寝台特急「日本海」に乗って

2009年5月

 

  初夏に寝台特急日本海に乗ることに決めた。目的地はとうぜん青函だ。そう決めてからは、すべての遠出を取りやめ、冬から春にかけての3か月間、毎晩夜中に、呻吟して予定を立てた。ゆくゆく江差線は営業を終了するという。そんな、と思ったが、江差・木古内間はなるほどやむをえなさそうだと思えた。しかしそれ以外の区間もなんだか きな臭くなってきている。そういうわけで、ともかく江差線のすてべの駅に降り立ってみることを予定の柱にしたのだった。そして夢中になりつつあった知内駅にぜったい下車すること。そいでから竜飛海底駅も危ういというし、行きたい。ならばついでに竜飛岬も。してからに竜飛海底見学最長時間となる列車で下車すること。8年前降り立った懐かしい青森駅周辺で、そして未だ知らざる函館駅でたっぷり滞留すること。
  しかしこれではおもしろい知内や、江差・木古内間、を除いて、押さえるところを押さえているだけのようでつまらない。よっておもしろそうな砂原周りのいくつかの駅を入れ、流山温泉につかる、そいでもって大沼公園をゆっくり散策。そして森・長万部間の海に近いすばらしいところに降り立つ。
  これだけのものを全部込めようと5日間計画で立て始めたが、とうてい、不可能であった。制限要因として著しい、最長時間見学となる唯一の列車で竜飛海底に降りることや、そこでの滞在時間、また上下2本しか停まらない知内駅下車を入れると、ほとんど残り3日とちょっとになってしまう。さてよく考えると竜飛海底見学料金は安くもなく、またそれと同じ日に道南を入れると窮屈になりそうだった。よって断腸の思いながらも、竜飛海底と竜飛岬は、ばっさり斬り捨てた。代替として津軽今別を訪れることを思いつき、決定。ここなら津軽線でも行けるから制限がひとつ外れる。

 

  とりあえずこれらを目的に5日間で予定を精密に組みはじめる。すると日によっては少し時間が余るくらいになり、余裕ができた。だが間延びしたところもあり、満足できないものだった。そのせいか、5日間こなすというのは、自分にはできなさそうに思えてきた。そこで、これを4日間に圧縮することにする。4日間で収められれば、ほぼ青森函館フリーきっぷ1枚でなんとかなる。せっかく立てた予定を勇気をもって解体し、部分的に利用できるところは残し、どこを捨てるかを考え、一から見直す。行く日までに間に合うのか、毎夜 焦燥感に囚われた。なにせこの旅行のために出控えているのだから。まず変数の一つ、江差線は、江差・木古内間 と 木古内・五稜郭間に分ける、という考えを、とりあえず固定してみる。ひと駅はずせば、江差・木古内間は列車本数が少ないにもかかわらず1日で意外となんとかなったのだが、各駅で時間を取りつつの木古内・五稜郭間がなぜか難しい。列車本数が減る上磯以南がどうしても埋まってくれない。もちろん日没時間も考慮に入れている。道南バス時刻表と駅最寄りのバス停を苦労して調べ上げた上で、バスや徒歩での来訪も考えたが、列車時刻表をぐっと見つめると工夫すれば期間内にぜったいいけるはずと踏め、青森に着いた1日目にできるだけがんばって入れて、あとは分割してまんべんなくすべての日に入れることで片がついた。
  こんな旅情もなにもない話はつまらない。しかし、限られた時間で最大の効果を、一瞬の旅心極値を出す多くの機会を、となると、こんなことも考えないといけなかった。それに北海道は知っての通り本数が少ない。道南はまだまだ、ましなんだけど。
  何日目にどのセットを入れるかも悩んだ。1日ずつの予定の組はできても、それを並び変えないといけない。範囲の最北が森駅と狭いため、セットの入れ替えが可能なのだった。ひと駅抜いた木古内・江差間を、そして函館の日を、何日目に入れるか。あまり乗り気ではなかったが2日目早々に山間区間の、木古内・江差間を入れた。
  圧縮の過程では、大沼公園散策を白紙にした。ああ、初夏のすばらしい大沼の想像が消えていく…。当然、フリー区間外の森・長万部間も削除された。流山は最後まで迷い、結局入浴時間も入れて流山に降りるパターンと、砂原回りのほかのいつくかの駅をおとなうパターンの2つを作ったが、最終的に流山の予定を解消した。入浴料も安くないし、昼に風呂なんてちょっとのんびりしすぎて、もっと動きたいと思ったのだった。知内は最終日の午前の便で下車し、道南バスで木古内まで戻る。そしてその日に江差・木古内間で残ったひと駅を入れて、最後の最後に津軽二股を使って津軽今別に行く。そして青森に帰着。これで押さえるところは押さえ、行きたいところにも行ける得心行く計画になった。そして出来上がった計画を見て、これは欲望を整理する数学なのではないか。そう思っていた。

  3月、4月と、この旅のための買い物をこつこつと遂行していく。シュラフ、メモリーカード、電池など…必要なものも、予定も揃った。そして5月になった。しかしここまで来て、急に行く気がなくなってきた。誰が北海道まで来てこんなふうに駅ばっかりに降りるしんどいことをするんだ。やめ。やめやめ。ふざけるな。
  5月下旬に入り、ほんとうに行くのか? 行く気があるのか? ほんとうに"あれ"に乗るのか? と繰り返すようになり、行く寸前にはもう頭がおかしくなった。字義通り身もだえしていた。本当に寝台特急に乗るのか。乗るのか。乗れるのか。うまくいくのかこんな計画。机上でのできごとでしかないんじゃないか。どうしよう、死にに行くようなものだ!
  5月のある日、5日後の青森発東京行きのバス便を、震える手で予約した。してしまった。した。それからは実際に息も絶え絶え、ひたすら頭を振って、あえいだ。ああまさか自分がこれまでのこんなくだらない生活をこんなにも愛していたとは! もうこんなふうな特別なことは何もいらない、ただ毎日同じことを繰り返し、無事過ぎ去っていくだけでいい、しかし予定を立ていざ行こうとする段になってこんなに日常にしがみつくこうとするとは。
 あたかも出番間近で舞台袖に入ったかのように、頭は上気し、熱病に侵されたようになった。これから私主演の演劇が始まる。舞台は青森・函館。荷物は食料と飲み物を入れて6キロあった。もうそろそろ、出ないといけない。

  午後16時を回ったころ、もうすでに気持ちを決めきったようになっていた私はみどりの窓口へ行き、「寝台特急日本海に乗りたいのですが、B寝台、あいてますか」と低い声で訊くと、女は急に改まった顔をして、パネルを見せてくれ、硬い感じであいている席数を教えてくれる。私もまんざらでなさそうな表情で、B寝台1つを抑えさせる。たいそうな。たいそうな書き回しだ。空いてますか、なんて訊いたが、十分空いているのはサイバーステーションで知っていた。またすぐ埋まるものでもないことも知っていた。乗車券もそろえて、いったん机の近くに移動すると、もう出て行ったと思ったのだろうか、みどりの窓口内からこんな声が聞こえる。「さっきの寝台特急日本海っていってた人、あの…」 その後ちょっと笑い声が聞こえた。何だろう、何て言ったのだろう。まだここにいるんだけど、と乗車券を買い足すため再び窓口に行くと、全員の顔がきりっとなった。私は想像する。「一人旅なのかしらね、寝台に乗るんだっていいな。」ではないかな。私は得意になっていた。
  みどりの窓口を出たあと、私は自分の長ズボンのある一部分が開いたままになっていることに気づいた。まさか…。信じられん。頭がぐらぐらした。

  ふだん着のいつもの列車に乗り京都に向かう。夕刻で混んでいるが、誰一人としてまさか私が今から寝台特急に乗って青森、はてには函館にまで高飛びしようと目論んでいるとは思わない。唯一なものを感じた。
  京都で下車。緊張した足取りで階段を上り、雑踏の橋上コンコースを歩き、それから階段を下り、堂々たる0番線ホームに着く。しばらく眺め回す。ここが舞台の始まりか。もはや肚が据わって緊張はない。

京都駅。

 

 

奈良線ホームに立ち寄ってみて。

左:改札内コンコースより。
右:0番線ホームへ。

  まだ発車まで時間は十分ある。そこで、日本海に乗るときにはきっと、と思っていた、0番線ホームにあるフライドポテトやたこ焼きの自動販売機での食料調達をするため、その自動販売機を見に行ったが、なくなっている。あたりをくまなく探したが、なかった。気落ちして乗り場に戻る。願いが一つ叶わず、意気消沈した。駅って本当に変わっていくものだ。

 

 

 

 

  乗り場に戻ると、私はしきりに同じ列車に乗る人を探そうとした。あの人かな、あの人らかな。しかしどの人も先行のサンダーバードや雷鳥ばかりで、やってきた列車に乗っては消えていく。やっと日本海の放送が入った。しかし付け足すように、この列車、車内での販売はございません、あらかじめご用意くださいますようお願いします、なお、停車時間はわずかとなっております、お乗り遅れのないよう、ご注意ください、と流れ、びっくりした。車内販売までなくなっていたのか。寂しいなあと思いながらも、これでは何も食べないことになるので、早速すぐそばのKioskに今夜の食べ物を買いに行った。中の人は忙しそうで、私が商品を手に取ったまましばらく時間が過ぎた。1番線に立つ人からじっくり見られるを背中に感じた。旅始めの私の姿を見てほしいという思いもなくはなかった。
  LED灯の号車案内についに日本海1号が表示される。Nihonkai No.1 という表示と交互だ。周りはサンターバードなどが発着していたさっきと比べ、目に見えて人が減っており、やっぱり少ないんだと思った。混雑していない寝台車内が思い浮かぶ。

 

  幾度も日本海の案内と車販がないとの放送が流された。しかしついにその案内も最後となったようだ、その案内の直後に、先頭の機関車がどたどたとかなりの速力で入ってきた。停車時間はわずかとなっております、念を押すよう、そう流れる中、真に青色に塗られた客車が流れて行く。匂いなんてするはずもなのに、もう車内の寝台モケットの匂い、古びた空調の匂いが、ホームに立ちこめて、頭痛がするようだった。停車時間に注意ね。わかったわかった。乗る人はもうこうとなっては号車位置なんて気にせずとにかく扉をかいくぐりなさい、そういうことだね。

鉄の塊が投げつけられて来る雰囲気。

  私は自分の寝台があるわけではない、最後尾の号車のところにいた。わざと違うところから、乗りたかった。列車は連結部の鉄の甲高くこすれる音を立てながら停車する。目の前で、何度も思い描いた青い折り戸が開く。もう青森の空間は、ほらすぐそこだ。ここさえくぐれば、くぐれば…。しかしそのとたん、誰かが横切って、私を突き飛ばそうとした。そうこうしているうちに、ああ… なんてことはない、当たり前のように私の体は自分の意思で前に進み、ステップを踏み、中へと入り込んだ。そしたらすぐ右に、扉あけ放たれた後尾の車掌室があり、そのガラスの展望席に 思わず魅入られていると、ごつい車掌は太い声で気さくに、手を客室の方に差し伸べ、どうぞ先に中へお進みください、と身振りをつけて言った。初めての客が迷って、入り進むのをためらったか、そこで検札するのかと思ったのではないか、と考えたのかもしれないし、ただ早く行けということかもしれなかった。私は急ぎ足で狭い通路を歩いて、自分の寝台の近くまで来た。そのときだった。寝台車特有の大窓から、駅風景が動き出したのは。ほんとに早く出るんだな…。どんどん大理石の0番線は流れていってあっという間にホーム終端に差し掛かかった。そこにはカメラを持った人らが塊になっていた。大きな窓の向こうのその光景に、知らぬうちに目を見開いていた私は、自分が撮られているような感覚だった、そしてそれで自分が劇中の有名な登場人物になった気にさせられた。でも、「みんなはもう乗ったのだろうけど今日はお見送りの番だね、私は今から乗ってきます!」 京都の「おたべ」の広告塔が流れていく。しかしもう一度最後につぶやいたのは、「行ってきます」だった。誰にも告げずに出立してきたのだった。

  突如車掌の明るい声の放送が入って、おっ、と、びっくりさせられ、気分がにこやかなものに変わった。「京都からご乗車のお客様にご案内いたします、この列車寝台特急日本海青森行きです、なお停車駅はこの先のトンネルを出ましてからご案内いたします」。そうこう言っているうちにトンネルに入る。山科に抜けるトンネルだ。車窓は早速黒くなり、ごおおと優しく音が客車にこもる。私は寝台に荷物を置く。硬めの白布、毛布、枕、ちゃんと浴衣がある。これぞ寝台列車だ。私は半狂乱になりながら枕元の机を繰り出したりしまったり、また、ライトをつけたり調整したり、柵を出して固定したりと、寝台列車の仕掛けを何度も味わった。トンネルを抜け山科に出るが、なんと山科駅を通過。新鮮すぎだ。特急だ。そのころ車掌が現れ検札があった。やけに早くくるんだと思う。車掌も早く検札を終えて、車窓を眺めたいのかもしれないが、もとい、発車直後の方が寝台に当該の切符を持った人がいるということもありそうだった。
  隣のコンパートメントの元気そうな高齢の登山者風4人組は、まだ酒や弁当を出さずに談笑していたのだが、車掌が帰りに通りがかったとき、そのうちの一人の女性が、「ちょっと暑いんだけど、冷房か何か…」とひと言申し入れているが聞こえた。私はすべて聞いていなかったが、ただ車掌の「それはお約束できるものではありません」とはっきり答えたのが聞こえて、優しいげなばかりではなく気高く、けれども尊大ではなく上級旅客として扱う、そういう物腰が窺われて、さすが寝台特急の古風な車掌だと思わせ、時代の見境が消えたようで、旅情が高まった。

きれいに整えられた寝台。ここが今夜の巣になる。

二人で乗車すると語らいの場になる?

これで1コンパートメント。定員4人。上下とも同じ料金。

通路に立って見ると上段はこんなふうに見える。

2階の荷物室から見た、上段の様子。上段には誰かが乗るかもしれないから、崩さないように気を付ける。しかし、上段はたいてい3人組以上での利用時に使われることが多いため、たいていは空き。しかしこれも繁忙期になると事情は大きく変わる。ほかに、2人組で下段二つ取れない場合に、上と下どうしでや、隣り合う上二つ、という形で取る場合もある。

上段から景色を見るのはしんどい。そのため、景色を見たい人には不人気。下段から予約は埋まっていく。直前になると、禁煙は上段しか空いていないことがある。繁忙期や休日には、喫煙の上段しか空いていないという、吸わない人には絶望的なこともある。

青森支店と書かれたリネン会社の袋。 青森からやって来たんだこの列車は。ここはまだ京都。

ハンガー(えもんかけ)の置き方が繊細。

梯子の終わりの様子。

 

リネン袋のあった荷物入れ。人一人寝られそうだった。

見下ろして。割と高い。

左:わざわざプレートにて注意。
右:灰皿跡?

こんなものもあった。

湖西線を走りゆく寝台車。青森方。

  列車はあっという間に西大津に出るが、またもや通過する。この駅は好きだからじっくり見たいと思ったが、かなり速度を出していたらしくすぐに抜けきってしまった。この辺で停車駅の案内放送がなされた。案内は日付が今日のうちに停車する駅のみを案内したようで、なあんだ。湖西線の駅は一つも停まらぬまま列車は快走する。私はひと駅ひと駅通過をしかと見届けたかったが、なにせ通過は思いのほかこともなげで、無理があった。それに車窓と車内風景とが兼ね合う魅力に困惑して、車窓のみを見続けることが、到底できなかった。
  ここでこの日のお天気情報をみなさんにお伝えしよう。午後6時、滋賀県北部、気温 ℃、曇り。福井県嶺南、気温 ℃ 曇り。青森も現在も曇り、しかし明日は次第に晴れてくる見込み。そういうわけで、琵琶湖の風景は雲が垂れ込め、夕日は少しも見られなかったが、この先の旅に、胸膨らむような天気だった。
  琵琶湖の方だけでなく、山側も見た。窓直下の椅子を引き出しておとなしく座ってみるも、そんなことをするには時刻が早く、落ち着かない。比叡山系を背景に住宅地がよく現れる。しかしいつもの湖西線の車窓とは本当に違って見えて、それは停車駅で区切られていないことや、これが客車であることが関係しているのだろう。おや、となりのコンパートメントでは早くも賑やかに酒盛りをやっている。見てみると、50歳から60歳ぐらいの4人で、弁当を食べながら実に愉快に談笑していた。酒は、発泡酒やチューハイだ。私はもはやその楽しげなる様子に惑溺する。目が合うと、互いに気楽に会釈した。もうそういう列車なのだったここは。私は貴重品も荷物も置いたまま、迷惑ながら車内を巡り始めた。どんな人が乗っているのだろう。どんな目的なのだろう。どんなドラマが…。

琵琶湖側の景色が見える。

こちら山側。

日常的な景色も映る。それを寝台車で越える。

 

宮台を繰り出した寝台の風景。

当5号車(このときはオハネ25 220) 客室の大阪方出口。この先にホームから車両内に出入りできる折戸のあるデッキがある。ごみ箱などもそこ。携帯での電話もそこでするのかもしれないが、客室より走行音が結構大きい。

消火器と空調パネルはここ。

デッキに出て。たぶん比叡山坂本あたり。湖西道路の高架が写っている。

こちら琵琶湖側のドア。こっちのほうが手前にゆとりがあり、出やすい。 ドアのロープや反射する明かりが何とも言えない。ロープはそこに入ると折戸に挟まれるため掛けてあるもの。ランプは足元を照らすもの?

 

こういうランプって今はもう使われない。 全光、減光、保温、温水器、給電、火災、となっている。

客車の電気室に当たる部分だろう。

こちらは冷暖房配電盤。
給電、冷房1、冷房2、暖房1、暖房2となっている。

夜はこのランプどもが静かにともる。

幌を越えて隣の4号車へ。というのも、車両内で大阪寄りの寝台の人は、 こっちの方がトイレや洗面所が近い。それでも自分の車両内のものを使うものなのだろうが…。この女性専用車両の表示は今は無効のもの。「日本海」ではそのようなサービスをしていない。

4号車は、オハネフ24 15。車両の青森方にはこのように必ずトイレと洗面所がしつらえられている。

何かとステンレスが目立つ。しかし冷たいとは感じない。

5号車への扉。

トイレは近いのだが、この重ったるいドア二枚を開けないといけない。 というか、客室を出る前にもう一枚軽い扉があるから、計三枚。

幌。

三面鏡のある洗面所。4号車、オハネフ24 15。

 

電気シェーバーやドライヤーなどに使う。むろんどちらも持参して来るもので、置いてない。

洗面所は二つある。

4号車客室への扉。

ブルートレイン名物、飲料水。さっそく二三杯頂いた。

右:毎月一回消毒されている。

こちらはトイレ。黄緑すぎる。あまりに激しい揺れのため、使用中に 体制が間違いなく崩れる。

4号車客室へ。左下のは暖房器具。洗面所周りを暖める。 青森行きの列車なので、冬は活躍するだろう。

4号車に侵入。列車はまだ堅田の手前。便所知らせ灯があり、これで狭い洗面所へ確認のため行き来しなくて済む。

  車両は基本的にどれも同じ造りだが、私はどれだけ車両を移動しても、同じには見えなかった。あるコンパートメントでは、2人で向かい合いながら静かにしゃべっていたり、またもくもくと弁当を食べているところもあった。単行もまれに見た。
  それぞれ車両の終端に来ると正方形の小さな号車札が壁に入れられていて、その数字だけが確かに変わっていく。客室を出る薄く上品ながら古風の扉は茶色か黄色な透明板が入れられている。そこを抜けるとだいたい洗面所やトイレになっていた。細かいところまでステンレスになっていて、なめるようにして観察した。ロマンチックだ。ふだん説明して言い換える前の言葉が、そのまま出てくる。
  飲料水。折りたたんだ紙コップを開き、注いで飲む。確かに、寝台車に乗っている。幌の近くだから連結部がコヒ、コヒコヒと音を立て、次の車両へと開け放たれた扉の日本海のヘッドマークがこちらを見つめている。私はいたずらに幌に長いこと立った。体に染み込ませるかのようにだった。

 

4号車客室内の風景。特に変わりなく。

 

5号車自室を経て、5号車の洗面所へ。

5号車青森方にある洗面所。

オハネ25 220。5号車。この扉を越えると6号車へ。

オハネ25 220の洗面所は先ほどのものとは少し違って、水色がない。

 

 

では6号車へ。

さっきいた洗面所がこの向こう。このように型板ガラスになっている扉もある。 こっちの方が古そうな感じがする。

6号車デッキ。さっきの車両と違い、客室の薄いドアを出て すぐドアのあるデッキとはなっていない。ここは第1デッキ。

 

重いドアをくぐって、第2デッキへ。一角に更衣室がある。

6号車客室へ。なぜかオレンジの色づけが焼けてなくなっている。

6号車客室に入ってすぐのドアの脇。6号車はオハネ24 19だ。なぜか幕が下ろされている。

客室通路を経て、6号車客室青森方突き当たり。トンネル内での火災の場合は使用しないで下さい、と、緊急停止ボタンのパネルにシールが貼ってある。急行きたぐにの食堂車で起こった列車火災事故に端を発する。

薄いドアをくぐって、6号車の洗面所にて。向こうに車体のドアが見えている!

このハッチから向こうが11号車。6から11に飛ぶのは、繁忙期、ここに7から10号車が増結されるため。

11号車デッキ。パネルなどがやはり異なっている。ほんとに一両一両違う。

取っ手が背の低い子供でも開けられるように配慮されている。

琵琶湖側の風景を覗いて。

11号車のデッキから、6号車の洗面所を見通して。左脇と右脇の扉は、乗務員室。

 

寝台車のデッキの激しい揺れとともに、 ヘッドマークと顔を突き合わせて見つめてやった。

左手更衣室。

11号車客室に忍び込む。オハネ25 202。

15番は1コンパートメントの定員が二人。ぜひ乗ってみたい。

大阪方に見た11号車客室内の様子。

堅田 - 近江舞子。

11号車の洗面所。

この車両のトイレは枕木方向だった。黄緑でもない。

洗面所を抜け、A寝台たる12号車のデッキにて。 B寝台と異なり、洗面所は大阪方にも青森方にもある。

比良あたり?

  ついにA寝台の前まで来た。A寝(エーシン)はグリーンのことになる。といっても実際は要人より、趣味で乗っている人が多い。それでも関係ないならあまり入らない方がよいのだろうけど、どうしても私は電源車の手前まで行きたいし、それに、別に入ってはだめということもないから、やや緊張して扉を推しはじめた。広がるA寝台の世界。それはなんと好き勝手に繰り広げられる華やかな宴の世界であった。人が寝台から乗り出し、通路向かいと食べ物をつまみながらしゃべったりと会話や行動が闊達で、楽しもうと吹っ切れた感じだった。A寝台がここ1両しかなく密度が高くなりやすいこと、また2人以上で楽しむとなると構造上通路を挟んでやりとりせざるを得ないのではあるけど、全体的にやはり派手で、高貴ながらも少し羽目をはずしたような感慨があった。しかしこれならB寝台の方に乗りたいかな。入ってすぐ右手にボックスシートがあり、そこでは小太りな30くらいの男がテーブルに、ぼん、と高級カメラを置いていて、いやあ、僕も実にいろいろな列車に乗ってきました、彗星では、といった感じで痩せた男を前にして自慢話に花を咲かせていた。A寝台に乗ったら、この場所でこうするのが夢だというか、流儀だといたいような様相であった。ちらと目が合うが、別に互いに会釈しない。私は闖入者だった。グリーン車にお邪魔します。
  そつなく歩き通る。造りとしては、このA寝台は寝台とレールが平行で、窓を寝ながらにして独り占めできるのがB寝台との大きな違い。無事端まで来て、最後の扉を推す。そこは電源の音響く最果てだった。ここが最も青森に近く、最北端なのだ。それより先は荷物室となっていて、鍵がかけられていたのだった。ふと越えてきた扉越しに、知らずに入ってきたのかな、なんて声が聞こえる。A寝台は、なんでも明け透けだ。早々に退出して、B寝に戻る。乗車人数の具合はというと、今のところ一つの車両に4,5組いるか、まったくまだ乗ってきていないか、のどちらかぐらいだった。二人組もあれば、三人組もあった。四人組は少なかった。

いよいよA寝台。一見静かだが、まったく違う。

A寝台客室を抜けて。

ちょっと妙な空間に押し込められかけている。

飲料水機の奥にあった窓。なんでこんな形にしたんだろう。 潜水艦のようだ。風景は間違いなく比良付近だろう。

A寝台の洗面所。

左:痰壺。結核に関する法律に基づいて作られた。
右:コンセント。

 

いよいよ電源車へ! …しかれどもドアは開かず。

A寝トイレ。

  自分の寝台に戻る。北小松を過ぎたところだ。もう薄暗い。荷物を整え、寝台に投げ捨ててあった黒の上っ張り外套を引きずりあげて衣紋掛けに掛け、洗濯しすぎて仄かに蒼みがかりさえした濃い鼠色の毛織を一枚脱いで、浴衣を着はじめた。文様として散らばるJRのロゴ。現実のいろんな悪しき歴史もいっとき忘れて、独りで悦んでいた。寝台に横になる。列車内で横になるって、よく考えるめったにないことだ。座って見ていたときの背凭れシートが体の横に立ちはだかり、上は、上段が迫ってきている。カーテンレールを何度も目で辿った。一度はがれたらしく、粘着剤の跡が濃く残っている。もうこの車両も古い。でもみな大事に使ってきたのだ。

 

琵琶湖がよく見えることがあった。

 

湖西の棚田を映す窓際の席。

北小松を通過。

 

 

北小松の浜辺がいったん途切れる印象的なところ。

山を抜けて。

 

どっちの気分?

湖西線のただ中ではまだリネンを崩す気は起きない。

 

しかしそろそろ…。

  またすぐに上体を起こす。冷たいガラスの向こうには、厚い曇のせいで湖水や水田がいっそう淀んでいる。暮れの時間が知らず知らずのうちに近づいていたらしく、あたりは雲のせいと見せかけて、そこはとなく暗くなっていつつあったらしいようだった。
  列車はすでに高島に入っているらしい。薄暮の曇りの田圃ばかりの風景は、私を落ち着かせ、蛍光灯の燈った車内に、視線が籠るようになった。
  高島平野を抜けしだいに にび色の湖水が再び近くなるころ、雲塊の向こうで日が落ちたらしく、あたりは芯から暗くなった。夜行列車だもの。これからだよ、と自身を鼓舞するが、祭りより、祭りの準備が楽しいというような、黄昏のうちから走る夜行列車の贅沢が終わった車内は、すでに つまらない真面目さの衣を装いはじめていた。

 

近江今津にて、停車中の117系に別れを告げる。

 

今津を越えると近江も果てになる。

 

マキノ。

左:背凭れのモケットはあまり使う機会がないが、起きている間にここに凭れて、 柔らかさを味わった。
右:ついに寝台を調えた。

 

 

 

寝るとこんな感じ。

 

 何か駅らしいところを通るな、と車内灯の反射する窓ガラスを懸命に覗きこんで凝視 していると、その風景から永原だ、と数秒経ってから断定した。何年か前ここに降りたときに見憶えていた永原小学校が明度を著しく下げて見えたのだった。もう湖西線も終わりなんだ。トンネルに入った。次が近江塩津のはずだ。こんな具合だから、暗くなっても、私は落ち着いていられないというわけさ。ともかく近江塩津、そして敦賀を見るまでは気が静まらなさそうだった。

  列車は夜を迎えたばかりの近江塩津駅に入っていく。しかしあろうことか、速度を落としていた列車は停車するらしくついに、ガコン、と客車が最期的な音を響かせて、息途絶えた。まさかこの先で事故などあったわけではなく、通過待ちだろう、と思うのだが、この列車も寝台なだけに、こんなところで停まってしまうと、先の方の事故で乗車が反故になってしまうのではないか、と少し不安になる。ともかくそうでなかったらドアからこの駅を見たいし、出入口に行って見よう、と浴衣姿にスリッパ突っかけて、客室からデッキに出た。暗いデッキは外の匂いがした。薄汚れたドアのガラス越しに塩津のホームや電柱がたしかに見えた。寝台特急日本海は今確かに、北陸に入るのを前にして、近畿最北端のこの駅に、停車している。すると突然、空気音を立てて折戸が緩んだ。車掌がふらりと現れ、失礼します、と一言断って、慇懃な様態で私の前を横切り、その折戸から、トンとホームに足付けて降りていく。ドアが開くとは思わなかった。たぶん実際に外に出て、やり過ごす列車を目視するのだろう。私も出てみたくて仕方なかったが、車掌に丁重に帰されそうだからやめる。ただただ、開いたドアから冷たい夜風が忍び込んで来ていた。
 外に出るんだ、と放心しつつ自分の寝台に戻った。窓には県境の深い山が黒く映っていた。

近江塩津。

 

 

ドアが緩んだ。

 

近江塩津駅に出る代わりに、喫煙車両を覗いてみた。

この編成はJR東日本のもの。

この車両には転落防止の網があるが、少し趣味悪い。

喫煙車両は空いているのが常だが、休日になるとそうでもなくなる。

喫煙可能な車両、4号車を出よう。

幌を経て3号車(禁煙),2号車(禁煙)を抜けて、1号車(喫煙可)へ向かおう。

1号車、オハネフ24 21 (喫煙可)の終わり。この車両が最後尾。

阪車の車掌が足を組んで悠々と景色を眺めていた。近づくと危険。

自室に戻って。近江塩津 - 敦賀。

  列車は無事、ぐらりと動き出す。次はほどなくして敦賀だ。各停列車にある頻繁な放送もなく、車窓は早回しのまま、いつしか山を抜け、敦賀機関区が見え、敦賀に停まった。1時間20分ぶりの正式な停車だった。ホームは煌々と明かりがともっているだけで、人はおらず、乗って来る人はほぼいなかった。降りる人はいるわけもない。まだ午後7時半ごろなのだが、敦賀の夜は早いようだ。

敦賀駅着。

北陸電力の広告塔によると、気温は17度。 しかしここまでよくアルプラザの屋号がよく見えるとは。

 

敦賀駅の同じホームには普通福井行きが停まっていた。日本海が19時43分に出た、その24分後の20時07分に出る。

北陸トンネルに入ったから食事にしよう。

  敦賀を出たので、食事をしようと手を洗いに行くと、デッキに一人、三十半ばの女性が立っていた。敦賀まででまず見かけなかったし、また、いかにも乗ったばかりといういでたちだったので、敦賀から乗った人であった。私は特に気にすることもなく寝台にいったん戻ったのだが、食べはじめたころ飲料水が欲しくなり、再び洗面所に向かうためデッキを通ると、まだ立っていたので、これは車掌が切符を売りに来なくて困っているんだわと思い、別のところの客室に居るのをたまたま見かけた車掌のところまで赴き、お客さんが切符買おうと待っていますよ、と、その方向に手を差し伸べた。車掌の思わず目が点になったが、そちらに向って行った。

  漆黒を流す車窓は、ほんの短い間 さささと仄白くなることがあり、小駅を通過したのだとわかった。差しかかるときホームの端は暗いため、昼の特急とは異なり、客車らしくややゆっくりと、そこにはまったく闇しかなかったかのように、短い生命を急いで白々と映し、後は元通り、坦々とゆき過ぎてゆく。熊がむかでを、素知らぬ 穏やかな顔で、音もなく踏んでゆくかのようだった。
 敦賀を出るといつも普通列車で行われる面倒な検札もない。王子保や北鯖江などの通過を寝台車の車窓から見ていると、普段と違って、すべて下級のものに見え、下々のものとして捉えられた。北鯖江の工場を示唆する赤い眼鏡のサインを見届けた。王子保の明かりは青色だった。「こんなところでも」。飛び込みなどの抑止のためだった。

  福井に着いた車窓を見つめていると、あの人が一人だけでホームを歩いて行くのが見えた。車内改札のない普通列車代わりにしていたらしかった。人を信じ切ってしまっていたようで、力なく笑えたが、あの後まだ彼女がデッキにいるとしたら、福井で降りてほしくないな、と願いつつ、窓を見てもいたのだった。
  つましい雪国暮らしの反抗をきどった熟れはじめたその人物は、ちょうど賑やかで好きにやってるA寝台におけるように、鷹揚に、華やかに、階級者がするようなやり方でときに計算づくで傍若無人に振る舞っている、些細な事象は本気にしないはずの彼らに、薄くらいデッキで脅え体を硬くしていたのを想うと、なんだか不憫だった。

 

 

 

自分の巣の様子。寝まきを寝かせてみた。

 

随分と暗くなったものだ。

寝台に籠って。

福井駅着。

足を伸ばしてみる。

隣客が来たためこんな風景。

 

  列車はいっそう浄らかに、そしてさらに冷たくさびしく、真剣に走るようになった。福井を出て北陸が深まったこともあろうか。これで、青森まで、行くのだ。そしてそれから、函館まで飛ぶ。そいでから4日間動き回り、帰りは、と考えると、重圧に苦しめられるようになった。だめだ。こういうときは先のことを考え過ぎたらいけない。今は、とりあえず、この列車にしっかり意識して乗り続けることだ。どうせなら何もせずにいるのでなく、この浄らかの寝台車を抱きしめるように、うつ伏せになるとするか。 体が路盤を這い進んでいるようだった。

  車掌が蛙声で「次ハ、加賀温泉ニ停車シマス。ナオコノ列車車内販売ハゴザイマセン。 次ノ加賀温泉駅デハ五分ホド、停車シマス。」 そうか、次はホームに降りられるんだ。まったく休めないというものだ。
  福井を出てしばらくしてから、隣の寝台に人が乗って来た。ちょうど私はカーテンを引いて半ば籠っていたので、カーテンを開けるに開けられなくなってしまった。すでにひそひそ声の検札が来たのも聞き、隣では何やら、物音だけがしている。まだ私は寝るには時間は早いし、またやっぱりカーテンを開けたくなったのだが、その人が来たときにはあたかも寝ているようにカーテンを閉めていたのに、なぜか中途から開け放って、そのままにするというのは、なんだせっかく寝ていると思っていたのにと眉をハの字にされたりびっくりされたりしそうなので、自分のカーテンを内側から何となしにつんつんつついたりしていて、未だ眠らざるを知らせるという、なぜだか小心者の様相を呈していた。言うまでもなくそのまま過ごすつもりはなかったし、このまま早々と蟄居するのは耐えられるわけもなく、また、やはりお隣の旅人が気になって仕方なくもあり、ついに息苦しくなって、そうだ、トイレに立つふりをしてカーテンをさっと開けよう。そして洗面所に行けばいい、と、しばらくしてからひと思いに、カーテンをしずしずと引いた。すると隣の寝台の端に四十前のぽっちゃりしたスーツの男性が腰かけて、にやにやしながら携帯電話を操っていた。ビジネス利用らしくて意外だ。

  自分の寝台に戻ってからは、カーテンは半分くらい開けたままにしておいた。どうせ加賀温泉でまた出るわけだし。
  福井を出てまもなく、静まりきった蛍光灯だけの加賀温泉駅に、列車はゆっくりと停車しつつある。まだわずかに当列車は動いているが、もう私は靴を履いて、ドアのところに向かいつつある。
  開いたドアからは、車体から発せられる電源のような、空調のような音がびーん、ぶーんと夜の駅にひたすら響いていた。薄手の浴衣姿ではまだ寒いほどで、凛然たる空気が新鮮だった。こうして外の空気を吸い、駅の風景を見ると、戻ったときにまた寝台車の構造や、あの匂いに酔いしれることができるのだった。ほかにホームに出てきている人もあり、あたりをきょろきょろされていた。どうも売店を探しているようだ。残念ながら加賀温泉駅にはないし、仮にできたとしてもこの時間にはとっくに閉められるだろう。人によっては車掌の、5分ほど停車します、だけで、売店があると思ってしまうかもしれない。結局、きょろきょろしていた人は、自動販売機で一本飲み物を買って戻っていった。それにしても北陸の駅の夜は本当に早いものだ。考えられないくらいで、ホームには人が二三人しかいない。しかしそんな早くに休んで家庭に帰っているような落ち着いた北陸が私は好きである。早々と誰もいなくなったアーケードとテールランプの街を開いている店を探してさまよい歩くのが。

加賀温泉駅。外に出た。

 

 

 

隣のコンパートメント。いびきかいて寝てる。

自分のコンパートメント。

  蛍光灯の白い光がさらさら落ちる夜の肌寒い近代的な堰堤の温泉駅に、遮断機の警報音が鳴り響く。この寝台特急が通過待ちをしていた特急サンダーバードが接近する知らせだった。もうそろそろ寝台も出るな、と思う。ずっと遠くにいる車掌と、ほか数人の客とともに通過を見送ると、私は早々と車内に入った。車内に暖房の入っているのがはっきりと感じられ、複雑な寝台車の作りに視界を狭められながらも、造られた小空間の多いことから、和室の作法に似て空間というものを感じた。

  寝台に戻ると、隣の御仁がいない。用でも足しているか、ねじたくを洗面所でしているのかな、と健やかに考えていたが、後で洗面台に行ったとき、隣の車両を扉を開けずにたまたま覗くと、その向こうで数人が群がり黙りこくって煙草を燻らせていて、その中に、あのスーツのぽっちゃりした隣人がおり、少しがっかりし、再び私は失態をしてしまったようだ。
  古くなった蛍光管が、鈍く輝いていた。寝台列車だけは旧時代からのままで、周りの考えだけが変わっていったようであった。人々はただ目の下に薄隈拵えて、奇跡的に生き残って来た人々のように思えた。

  寝台と特急の料金を支払うのは上客だろうか、ホテル代わりということもありそうで、こんなのは今でも別にいいとされているようなところもありそうな感じがした。ちなみに寝台を使用しつつ煙草を吸うことは、火災の危険からあの喫煙車両でも禁じられているので、どうしても窓の下の椅子に座って吸うか、立って吸うかということになる。

  私は独り寝台に戻り、コンパートメントに一人になった。またカーテンを半開きにしたまま、中に入って寝巻きの裾をはだけてシーツを敷いてある寝台の上に座って、窓側にかかったカーテンを手で脇に寄せつつ、ガラスに目を近づけて、夜の車窓を、ここはどこか、と考え込みつつ凝視していた。
  すると隣の人が帰ったのだが、彼は寝台に入って、カーテンをきっちりマジックテープで閉め、すっかり籠りきってしまった。それや明日は仕事だものな、と、急に真面目になった彼に、身分の弱い旅人の私は威圧される。その後、そのカーテンの向こうで何やら妙な音がしている。軟らかいプラスティックの容器をパチパチいわせ、それから何かをふもふも、と食べる音……弁当だわ。ちなみにその人は食べ終わった後、最後に一服吸いに行き、戻って来ると、それからはもう出て来なかった。

  私ももはや車内の通路などの空間は見飽きたので、カーテンをしっかり目に引き、自分だけの空間を作って、相変わらず車窓を見つめたり、横になったかと思えば上体を勢いよく起こして、また窓の外を見たりと、結果的に腹筋運動を一人でやっていたようだった。車販があればこんなときこそ高くても買うのに、と思う。何か食べたいが、もう手元には明日の朝の分しか残っていない。だから風景を見るしかなかった。
  ついにカーテンをいちいち手で寄せるのが面倒になり、窓の部分だけ、カーテンのフックを外すことを思いつく。やってみると期待通り、寝台にいながら、風景を見られるようになって、よろこんだ。もちろん降りるときには戻すさ。寝台車内の彫刻のこの部分の可塑性は十分すぎるくらいだ。

こんなふうにカーテンを外す。

 

 「これは……これは明峰だ」
  加賀平野のまっただ中なので、夜ならなおさら車窓を特徴づけるものなんてないが、いままで懸命に下車してきた私には、真っ暗の駅でも少し見るだけで駅名標がなくともどこが判別できるのだった。
  ここは北陸の真っただ中だよなあ。最も安定している、けれども、じっさい北陸のただ中にいるという現実は、北陸にいる実感とはこんなつまらないものなのかと思わせ、喪失感を与えられた。想像していた世界に実際飛び込んでみると、もう想像の世界はそこにはない。まだ福井あたりではわくわくしていたが、北陸三県も佳境に入ると、もう祭り の後片付けが見えるようだった。

金沢着

 

  21時29分、金沢に着く。ほかに寝台特急「北陸」や夜行急行「能登」もこの時間帯に出る。ホームの売店などは当然閉まっているが、各ホームには数十人の人がおり、さすが都会金沢などと思う。自分の車両に乗って来る人も数人いた。
  金沢を出ると、駅前がなんとなしに見えるが、やはりほとんどのビルはもう眠りについていて、この先はもう夜が深くなる一方で、黒い日本海ばかりなのだなと思わされた。金沢を出て10分ほど経ち、乗って来た客らが落ち着いたと思われる21時42分ごろだった、細くするすると放送が入って、「車内にはすでにお休みのお客様もいらっしゃます、これより照明を暗くさせていただき、また、これよりさきは放送を終了させていただきます。この先の停車駅と停車時刻、は、高岡22時3分     富山22時18分     魚津22時40分    糸魚川23時20分。 直江津23時50分、日付変わりまして新津1時26分 鶴岡3時31分 酒田3時55分 羽後本荘4時55分    秋田5時35分 東能代6時30分、次の放送は東能代からになります。それでは、ごゆっくりおやすみください。」
  プツッ、とスピーカーが切れる。客車があの世に突放されかたのようだった。車内は早くも減光がなされ、通路の窓の上の、弱々しい蛍光灯の列だけになり、夜の帳 午から纏いし濃夜色の列車はこうして闇の時間を走りつつ真の闇を纏い、旅人の物思いに耽る顔を、鏡になった窓が映し出すようだった。

  隣人は微かないびきを立てて寝ていた。私は一人飲み物片手にむくりと起き出し、薄くらくなった通路の窓の下の椅子を引き出して、静かに、腰掛けた。窓の外には白や橙の街灯がたまに見えた。こういうころあいにこうしてこの椅子に腰かけるのが夢だった。だが、じっさいやってみると、かなり手持ちぶさただった。冷たい窓に頭部を倒して、客車の振動を、頭蓋骨に伝わらせた。窓よ。おまえはなんでそんなに硬くきれいに四角なんだ。なぜ小物がほとんど金属でできているのだ。男と男が抱き合っているようではないか。しかし現実には、公なものと、制帽かぶりし男の車掌と、青暗い車体と、無言で対峙しているだけだった。

減光した車内の様子。

  みな本当に休みはじめたのだろうか、と思い辺りを探る。隣のコンパートメントの酒盛りしていたご年配の四人組は、とうに撃沈しているし、スリッパ突っかけたままほかの車両や洗面所などをちらっと見に行ったが、ほとんどもう人の動きはなかった。ただただ、連結部のこすれる金属的な甲高い音と、淡々と車輪の進みゆく音が、客車内にこもって響いている。夜間、波に身を任せひとりでに揺れたゆとう幌、鉄板に足を乗せると、自分自身の体も支えきれないくらい揺られた。赤や緑に光るスイッチのついた分電盤まで来ると、折戸が非電気的な仕掛けによる感じで、口を閉じ、日本海側のとあるどす黒い町をひたすらに流しつづけ、車両という函を、青森、まで運んでいる。このデッキにいると、客室よりも列車らしい音がよく聞こえた。

寝支度に洗面。

 

 

夜の抒情。

 

結局空調はどうしたんだろうな。

まだ客が来ていない15番の寝台。

 

我が巣。

 

  私は寝台に戻って、引き籠った。カーテンを引き回し、通路側の枕元に三角ずわりし、 カーテンを外してある車体側の窓からの光の乏しい風景を、映画館にいるかのようにして眺めた。
  高岡に着く。車掌の約束通り、もう放送はない。夏にここを訪れたことがあった。私はまたちょっと通路にそっと出た。あの高岡じゃないか。思い出のさ。しかしこうして夜行で通ると、高岡は、北陸の中の都市のひとつにすぎないことを伝えるがごとく、駅名標に灯りをともしているものだった。

高岡着。もっぱら工事中だった。

 

 

  再び映画館に戻り、富山に着くまでごろんと横になった。カーテンで車内灯は完全に遮断されているため、枕元の蛍光灯をつけて、明日の予定を確認した。今のところは順調に決まっている。だってまだゼロ日目さ。先の方の予定は見ないようにしよう。気疲れるするだけだ。
  灯りは豆球にもできた。安らから眠れる感じだった。しかしそれも消すと、本当に窓からの夜の弱々しい街灯だけになった。ときおり店なのか、強い白い光が差し、寝台内に大きな掌の影ができたりした。

富山駅。仮設ホーム。

富山駅前の夜景。

  富山に着く。都会に着いた感じがして、日本海側をひた走っている感じが少し薄れた。ホテルや広告塔のネオンだけはりっぱに輝いていたが、誰もいない感じだ。北陸の夜は早い。もう夜10時過ぎている。

  さてこの辺になって、いつまで起きているか考えはじめた。とりあえず、なんとか親不知駅の通過を見守り、しばらく停車する直江津までにしようと決めた。そしてそこから先は、ちゃんと寝る。
  次の魚津までまた横になる。ときどきは枕元だけ帳(とばり)を開いて、外の通路などを覗いて楽しんだ。車内は暖房が入っているが、試しに寝巻きを はだけたりみたりすると、はっきり寒い。白い布カバーの付いた毛布が一枚あり、それをかむっても、何だかうすら寒い。そこで寝台内をきちんと整えはじめた。改めて びしっとシーツを敷き、衣服を整え、掛け毛布を端から端までシッカリ掛ける。そうして布団の中に入ると、仄かにぬくみだした。備え付けの寝巻きだけでなく、もう一枚着ればいいのだが、薄着で寝られなくては疲れが取れないし、血行不良にもなって寒く感じるし、また衣服が湿って重くなり、この先の長旅を考えるとそれは損なのだった。厚手の余所服を着て寝ずにすむのは贅沢なことだった。助かるものだ。
  もうすでに窓の外を観察するのは疲れて、ほとんど横になったままだった。一応魚津で上体を起こして停車をしかと見届けたが、こんなとこで誰が乗り降りするんだ、と暴言を吐いて、また横になった。

魚津駅。誰もおらず。

  しかし次は糸魚川になるし、すると親不知の通過になる。かといってずっと窓を見張っているのはしんどいし、寝台ももったいないので、適当に接近を予測して、上体を起こすことにした。この辺は特に下車を繰り返したし、とりあえず駅さえ見れば夜間にもかかわらずすぐどの駅かわかるという自信もあった。
  車内が乾燥してきたのか、喉が渇いてくる。車内に販売機でもあれば思い出作りに多少高くても買うのにとまた思う。飲料水があるのだが、ぬるく、またなぜか飲むとさらに喉が渇くようだった。
  横になっていると、周りの気温が少しばかし低いのか、なんだか体が火照ってきて、このまま眠られればいいのに、と思う。ころあいを見てふっと起き上がると、泊駅を通過している最中だった。もう泊か。あと三つ先だぞ。そうしてじりじり窓で待ちつづけた。窓からは道路の橙の灯がときどき見える。たった一台の車が真っ白なライトで闇貫き 走っている。

  親不知駅はまだ先である。あの駅に着くにはトンネルを必ず二回抜けなければならないのだ。それが合図だと、自分はよく知っていた。長いのが一本。そこを抜けるとっい駅だと思ってしまうような明かり区間があるが、さらに短いのを一本抜けた、その先にある。
  また途中の駅に差し掛かる。ホーム側に白い木造の回廊の付いて、そこに「親不知…」と書いてあるのを見るや否や、しまった何か勘違いしていた、と目をむいた。ぼんやり見過ごしたことに、落ち込んだ。でもおかしいよな、なんでこんな手前に親不知駅かあるんだろうね、もしかして、自分は正しい? と訝しがりつつ、窓を再び覗き続けた。するとトンネルに入った。やっと抜けたところの雰囲気からして、やっぱり親不知駅はまだだったと確信する。そう、あの市振駅は親不知駅と双子の兄弟の駅なのだ。おととし行ったときそう思っていたのを思い出した。
  案の定二つ目のトンネルに入る。この次だ。短いはずなのにじりじり待っているから長く感じる。抜けると、真っ暗な中、上の方に旧道が見えた。客車の連結部が、油の足らなくなったような鉄どうしがこすれるときのように、ヒ、ヒッヒと音を帳の中に響かせている。蛍光灯のいくらかともる構内に侵入し、ついに燦然と光を放つ親不知駅が見えた。誰かいるか……誰もいなかった。そしてやはり市振よりも、もっとくたびれて潮風に傷められたような趣きで、真打だと思った。それにしても、去年は、夜にあの駅からこの寝台特急日本海を見送ったなあ、と、誰もいないあの駅に、自分のいる姿を思い浮かべた。そのことを思い出しつつ、こうして列車に乗りながらにして、あのときのように駅にとどまっている気分になろうとした。実現自体は不可能な話だから、そこからは、天空の目から見た想像の世界が始まるのだった。列車に乗りながらにして、列車そのものが風景の中を走っているのを外から眺める、または時間を止めて外に出ている感覚を獲得するという、できないことを、いろんな形で人々は表現しようとしているのかもしれない。走り去る列車の真剣な撮影、必ず列車を使っての駅への乗降車(前後の列車は一本とのもの考える)…。
  寝台列車に乗っている気分になりつつ、自分は電燈の点いた親不知駅から誰かと一緒に居て、「もうすぐ『日本海』が通過するよ。あれに乗って夜中ぼんやりこの駅の通過るするのを眺めていたことがあるよ」と、にやつきながら、列車の到来を待っている。しかし実際にはそんな芝居はたいへんむなしく、つまらないものだ。

 

  親不知通過を見届けた私は、ごろんと横になった。もうこれで気が済んだ。あとはおまけで機関士の交代する直江津を確認し、そのあと本気で入眠しよう。青森には8時40分ころに着くから、その2時間前に起きるとすると起床は朝6時半くらいだ。直江津に着くのは0時前。6時間半も寝られれば十分すぎる、と予定を組み立てる。
  糸魚川に到着すると、もう闇の奥底に沈みきったような雰囲気で、それを見たら、できるだけ早く眠りに着きたくなった。深夜、日本海側のとある街に、人知れず寝台列車は停まっていたのだった。いきなり、車掌の笛が遠くで響き渡る。

糸魚川駅。

  私は小さな自棄(やけ)を起こしたかのように、糸魚川を出ると、横になっていたがために頭が重く感じるのをおして、通路に出て、窓の下の椅子に自分にちょっと呆れつつ腰かけてみた。髪がほんのり温かく、また重くなっているようだった。窓はすべてロール式の遮光布が引き下ろされていた。どうも車掌が巡回したときにすべて閉めたようだ。それを少し開けると、唐突に自分の顔が映し出された。醜悪な結果に落胆する。しかしその自意識の向こうを見透かすと、じんわり滲むように泣いているようなナトリウムランプと、どこに向かうともつかぬ国道と、黒い黒い海が、自分の乾いた目に映った。しかし、見えたかと思うと、はっとそれらはトンネルに攫われた。北国街道の真っただ中を走っているようだった。ふと葬式の帰りや、日本海の向こうの、国交のない異国が思い浮かんだ。あんな橙(だいだい)な道にここから独り放り出されたら、たまらない気持ちになるだろう。さいわい、自分は今、青森に行く、時間そのもの、時間という乗り物に、乗っている。ところどころ駅で時間を止めるにもかかわらず、ここにいさえすれば、深夜の海沿いの国道をゆくなんかより和やかな気持ちで、旅心募る青森に向かえる。

  私は寒いから帳をしっかり巡らした寝台に潜った後、たいして窓も見ず、たぶん今は筒石だろうとか考えながら、横になっていた。
  不思議なもので、そう何回も訪れたところでもないのに、夜にもかかわらず辺りの雰囲気がわかるといえばわかって、またトンネルと、感じる経過時間から、直江津の手前の谷浜だろうというのがわかった。そしてついに直江津港内に列車は入り、速度を落としていた。
  直江津に来ると、さすがに長距離の純粋なこの寝台特急も、大きな一区切りだ、と感じざるを得ない。会社境界だし、先ほども述べたように、機関士が交代する。それでここには6分ほど停まっている。しかし車掌は同じままだ。そのことに安心や、一晩過ごした者同士の意識を感じる。ちなみに降りた機関士は、直江津駅近くの乗務員宿泊所で寝るそうだ。
  ホームには緑色ののりば番号が灯っていて、古風で、現実的なイルミネーションだった。さ、これで起きているのは最後だ、と思って、そっとデッキに向かい、開いたドアから、ホームを直接見つめた。しいんと冷えた空気が入ってきた。ホームは最小限の灯りをつけて、眠りに就いている。さすがにホームに足を付ける度胸はなかった。列車が行ってしまったら、というより、浴衣姿では車掌に不安を与えるだろうし、浴衣だと認識してくれなかったら下車するんだと誤解を与えるかもしれなかった。

ひと区切り、直江津駅。

開いたドアから見た外の様子。

 

  直江津では乗った人がいたようだ。無事交代も終わったようで、列車は折戸を畳んだ。じはし沈黙し、少うし経ってから、ガタァンという強かな衝撃とともに、客車は動きだす。けっこう加速したので、やっぱり機関士、変わったよななどと思う。もともと走りやすい区間ではあるが。

 

  私は帳(とばり)を手ではじいて、寝台に潜り込み、白のカバーにサンドされた焼き菓子色の毛布と、布帛のシーツを敷いたモケットの間に、ていねいに滑り込んだ。窓のカーテンは外したままにしておいた。直江津は街だから、ちょくちょく街灯の白い光が寝台内に差し込み、寝台内の様相を、冷たく暗く浮かびうがらせた。直江津を抜けるとそれもなくなった。さあ集中して真剣に寝入ろう。もう外のことはまったく気にしない。忘れる。どこに停まろうと知ったもんか。

  寝ようしていると、いつものようにいろんな考えが浮かび上がって来た。まだ一日目でさえないんだよなあ。このさき数日間もやっていけるんだろうか。こんな独りで、寂しい営為をするのは、まっとうなことなんだろうか。誰かと来られれば、楽しく不安のない寝台列車の旅となるのだろうに。胸の底に沈む寂しさに、車輪の響きだけが埋まる。無機的なものが、隙間だらけに埋まっていく。早く寝てしまえ。明日は明日で薄ぼんやりとはしていられないんだ。予定をめいっぱい入れるのは、余計なことを考えないようにだ。感覚の働きに忙殺されてしまえ。

  どれほど、お利口に仰向けになって安静にしていても、寝入れなかった。眠くなる瞬間さえまったくない。それでいきなり、わざと目をぱっちり開けたりした。しまいには、こんな一糸乱れぬ正統な格好で寝られるわけがない! と心の中で叫んで、寝巻きや毛布を少し崩し、自由な体制をとりはじめた。しかしどれだけ時間が経っても寝られず、経った時間だけ、早くも次の停車が近づいている、という焦りを感じる。暖房が入り、寝具もあり、寝巻きもあって、準備を整えてもらっているのに、眠れないという、期待に応えられないことに、苛立ちを隠せなかった。

  結局、新津到着を知ることになった。眠れぬいらだちから、窓の外なんて見るわけない。 都合がいいと思えはしなかった。十分疲れているに違いなかったのだし、横になりたいのをおして起き続けていたんだし。
  次の停車駅までには寝られるだろう、いや、それほど時間を置かずに停車するんじゃなかろうか、どうだったっけ…調べるものか! とにかく次までには寝ていよう。
  しかし列車は目の覚めた自分をただ横にしたまま運んでいるだけだった。寝ようと努力すればするほど、気が立ってくる。途中で少し寝たのかどうかは知らないが、次の鶴岡停車をなんとなく覚えている。もう心底落胆しきっていた。後で確認すると、新津から鶴岡までは2時間以上もあった。これだけまともに寝られていないのだとすれば、そういう心境になるのは当然だった。

  まだ真っ暗で、誰もが眠りこんでいるに違いない時間だったが、ようやくふわふわという眠たい気持ちになってしばらく経ちはじめていたころ、車掌が隣のコンパートメントの老人登山客4人客を、羽後本荘です、と大きな声で起こしに来て、大いに失望し、睡眠することにがっくり挫折した。彼らは身支度整えてたぶんそういう名前の駅で降りていった。このときは時計なんか見もしなかったが、4時55分のことである。私は横になりつつ、鳥海でも登るのか、と毒づいていた。むろんここまで眠れないのは、自分に責があるというもので、というより、往路は、いつだって眠られないのだ。不安、虚しさ、予定の重圧、体と頭の火照り、しかし、目に見えないほど小さな希望、これらが渦を巻いている。酒に頼ってもいいが、つまらないのでしなかった。それにしてもみな眠りながら夢を見ていると想像される中、自分だけ真っ暗な中で目が覚めて、ただ連結部のこすれる鉄の音を聞いているのは、単刀直入に言うと、ストレスが溜まるものだった。

  しかしその後、諦めがついたのか、本当に眠くなってきて、少々のことではぱっちり目が覚めない感じになりつあるのを感じた。辛うじて薄明るいころ隣の御仁が次の停車駅秋田で降りるのを察知した。ふうん、福井から秋田のビジネス利用か、こんなのもあるんだと思いつつ、その後、とんと記憶がない。

  突然、ばかにうるさい放送が流れて、険悪に目が覚める。
 「おはようございます。本日の日付は5月**日、時刻は6時20分を少し回ったところです。まもなく東能代に到着します。この時間から洗面所などが混み合います。どうぞ譲り合ってご利用ください。なお寝台を離れる際には、必ず貴重品を身に付けてくださいますようお願いします。この先の停車駅をご案内いたします。東能代6時30分、鷹ノ巣、6時56分、大鰐温泉、7時40分、弘前7時51分、終点青森   8時34分に着きます。 まもなく、東能代です。」
  列車はドッドッドッドッと走っている。窓からは一面の白い光が差している。朝だ。そして、非常に気温が低いのを感じる。やっぱり東北だ、北に来たんだ! とにかく寝られたことは間違いない。ひとまずほっとした。それに合計したら2時間くらいにはなりそうで、真面目な顔で首を縦に振った。2時間というのは私の旅先での最低基準なのだった。さて、天気は、と窓を覗く。みごとに空が、真っ白。晴れだといっていたが、薄曇りの中くらいの濃さである。しかし曇天ではないから、辺りが明るく、風景の彩りは豊かだった。もうこの天気でいい、晴れなくてもいい、これで十分だありがとう、と心の中で何度も頷き、眩しさで瞳孔の痺れを感じながら流れゆく水田と東北の森の風景を追った。

 

 

 

我が室内にも朝の光が。

 

うわあ…。

朝の寝台の風景。おはよう。

  さっきの放送に刺激されて、早いこと準備してしまおう、と、洗面台に向かった。揺れる床に立って鏡の前に姿を映させると、やはり寝起きの髪型になっていて、少々慌てる。このままでは街に出られない。蛇口を捻るとお湯が出て、初夏薄曇りの肌寒し東北疾駆する寝台列車の朝にはもってこいだ。となりの洗面台にも人が来たり、背後の便所の扉が開いたりしたが、混んでいるというほどではなかった。寝間着姿の人を見ると安心したが、着替え済みの人を見ると、気が焦った。早くに降りてしまう人もいるのだろう。女の人はたいていもう着替えを済ませていた。洗面所にいる女客は、誰かが使っているか確認する程度の視線を投げかけられるのも、いやなふうがあった。カーテンがついているのでそれを引けばいいのだが、忘れているようで、大概後から引いていた。

  寝台に戻り、帳を開け放った。隣の人はもういない。青森まであと2時間もあるから、体のだるさから少し横になりたかったが、余計に疲れが残るのがわかっているのだから、がまんする。代わりに寝具を片づけず、好きな格好で座り、車窓や、車内の様子に目を向けた。この空間が毎日青森と大阪を行き来している。そのうちの一本にふっと飛び乗っているのだから、そうやって列車が走っていることもそれを任意に選べたことも贅沢なことだと思われた。こんな長距離走行がさも自然に許されているのは、この濃紺の装いひとえによる。曇りの新緑が通路の窓にひたすら流れる中、寝間着姿の人がたまに歩いたり、窓の下の座席を引いて、下車を名残しむかのように風景を眺めている人がいた。

東能代駅。

 

  東能代を過ぎても、私は自分の寝台に座って、風景を見ていたが、しだいに怖くなりはじめた。というのも、もうずっと、田んぼと森しか窓に映らないのだ。いったいどこまで続くのかと思うが、まったく途切れない。田舎や米どころという言葉さえ当てはまらない、我が国の一大穀倉地帯だった。畏敬の念を抱きつつ、こんなところで暮らすとはどういうことなのだろうかとぼんやり考える。

  それにしても本当にうすら寒い。京都で乗ったときと違い、車内はひんやりして、それがいつかは終着駅に着くという緊張感をもたらしていた。しかしまだ列車は私の戸惑いや不安をよそにどんどん北へと向かっていく。曇りだが、ただ何の流動もなくじっと曇っているようなものではなく、雲が低く、針葉樹の森に切れ切れに架かっているのだった。そしてその雲が冷たいだろう風にゆっくりと流されていた。ちょくちょく現れる法面が土のままに見えるかのような川にも、雲は低く降りて、凍える濃霧のようだった。

  急に寂しさが、喉を突いてきた。胸が締めつけられ、苦しくなった。なんで一人でこんな寂しいことをしているのだろうか。こんなことをしても、少しも楽しくない。不安で怖くて、どうしようもない。一人で寝台特急に乗り、普通列車と明らかに違い車掌から丁重な扱いを受け、嬉々と寝巻きなんか着ていたが、朝になってみれば、もう簡単に戻れないくらいとんでもなく遠いところまで来ていて、そして車掌は、私たちの役目は終点まで安全にお客様をお送りするのが仕事ですから、と、青森に着いてしまえば、あとは知らないという様態なのが思い浮かぶのだった。それは当たり前のことだが、誰かと乗れればよかった、と心底思い、もしそうしていれば、こんな朝にも、朝食をとったり、これからの予定を話したり、ほかにすることがいっぱいあったと想像すると、こうべをがくんと垂れずにはおられなかった。

  寝台特急に乗って、終点で日中過ごし、そこから夜に出る同じ寝台特急に乗って帰る人もいるという。列車だけが目的ということもあるし、やむにやまれぬ日程の都合によることもあるけど、そういう手法も、急に、納得できてしまった。
  とにかく先のことを考えすぎるからいけない。

  こんなに外の気温が低くそうで、旅行が続行できるだろうか。上に着るのは持ってきているが、それで何とかなるかな。肌着、軟らかい1ミリ厚くらいの黒、そして2ミリ厚くらいの毛織と、化繊の薄いアウター。さすがにコートはおかしいだろう。上の重ね合わせに、さらに何かもう一枚組みこむこともできるが、着替える分がなくなってしまいそうだった。ともかくその考えを保険にし、大丈夫だと言い聞かせる。

 

  おもしろい地名の鷹ノ巣に着いた。でも「日本海」の乗客には馴染みの駅名だ。6時56分で、これより先、停車が少しの間頻繁になる。鷹ノ巣は朝の客が数人いた。車窓は降りてみたくなるような東北の静かな小町を映している。ほどなくしてそこはかとなく山に入り込み、この先の峠の序章のようだった。山を出てやや大きな街の大館に着くと、なんだかひと休止。 ここを出ると、出羽と陸奥のたいへんに山深い難所を乗り換えることになる。車窓の森の濃さは深刻になり、あたりが暗くなるようでさえあった。今までのことはすべてを忘れろ、と命令する、矢立トンネルに入る。トンネルは長く、私は寝台に足を伸ばして車内の方に目を向けたが、ふとここで寝具を片づけてしまうことにした。もう青森県だ。

 

濃紺の車体が走る。

 

 

  トンネルを抜けると、陸奥の南の山深いどん詰まりに出ることになる。風景は前後して差して変わりない。まもなく大鰐温泉、大鰐温泉です。という蛙声の車掌の放送が流れる。この温泉に入るために「日本海」に乗る人はいるのだろうかな、などと考えたりした。この辺になって来ると停車駅は日本海側東北圏内の移動に使われていそうなものだった。

大鰐温泉駅に入る。

  時刻は7時40分。次は51分に弘前に着く。列車はどんどん標高を下っているのを感じる。矢立峠は相当なものだったのだと思うと同時に、津軽平野が思い浮かぶようだった。
  急に市街めいて、ああ弘前なんだと痛感した。案の定、ラッシュ時刻でホームは混雑し、開かれたドアからはせわしなさそうな構内放送と、冷気が差しこんできた。降りる人も少なくなかった。ドアよ早く閉まってくれと願う。
  無事列車は戸を閉じ、旅情を閉じ込めてくれる。戸が閉まってしばらく間(ま)を置いてから、突然客車がゴトォンと動き出す。先頭の機関車が動き出し、前から順に客車が動き出すのだった。もうこの音も聞くことはないのだ。
  青森まではここから43分かかり、やや頻繁だった停車はここで終わる。最後の長丁場だと思い、車内の空間を溶かして心の中にしまおうとしはじめた。また、すでに服も整え緊張した面持ちで、きちんと寝台に腰かけ、荷物も準備している。降りるときはだらだらせず、すっと降りられるように、しぜんと都市青森に溶け込めるように。

 

  弘前あたりでは弘前盆地に水田のほか、冷たく張りつめた空気の向こうに苹果畑が見えるようになり、青森に来たんだと思え、はっと息をのんだ。そして覚悟していた最後の峠越え、大釈迦峠をくぐるトンネルに入る。もうこれですべておしまいだと思った。これで津軽なんだ。トンネルを抜けると、隣に旧坑口のようなものが見えた気がした。それから写真で見た青森の路線バスが走りゆくのが見えた。来る前にたまたまこのあたりのバスの時刻表を見ていて、もしかしたら寝台特急日本海から見えるかもしれないな、と思っていたのだった。
 「どなたさまもご乗車お疲れさまでした、まもなく終点の青森、に着きます。お忘れ物、落し物などなさいませんよう今一度ご確認ください。まもなく終点、青森です。」

  列車は薄曇りにぼんやりと突き出す古いビル群をゆっくり見せはじめた。緊張して胸が張り裂けそうになった。大都会だと思った。相対的な話だ。もう着いてしまう。荷物用昇降機と傷んだコンクリートのホームが窓に流れた、そして乗り場が映し出された。
  停まる前に荷物を持ち、デッキに向かう。すでに人が並んでいた。どんよりした容態の人や、乗車疲れした人たちのなか、自分だけが緊張していた。エアの音ともに、人々は青森の広いホームに散らばった。

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