山陰海岸小旅行
2008年10月
とりあえずは福知山まで
むわあと降りかかる霧雨を浴びつつ寒がりながら福知山の手前の野っぱらの無人駅で一時間をやり過ごし、下りに乗る。福知山で悪天ならもう帰ろう。空(す)きはじめた 湿度の高い車内のモケットに下ろした腰はどこか浮かし気味のままだった。でも詰襟の男子がまだ歩いている石原(いさ)を過ぎ、終点に近付くにつれて、霧はましになり、薄光が差しはじめた。高架だから大気の様子も掴みやすかった。
福知山駅コンコース。
福知山駅は無意味に大きく新しく、私に用事のない人物が着飾っているかのようだ。こんなところまできて新しい大建築の駅に出会ってまた頭の中に靄が立ち込めた。操車場を移しただけのことはある街が待ち構えているだろうか。尤もまたこのへんにも来てみたいとは思う。しかし今はそういう気持でもない。下り山陰線はなかなか遠くに来た感じを持たせてくれないな。何もかも新品で硬質な構内に佇み、次の豊岡行きを見ると、現在遅れが出ているというではないか。しかも30分という。
「もうこれは終わったな。帰還決定だ。」
力なく自分を嗤いながら、すべてを諦める。なんでも、播但線「はまかぜ」が途中で不具合が出たらしい。私が乗るつもりの下り豊岡行きは、そのはまかぜの接続をしないといけないため、列車は出せない、と。そんな放送を繰り返し流していた。駅員の姿は見えない。高架下のきれいな事務所でしゃべっているのだろう。
幾度も空を拝んでいると、ほんの微かだが、霧が切り開かれていくように見える。見えるだけかもしれない。何度も中空に目を凝らした。すると、だんだん頭がおかしくなってきた。豊岡から来た福知山止まりの運転士が居たので、思い切ってあっちの方はどうだったか聞いてみようかと近寄るが、恥ずかしいのでやめ。ただの怪しい人となった。
結局、帰還するなら乗らねばならぬ上り列車の発車を、電鈴とともに見送る。よし、じゃあ豊岡までは行ってみよう。な。豊岡でだめだったら帰ろう。
豊岡行きはすでに入っていたから、もうおとなしくそこに収まった。客は3人ほどで、びっくりするほど少ない。それもそうだ、ここからは県境を越えるのだもの。だがしかし今までの道程もあたかも県境がいくつもあったような感じだから、人模様で判じたようなものであった。
何ともいえない、どっちつかずの心境で、がらがらの列車にちょこんと座ってうなだれていると、まだどことなくは白いが、どうにかこうにか明るい白色になりはじめてきた。そして無事はまかぜも着きやがって、車掌も、遅れていたはまかぜが到着しました、信号変わり次第発車します、まもなく発車します、と、にわかに慌ただしい。私の心も、慌ただしくなった。わが普通列車は放送通り30分も遅れて発車。これで豊岡での滞在時間が大幅に減ったが、とにかく行こう、だってそこでだめなら豊岡でゆっくり滞留することになるわけだし。
遅れを取り戻すように快走し、手はじめに上川口、そして下夜久野を目指す。ここからはかなりの登りらしく、杉林の先端が窓に近かった。そのころだった。杉の先端に垂れる霧が急に、豁然と開け、青空が切れて霧の反射がまぶしくなり、列車は一瞬、雲海の上を走ったのだ。その爽快感は言語を絶した。下夜久野に着くと、すっかり晴れ渡った。やっぱり霧の日は晴れるんだと脱力した。なお後日、この一連の霧は「丹波霧」という、たいへんに有名な濃霧であったことを知った。この日の霧が、今秋はじめての丹波霧で、ニュースにさえもなっていたようだ。この霧は深いことで知られ、雲海を見るためにわざわざ訪れる人もいるという。しかし頭のもやもやがなくなるという意味で、霧の晴れたようなという表現は、こんな当意即妙の意味だったのか。頭の中の状態をけっきょく自然現象に置き換えるのは、望まれる方へと持って行きやすくするためなのだろうか。
晴れた峡谷の山裾を汽車はゆっくり走り、ぐうんとみごとにカーブすると、鱗のように車体の腹を惜しげもなく窓から見せた。しだいに山陰に向かっているのだという感触が、確かなものになっていった。
標高が下がるとまた霧になって、一喜一憂させられる。これが秋の山陰への道なのかもしれない。まことにしつこい霧。そしてその霧のまま長らく走って、終着、豊岡に着いた。
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