだ。改札まで行くと、鑑賞に魚を飼った水槽がいっぱいで、珍しさと驚き、そして歓びとで硬直する。これは駅長の肝入りなのかな。いずれにせよ駅をわりと自由にいじれるのは、こういうのを見ると、なかなかいいことだなと思えた。元来、本来の業務が疎かというような駅はあまりないものだから、こんなことをやっていても安心だ。

水槽がこんなにたくさん。

 

  外への出口付近の椅子では薄暗い中、制服の男子小学生が一人椅子にかけ、大玉の譜面を読んで指を動かしていた。むき出しの脚と冷たい樹脂製の椅子が接している。彼の1日はなかなか終わらぬようだった。
  重要な駅なのに意外にも駅前は真っ暗で、そんな中、多くの人が立ってお迎えを待っていて、意外であった。

コンコースの様子。

出改札口。どことなく窮屈だ。

売店はもう閉まってた。

柳ヶ浦駅駅舎。駅名が灯らないようで、これじゃ一見何の建物だかわからない。

駅前の様子。

  特に旅道中の食糧を買いたくなるような店もないので、そのまま駅舎へ戻り、ホームへと入った。改札脇の売店がおにぎり王国となっていて、そんな気になる店が閉まっていただけに、ここでは何か食べ物を買いたかったのに、と、あたかもあらかじめ買うつもりだったかのような気持ちになったのかもしれなかった。
  客はどこにもほとんどいなかった。ただ出札の中に人がおり、そしてぜんたいにホームには一列にぼんやり灯りがともっていた。北九州圏の特急停車駅といえども、こんなだったか、と、気楽になれた。私がホームに入り、上り特急が近づくころになると、スーツケースを引いた人などが連れを振り返りつつ悠長に改札から出て来るのが見え、私のいるこっちのホームへとやって来て、談笑する小さな群れをこの寒さの中に形作った。その人らは予想通り19時22分の特急に乗って去った。その2分後、私の乗った普通小倉行きは発車した。柳ヶ浦では40分ほど待った。

  さあ、後はどう転んでも目的地の小倉に着くばかりだ。けれどもロングシートばかり。車内はかなり空いていた。これから混むのだろうなと思う。けれども小倉までは1時間半あり、寝るなりぼんやりするなりできる。

  気がつくと寝ていて、椎田という駅名標が見えた。柳ヶ浦から30分ほど経っていた。そのまま行橋など、都市圏の駅を車窓から見つめたが、それほど人も多くなく、また、小倉に近づくにつれて混むだろうと思っていたのに、車内はいつまで経ってもすいたままで、同じ北九州都市圏でも日本海側の鹿児島本線と瀬戸内側の日豊本線とではだいぶ様相が異なるのだと思えた。
  朽網という、漁にとってはよくなさそうな、かといって都市らしくもない名前の駅を過ぎ、小倉が近づく。私ももう体を起こして降りる態勢を取っていた。
  ついに一つ手前の西小倉に着く。さすがにここまで来ると賑やからしい感じの駅だった。しかしここでいつまで経っても列車が動き出さない。周りの人もおかしいな、と首をひねって窓を覗きこんだりしている。「お客様にお知らせします。福工大前駅で人身事故があり、博多方面の列車が大幅に遅れております。乗り継ぎのお客様にはご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください」。この放送を聞いた瞬間、どうしようもし高速バスに乗り遅れたら、と思って心拍が一気に増した。よりによって小倉まであと一歩というところで、こんな災難が待ち構えていたとは、とも思い、死んだ人のことはというと、まったく、考えおらなかった。とにかく、もし列車が止まったままなら、西小倉からタクシーを飛ばそう、と決める。それにしても福工大前駅は私が小倉からこの九州の旅を始めた2日前に改称したばかりの駅で、あの日通過するときも車掌が、その日が駅名変更の日であるのを改めて確認したがためにちょっと硬くなったという感じで、ふっこうだいまえ、というのを聞いたのを憶えていて、それをこんな形で改めて聞くと、改称に怨みがあったのかなどと思えたりした。
  そんなことを考えた後で、亡くなった人のことが考えられた。でも、この世はやはり生者で回っている。死んだ者が支配しているというのはへんだ。それぞれまず自分の都合が頭に上るのはいたしかたないことではあった。突然、
 「この列車ただいま信号待ちで停まっております。信号が変わりしだい発車します。もう一度繰り返します、この列車…」
  この列車に限っては、人身事故ではなく、信号待ちで停車していたことが判明。むろんよく考えれば福工大前駅は反対方向だ。しかし回り回って影響が出ているとは考えられるものだった。とにかく私はほっとして、発車を待った。
  無事、下りホームで人が鈴なりになっているのを尻目に列車は発車し、わずか2分少々走った20時51分、一駅先の終点、小倉駅に着く。小倉でも下りホームだけが人で溢れていた。手持ちぶさたで厭そうな顔だった。大きな影響が出ている模様だ。
  さて。着いたからといってのんびりもできない。まずただちに夜行バス乗り場を下見しに行かないと。
  脇目も振らず改札に向かうと、有人改札は麻痺していた。切符なんかろくに見てもらえず、有人改札を通過。こんなふうに改札を出られて愉快だった。

小倉駅コンコース。

  人多く闊歩するサークル状の都会的なコンコースを経て、裏口へ出た。駅ビルに付いた歩行者デッキからは駅裏が見渡せ、これなら一目でわかると安心した。裏は店はほとんどなく、また、かなり暗い。何か物騒だった。乗り場はKMMビル前、となっている。ビル前まで行ったが、別に乗り場らしくもなく、ただのビル前で、少し不安になる。しかもビルは明かりなど付いておらず、ただスナックやバーのネオン看板が縦一列に灯っているだけなのだ。高速バス、ことにツアーバスともなると乗り場はこんなものだが、これゆえに運賃も安いのだろう。高いところにある新幹線乗り場を、意識を本州の都市に飛ばしながら見上げたりした。

  さて、後は自由時間。今は21時10分。23時10分集合となっているから、あと2時間もある。どうしても乗り逃すわけにはいかないし、遠方の地の不案内な駅裏から乗るということで、これぐらいの余裕は欲しかった。初めての都会駅での1時間というのは案外早く過ぎるものである。迷いはじめたらなおさらで、そうしたら、もう砂時計は止まらない。
  駅の表側に行き、歩行者デッキを歩いた。こちら側はネオン輝く明るい駅前で、駅裏と違って少しばかし安心した。しかしそれだけに危険もまたありそうで、気を引き締めた。
  キャリーを引いている30代くらいの男性が立ちどまり、その人は片手で小倉駅を撮った。旅の途中なんだな、と思う。
  ところでみなさんは私が小倉に来たときのバスで、途中の大阪(中津)にてマクドナルドのドリンク無料券の配布があったのを、覚えておいでだろうか。駅前にマクドナルドがある。そこで使うことにしようではないか。ついでに晩ごはんとして何か買ってしまおう。ちょっと緊張しつつ、店に入った。暖房がよく効いている。ここも小倉なんだよなあ…。店内は混んでいた。
  私の順番がきた。訛りが聴き取りにくくまごついて いらいらされたらどうしようかと思ったが、さすがにそれはなかった。無料ドリンクを渡して、これひとつください、と言うとすぐに、以上でよろしいですか、と、やや硬い顔をして畳みかけるので、すぐに決めた、照り焼きを一つ頼んだ。店員の表情はほぼ変わらなくて、それが反ってよかった。

  品物を持って店外に出た。外は寒かった。食べられそうな場所は都会駅の駅前にしては結構あるのだが、それだけに迷う。結局駅裏のロータリー中央部の、人のほとんどいない薄暗い路線バスのりばの椅子に座って食べはじめた。風が包み紙を幾度かひるがえす。バーガーを持つ手がとてもぬくい。でもこんなところで冷たいコーラなんか飲んだら用が近くなっちゃいそうだ。

  数分で食べ終えた。軽すぎるけど食事も終えたことだし、お土産を買いたくなった。コンコースへ向かう。改札の横あたりで、大きな掛け声で若い女性二人がとり飯を売っていた。売らないとだめになってしまうようだった。帰宅して余韻に浸って食べたいし、買おうと思ったが、この後、長時間暖房のよく効いた夜行バスに乗らないといけないことを考えると、どうしても躊躇われた。幾度も考えて、結局なくなくあくらめることに。
  それでKioskに入り、乾いたお土産を物色する。選ぶ基準は鞄に入る程度のものとした。そこで、めんべいという明太子せんべいと門司港バナナチョコに絞られ、二つを買った。
  ああ、いっぱしの旅行者の気分だ。3日間の旅行が終わって、賑やかな小倉にも着き、よほど気分が解放されたようだった。しかしそんなふうな時間がいくら経っても、バスを逃す不安は、なくなりはしないということを認識した。
  コンコースにいたが、40分ほど前になり、さあそろそろ向かおう、気を引き締め、駅裏に出た。デッキから見渡す。もちろんバスはない。そして人も集まっていなかった。また不安が訪れる。さて今からは駅裏を監視するか、とはいうものの、じっとしていられわけもなく、1階の鉄警が近くにある灯りの煌々とともった団体集合室のようなところに入ってみたり、何度かKMMビル前にも赴き、またその周辺を歩いたが、しだいに運動と退屈と不安とで体がしんどくなった。30分前を切ると、どうもバス客と思しき客の姿が闇夜に浮かぶようになってきた。しかしまだ待ち客だとは断定できない程度だった。そんなときについにMKKビルのスナックなどのネオンサインがぱっぱっぱと消えた。おかげでものの見事に真っ暗だ。急に物騒めいた。こんなところで待たせるのかよとしょんぼり元気がなくなる。そんな中ながら、20分を切ると俄かに集まりだし、どこかの社員の集合などではなく、ほぼ間違いなくバス客だと思えた。しかし団体客などで、個人客の集合でなかったらどうしようかともまだ考えていた。人の集まりはどんどん黒くなる。みなスーツケースやボストンバッグを持ち、ほとんど会話せず真っ暗なMKKビル前に群がっていた。近づきがたいほど怖い。しかし私もゆっくりと近づく。自分も客なんだというそぶりで。

  23時直前になって、1台、2台とバスが滑り込んできた。ついに来たか、と思う。運転手が名簿片手に降りてきて、親しく名前を呼んだり、もしくは客の方から来いとばかりに無愛想に立ち尽くす。バスに掲げられたツアー名を読んで、客らは一人二人と運転手に近寄り、無事、予約できていた者は、優等生のごとく薄い笑みをたたえてバスの中へ乗り込んでいく。そこにはほっとした心境を押し隠すかのような変な冷静さも組み取れた。私も先頭に掲げられているツアー名を何度もしっかり読み取ったが、自分のものはなかった。まだ残っている客も大勢いて、バスはまだ来る様相だった。
  バスがさらに続々入って来た。着くたびに血眼でツアー名を確認するが、もしかしたらと思うものすらものなく、まったく違うものばかりだった。ついに待ち客も減りだす。強烈な不安に苛まされる。オリオンの運転手は相変わらず安そうなバスの横に目つき険悪に突っ立っているので、あの目は病んでいる、あそこは今度予約するにしてもやめておこうなんて思い溜飲を下げる。しかし私はなぜか予約の段階でサイトがどうも自分に合わずオリオンを外していた。バスなんかサイトしか判断材料がないので、まったくもって大事なものだ。

  もう我がバスの小倉到着時刻はとっくに過ぎている。いったいどうなっているんだ。待ち客も30人ほどにも減ってしまい、すっかり我々は取り残された。けれど残っているみんなが同じバスともわからない。そうしているうちに、バスは1台、2台と発車しはじめた。さすがに不安になっている人が出てきた。
  私は決めた。電話ボックスまで早歩きで向かった。私の行くの目で追っている人がいた。何でもなさそうにボックスに入り、電話する。もちろん緊急用電話番号は控えておいた。しかし誰も出ないかもしれないな。そう思ってコールしていると、通じた。私は単刀直入に、
 「バスはどこですか。」
  と尋ねる。すると担当の姉さんは動じず、
 「今どちらですか? 小倉ですか?」
  その質問の最後は、姉さんも緊張していた。もし相手が博多だ、と言ったら、大変なことになるからだ。しかし私は今小倉にいる。興奮して、
 「そうです。今(まさに)小倉です。」
 「今博多発関西方面のバスは博多を20分ほど遅れて発車してまして。」
 「あ、そうだったんですか」と、私はやはりという気持ちはありはしたものの、とろけるように力が抜ける。
 「お客様のお乗りにバスはテクノ観光バスですね。もう少ししたら着くと思います。」
  バス名まで教えてくれて親切なことだ。
 「テクノ観光バス、ですね。どうもありがとうございました。」
  その辺で電話は切った。とにかく小倉の私の知らないどこかでバスが待っているわけでないことがわかったし、バス名もわかったし、とりあえずかなり安心した。私は一人ゆうゆうと元の群れに戻る。

  それから10分少々して、紫のバスが入って来た。しかし私たちの前には停まらず、随分向こうの方で停まっている。私は目を凝らした。先頭にあのバス名が書いてあるのを読みとった。私は真っ先に小走りに近寄った。すると後ろにいる集団は私の進みゆくのを見て、あのバスが自分たちのか? だってあんなところに停まっているぞ。違うんじゃないのか、と少々、私とそのバスを疑って腕組みしながら日和見している人がいる一方、誰かが近づこうとしている人がいる、もしかしたらあれかもしれない、という人もいたようで、数人はしだいに動き出し、ついに群れは、ほどけはじめた。私はいちばんに添乗員に掛け合った。彼はダブルのスーツを着て髪をポマードでカッチリ固めた人だが、とても気さくでうち解けやすい顔の人で、口調もややおどけてそして親切だった。名前を告げると、機嫌よく探し出す添乗員。そうしている間にも、あの群れから数人ずつ、近づいてきた。もし自分の名前がなかったら。私だけ乗れず、私の後ろに待っている人のために、先導役を果たしただけになったら、悲惨だ。しかしそのポマードの人にはそういう不安はいっさい伝わらないようで、ふんふん気をよくしながら、ええと、と名前を探していた。「はい****さんね、はいっと(蛍光ペンで線を引く)。じゃあ一番前に座席表がありますからそれ見て乗ってください。」
  私は心底ほっとした。私が乗り口に向かっているときも、まだあの群れていたところから人がゆっくり歩いてきていた。
  座席表を読む。すぐに同じ名字を見つけたが、下の名前が違っていて、不意打ちを食らわされた。胸に衝撃を感じながら、すぐにほかのところを探すも、ない。気が動転し、目が泳ぐ。やはり名字はその人のしかない。大変なことになったと思い、さっきの添乗員に駆け寄り、あの、名字だけ一緒で下が違う名前しかないんですけど、と伝えると、えっ! そんなことって、あるの? ええっ…、と名簿を繰る。しかし急に自分の確認不足が不安になって、もう一度見てきます、と言うと、あ、じゃ、そうしてみて、とあっさり私を帰して、列をつないでいる客の名前確認の仕事に戻った。大きく構えた人だなと思ったが、それにはわけがあった。
  さて、もう一度読み直すと、バスの一番前のしかも左端、こんなところに自分の名前があった。運転台と隣り合わせになった表記の席ゆえ、動揺の中では席と認識しづらかったようだ。また砕けるように力が抜けるも、胸をなでおろして運転士にこんばんはと挨拶して車内に入り、席に着いた。いやはや。
  こんなに落ち着いていなかったのはまだ全然慣れていないということもあったが、行きしのバスで、何人かが予約ミスで来訪しないという事態を、事細かに客全員に伝えていたので、やっぱり予約ミスってあるんだ、と怖くなったことも関係していた。何がどういうきっかけで勘違いするともわからない。

バスの座席に着いて。フロントガラスからは新幹線小倉駅が見えた。

  さて運転士を紹介しよう。50歳後半ぐらいで、バスと同じく紫のジャンパーを着た、眼鏡のやや真面目そうな、細めの感じの人だ。さっきの添乗員と引き比べれば運転手らしいと言えばらしい。ときとして無愛想なのではないかと想像するきっかけを垣間見ることもあったが、ときどき入って来て冗談を言うポマード添乗員と、硬いながらも笑って会話しているので、そうではないとわかった。

  客は順調に車内にどたどた入って来る。中年前くらいの女性連や単行女性がしばしば目に留った。九州旅行の帰りかもしれないし、九州に帰省して関西に戻るのかもしれなかった。九州と関西はやはり結びつきが強く、九州内のいろんな人が関西に出てきている。

  突然私の隣に40初めごろの男性が立ち、今晩、よろしくおねがいします、と言って座ろうとするので、私は一瞬、よろしくって何をなのだろう、なんて思ってしまった。言うまでもなく、いくら夜行バスで隣り合わせにならざるを得ないとしてもやはり他人同士、何かご迷惑を掛ける可能性はあると言えばありそうで、その節はひとつ見逃してください、というような意味で、いわばただの相席の挨拶だった。私はその人が着席する寸前に、あ、どうも(こちらこそ)、よろしくお願いします、と言い終えることができてほっとした。
  しかしこんな礼儀の方がいらっしゃるとは。恐縮の至りだ。私は行きしのバスでは何も言わなんだ。それでこれをきっかけに、何かお話でもしようかと、内容を考えはじめたが、相手の挙動を身じろぎもせず観察すると、別に会話したそうな心の準備もしていさそうだし、また夜行バスでしゃべる、というのは消灯前でもやはり基本的には最小限にとどめるべきかと思ったので、いろいろ悩んだ挙句、何も私は話しはじめなかった。でも話そうかどうか迷っている間は実に苦しかった。相手にあんなことを言わせて、その後返礼したといえども黙ったままなのだから。礼儀と言うより、あの人は不安だったのかと思いはじめたりもした。自分にそうさせる要素があったのだろうか…。

  女性連が小用があるとかで添乗員にことわっていったんバスから出るとき、「なんかバスが寒いんですが」と笑みつつ言った。すると運転手、気難しい顔で、「もうすぐ暖まりますから」。女性連が去った後、運転手はまったくもうという感じで、にやっとした。

  そろそろ乗客を捌けたようで、金釦ダブルスーツの添乗員がほいほい車内に入って来た。車内の人数を通路を歩きながら人差し指で数える。この仕草を見ると、ああ、もうすぐ発車なんだな、と思う。トイレ休憩などで停まり、出発する前も、必ずこの確認がなされる。運転手が、
 「そろそろドリンク出さないと。」
 「ドリンクどこだっけ?」
  とポマードダブルスーツの添乗員。ほんと服装に呑まれな、いい人だ。
 「そのボックスに入ってんの。蓋開けて適当にその辺に並べて、出しといて。」
  と、私の目の前の据え付けボックスに視線を送る。ここに入っているのか、と私は鶏のように首を突き出す。添乗員は缶を次々に取り出す。しかし彼はチューハイを取り出してしまい、
 「おおお、これだしたらダメなやつだ、イヒヒヒ」と、げびて笑って、また元に戻し、ソフトドリンクを出そうとする。しばらくしてまたチューハイが出てきて、
 「あああ、また出ちゃった、イヒヒヒヒ」
  そんなことを何回も繰り返していた。私の目の前で。それで私へのコミュニケーションの一種かと思い、ぜひそれを一本ください、なんて言おうか、否、言わなければならないかなと思ったが、案外真面目な顔でいや駄目ですなんて返されそうなので、我慢した。

  結局みんなにソフトドリンクが配られた。私のはミックスジュースでげんなりだ。しかしこの3日間野菜不足に違いないので、ありがたく頂戴した。
  そうしていよいよ出発というころ、女性二人がバス乗車口に走り寄ってきて、このバスだと思うんですが、と名前確認を希望した。添乗員は、
 「え! まだあんのかな。もう終わってるけど。」
  運転手はまともに冷たい。
 「うちはもう全員確認終わってるから。」
  それで二人は追っ払われた。私は同情した。予約ミスだ。なおほかのバスはすべて、もうとっくに出発していて、転回場にはこのバスだけだった。最後に出るのが、このバスだった。
  バスは夜の冷たい空気を折り戸で隔絶し出発した。ぐわん、と転回場を曲がる。そしたら。まだKMMビルの前に数人が困ったように立っていた。時刻は0時の数十分前で、明らかにもうバスはない。 ああ、あの人ら今夜どうするんだろう、と思う。幸い小倉はホテルが多いから、旅行者なら、そのどれかを当たるしかなさそうだ。

  本道に入り落ち着いたところで車内放送が始まる。ええ。みなさまこんばんは、本日はロイヤルツアーバスをご利用くださいましてありがとうございます、とポーマード添乗員はいつになくまじめにやっていた。自己紹介のほか、運転している最中の運転手の紹介もして、夜行バスゆえほかのお客様の御迷惑にならないようにとのことや、トイレ休憩、遅れればその省略のこともあることなどが伝えられた。
  夜行バスはナトリウムランプの、きれいで、すいた道を走る。空と路面が同じ黒色だった。バスはそっと北九州を抜き出し、早くも関門海峡に差し掛かる。緑の看板には門司などと書かれていて、ああ、このまま寝ているだけで大阪や京都という看板を見ることになるだなと思うと、贅沢やありがたみが感じられた。夜行バスの運転がとりわけたいへんな任務であるがゆえでもあった。
  添乗員は運転台を見渡せる席に着いていて、ときどき運転手と談笑している。運転手はそれに硬い笑みながら応じて、ほどほどに冗談のわかる真面目な人のようであった。今思えばこういう添乗員のおかげで、運転も少し気が楽になるかもしれないし、夜ながら脳も働くかもしれない。しかし夜行ゆえ数分で切りあげられ、添乗員は運転手の真後ろの席に座った。そこも二席あるのだが、一席は空いている。ブッキングなどではこれを使うのかと思った。

  さて、関門海峡も渡ったし、もう少ししたらまた目を開けてみるか、というぐらいの気持ちで、窓に頭を倒した。しかしそうしたが最後だった。さすがは旅行帰りの乗車とあって、ほとんど覚えていない。3日間の疲れを周りを気にすることなくさらけ出していたようだ。
  深夜に2,3回休憩で停まったのはなんとなく覚えている。というのは隣の人以外にも、停まるたびにトイレに必ず行く人がいて、眠たい頭ながら閉口したものだ。行っておかないとという不安もあるだろうし、四列シートなので疲れを感じていたのかもしれない。しかし私はといえば行きしも帰りしもトイレに行かず、またシートで疲れることもなかった。これが昼行便だと、そうはいかないのだが、夜行は、なんともない。

  何やら急に大きな放送が流れて、目がふわりと覚めた。最後のトイレ休憩です、という。目の前の運転台からは群青色の未明空が見え、バスの中も外もなんだかやたらそわそわしている朝の始まりで、自分だけが遅れたような気にさせられた。朝5時50分、三木サービスエリア。別に用を足したくないけど出てみようかと思ったが、やっぱりやめ。毛布を引きよせて、ほどほどに数時間後の到着の心積もりをするにとどめた。

三木サービスエリアにて。

まもなく大阪駅前。

  それからもまだ私は眠って、気付くともうとっくに明るく、都会の高速道を走っていた。「お疲れさまでした。まもなく大阪駅前です。」 やがてヨドバシカメラなどが見え、広大な駅前の一角、特にバス停でもないところにバスはよろよろとと停車する。鉄道と違い、ささやかな交通史の一幕だった。ここでほとんどの人が下車した。
  時刻は朝7時。私は京都まで乗るから、座ったまま、どたどた通路を歩いていく人らを見送っていた。下車が終わり、荷物の引き渡しが終わると、添乗員はバスに戻ってきて人数確認をし、手元の乗客名簿と照合した。残ったのは10人と少しくらいで、今日は多いとか少ないと会話していた。

  京都に向かって高速道を快走する。麗しい晴天で、帰途についている私は、つまらなかった。そういう空をむなしいねたましい思いで眺めつつ、約1時間後、京都駅裏、八条口前に着く。挨拶ぐらいしようと思っていたのに、添乗員と運転手はすぐバスを降りてしまった。私はゆっくりと降りる。すると突然、ありがとうございましたと大きな声を掛けられた。出口で運転手が待っていたのだ。こんなふうに先にしてくれるとは思わなずうれしかった。ツアーバスでもとても楽しいものだ。私の前に降りた人は目移りするようにキャリーを引いて、駅に向かっていく。それを見て、そうか今日から京都旅行の人もいるんだ、と気付いた。今日は晴天。でも私の旅行はこれで終わり。しかし旅人の輪はこうして延々繋がっていくのであった。

京都駅八条口着。

九州都市周遊 : おわり

追伸

こちら今回使用の切符。

おみやげ。

  門司港は行っていないが門司港レトロバナナ餅。開けて食べてみると、駄菓子という感じだ。めんべいはからみがあって食べやすく九州らしい味で、人気だった。何よりも二つとも箱がほどほどの大きさ、よくあるクッキーの平らな箱などの半分くらいの大きさ、というのがよかった。なかなかちょうどよいサイズの土産は売っていないものだ。もらう人のことを想うなら、多少大きいものも持ち帰るべきなのだろうが…。

追追伸

  九州旅行から帰って何日か経った、よく晴れたある朝の11時ころ、気温はまだ10度もないが、窓を開け、空気を入れ替え、春初めころの爽やかな冷たい空気を部屋に満たしながら、まだ旅帰りの感覚とあってテレビが新鮮で、何となく点けていた。すると、糸島半島から郷土料理の手こね寿司を作るのを中継するとかで、思わず釘づけになった。「ついこの間行ってきた九州じゃないか。」 あちらもよく晴れていて、菜の花と玄界灘などが映し出された。
  太い男の人が地元の明るいおばさんに指示されて作っている。なんでも菜の花と海水を豪快に使ったちらし寿司で、その男性が最後に菜の花を思いっきり絞り、刻んで、おばさんはそれを、御櫃の上から「飛び散らかしてください」と指示して、できあがるような、野趣溢れる料理だった。
  春を讃える元気のいい九州だったが、そんな料理が、気持ちが、わかる、わかると、固唾を呑みつつ黙ったまま目を丸くして画面に向かい、共感していた。この前行って、九州の春の海を渡る風の心地よさと、菜の花を見たばかりなんだから。もう今はもうこっちに帰ってきちゃったけどさ。友好的な感情は沸きつづげ、こっちだって、と、春の到来を分かち合いたくなり、まだなんだかんだいって寒いにもかかわらず、いっそう、外気を部屋に招き入れた。玲瓏な空気と微かな香り、そして晴れ空のもとのじっとしていられないような寒さ。今年もいろいろ出かけたい。今年の天候は不順か否か、さて。そんなことを考えはじめる時期に、もう出掛けてしまったんだね。まだまだこれからだよ。これから人々の動き出しはじめる長い長い季間がはじまる。