道東紀行
2010年9月
再び、寝台特急「日本海」に乗って北海道へ
真夏の8月、劣悪な環境の室内に閉じこもらざるを得なくなっていた。外は輝き蝉の声もやかましく、道路の振動や騒音も激しい。下旬になるとこうして生気の季節を見送ることに我慢できずついに爆発、恐ろしい勢いで道東紀行の予定を立てた。エアコンもつけられない西日の差す部屋でのことだった。「とにかく9月行きだ。でも今からなら北海道は間に合わないかもしれない。ぎりぎりといったところか…。」
日がないのですぐさま飛行機を調べたが都合の悪い便で高額なものしかなく、寝台特急日本海に変更。こうして必然的に寝台列車を選ばざるを得なくなると、乗るのが楽しみで仕方なくなった。おととし乗ったにもかかわらず。
結局、予定としては「日本海」で津軽入りして白鳥で渡道、1日目は南道南で、2日目以降の何日かは道東、釧網本線や釧路湿原、原生花園を回り、網走、そして日付変わって旭川入りする。しかしその後どうするかだ。飛行機取れるなら新千歳だけど…。前回のように津軽まで出て夜行バスで東京という選択をすると、津軽までも適当に降りながら旅行したくなり、そのように計画。夜は当然駅での旅寝となる。
日付だけでいうとそんなのが9日間も続き、かなりしんどいものになることが予想されたが、前回2009年の道南紀行の経験があったのでできそうな気がしていた。あのときうまくいってなければ絶対こんなことはやろうと思わなかっただろう。
9月になると本当に後悔して、なぜ8月に行かなかったのだろうかと。急に夏の北海道に夢見るようになってしまったのだ。夏の道東なんてガスが多いのに、その年は道東は晴れつづきの乾いた酷暑だったのだ。「秋めいたら道東は気候がいいけど、今こんなだとどうだかわからんな」。それに何よりも急な計画だった。心の準備をする余裕もない。あと2,3週間である。
9月になると申し合わせたように夏は元気がなくなった。人々もニュースも急にまじめな感じである。授業が始まり、公務員や官僚もお盆休みの感覚を完全に忘れるに好都合な月の初めといった趣だった。そんなことでは困る! というのが個人的ないたましい想い。とにかく出てしまいさえすればあとは旅が身体に馴染むと思った。
それでも寝台券は最後まで取らなかった。取った日から雨続きだったら流すし、そもそも盆でもなければいつもあいていた。それが普段着の寝台列車のよいところとなっているが、悪いことというより、新幹線のようである。もっとも新幹線ほど客はいないけど。
出発の日の真昼間、荷物の最終パッキングをする。電池の充電もこのときに完了するようにしてある。そして寝袋もスタフバッグに詰め終わる。毎回重さは7キロぐらい。登山のように登りつづけるのならいいのだが、9日間街中歩いて駅降りてでこの重さだと本当に面倒だ。
出発はまだ暑い16時ごろ、夕方前。空いているはずなのだが、B寝をこわごわ聞く。すると、上段しか空いていないと言われ、びっくりした。そんなに乗ってるんだ! しかし上段はほとんど空席だと教えてくれた。廃止の話も関係あるかと思ったけど、その影響の大きさをこの日ははっきりと認めるほどではないようだ。上段にも乗ったことがあるけど、やはり今はおもしろくないので、下段がよかった。不思議なもので、子供のころは上がよかった。でも18以降は、どういうわけか下がよくなった。いまは一人用ロフトベッド自体、敬遠する気持ちになっている。高さそのものがつまらなく、貧しくさえも思えるようなのだった。それゆえあえて、という考えもありそうだった。
ふと冷静になり、A寝はと訊くと、それはもう前からとっくに埋まっているといった口吻だ。そうなのか、と思い、喫煙車はどうでしょうかと乙に澄ますと、喫煙なら下段もわりと空いているという。それでいったん京都まで出て、そこで禁煙の下がなかったら、喫煙の下を取ることにした。
こんな状況に遭遇したゆえから、寝台車に喫煙車を設けること自体異様だな、と、改札に向かいながら息巻く。だって寝台やカーテンに染みついてしまう。「今はそう、ナチュラル、プレーンな「空気」を好む時代になったというわけさ! 量産無地衣料や家具を見てもわかるとおり」 と、気分を快活なものに改める。
京都は雲か厚めだが暑かった。しばらくしてから窓口に行き、確認するとやはり言われることは同じだったが、空いている下段は喫煙車の1つだけとなっていて、すぐに抑えさせた。こちらはこの瞬間埋まったら、と思っているけれど、係りの者はそんなことは知らぬといった冷たさだ。この京都には洋琴演奏者並みの驚異的な速さでタッチパネルを操作し発券する係員が幾人かいるところである。ともかくそうして事務作業にも何とか歓びを見出し競い合うのがこの京都駅ということのようだ。たしか何かそんな社内コンテストがあったと聞いたのを思い出す。
それにしても―こんな急に埋まるものなのか、と。「これはなんかたいへんなことになりそうだな。」 煙に関しては、カーテンしたら大丈夫だろうということにするけど、やはり不安は残る。
ともかく何を悩もうが長期旅行が始まることが確定し、私は京都駅でのんびりした。展望デッキに上がったり空中回廊を歩いたり。祭りはその準備こそが楽しいといったものなのだろう。
車内で食べるために、ふだんは手にしない価格のパンをいくつか求めた。しかし京都でそんな客は珍しくないだろう。これだけ来訪客が多ければ観光地価格の弁当でもほぼそれしかなければ売れるといったところのように想像された。
特急雷鳥金沢行や草津線柘植行きを見送る。「日本海」も雷鳥と同じところまで行くが、青森まで出るとあって出発はより遅いというように捉えられた。柘植行きも「日本海」と同じくらい大きな旅の始まりになるように想像された。宵に柘植まででて、そして津へ、翌朝紀伊長島や尾鷲、何日か掛けて和歌山まで出て、フェリーで徳島へ、そんな構想も思い浮かぶ。
「日本海」は暗い夕もよいにやってきた。これくらいの仄暗さに発つのはなんともいえない濃密なロマンを感じさせてやまなかった。やはり車内販売はない旨が何度も告げられる。目の前に列車が止まり、濃紺の車体の折戸が開く。星3つのB寝台。また始まるのか、と思う。でもこれが自分の選んだ道じゃないか。自分で決めたことだ、と寝台車に乗り込む。喫煙車に乗り込むのは妙に気恥ずかしかった。
寝台車に浪費する勇気がこのときの私にはあった。特別なものを特別でなくし、感官が機能しないことも恐れなかった。鉄道には、そんな寂しい勇気が割と詰まっている。
本当はそれは人との関係を深めるためにあるものだろう。そして旅館に泊まり、ガイド情報を頼って日中に回る。けれどそれができないタームにいる人やもとよりできない人もいよう。そしてそれはしだいに自己目的化に傾いていく。
「いや今回だって乗りにだけ来たんじゃない。少なくとも道東まで行くんだ。それを忘れてる…。」
むろんそれだって、というわけだが、少しは緩和される。
「というか行けるのか? こんな調子で。道東まで?」
行けない感じがする。でも理論上、行けるのである。また、9日間という駅旅を続けられることもわかっている。気力と感官が持ちこたえることが前回の道南紀行でわかっているのだ。つまりこれは手法からのみその可能たることが知られている。こういったことは、この世にたくさんあるように思われた。
暮れなずむ湖西線を往く。どんな人も初めてなら、車窓のロマンに釘付けになる。車掌が初めての体験となる人に接するかのようで、苦しさを感じる。車掌はいわゆるヴェテランで、丁寧で爽やかだった。その爪の垢を煎じて某旧管理局の鉄道員にでも飲ましてやりたい…。
窓辺の座席に腰かけている五十前後の男性。目が合いあいさつすると、「どこまで行くの?」と。「青森です」というと驚いた顔をして、「青森! 遠いね。」 聞き返すと、直江津なのだという。今度はこっちが内心驚いた。なるほど大阪・京都から直江津となると寝台特急を利用するんだ。直江津に着くのは0時前。今は18時半前だ。その人は優雅に煙草に火をつけはじめる。車内においては私も久しく見慣れない光景なので、思わず目をみはった。昭和というのはあけひろげな時代だったな。この人は車内で煙草を吸うのが当たり前の時代が長かったというのが感ぜられた。そういう目で生きているということだった。私もいつしか自分のちょうど今ごろが当たり前の感覚で生き続けるのであろうか。十分現代の感覚に追いついて、体内に実在した時間を元に年下よりもゆったりと汎くを理解しているつもりでありながら…。
人はいつ歳を取るのだろうか、と考える私は、身を焦がされる思いだった。なぜって彼より私が内部的に若いことが痛いほど感じられるからであった。はて、その答えとしては、年下の楽しみが理解できないときかしら。しかしそれだってもともと本来の性質からくるものかもしれない。けれどごらんのとおり、私はきっと初めてインターネットを利用して衝撃を覚えたころに学んだこのやり方しか身に染みて「わかる」ということがないのかもしれないのだった。
寝台車だって同じだろう。この人が利用されているのも、同じ理由によるものが感得された。あの車掌だって同じかもしれれない。
寝台車は廃せらる。個人的なサイトもほとんど残っていなし、改めて開設される必要も見当たらない。
作品。たいがい作品は作者の名前付きである。しかし誰だかはわからない人々に紛れ群れながらも、作品たる自分の人生そのものを形作っていく、そういう時代になってきているように私には思われつつあった。今や仮名で、誰かを追及することになるとき以外は実名なんて気にしなくなっている。こんなことはついぞ私は予想していなかった。
寝台車はいいものだ、煙草の匂いがある、が、むしろ却って、誰かとの関係を育みたくなる。とはいえ、カーテンを閉めていてさえしばらく横になっているとしだいに喉が痛くなりはじめ、何度も水分を取るようになった。そのとき誰かが吸っているわけでもないのに。これはよほどだなと先が思いやられる。
独り少女が入ってきて、何かと思えば煙草を吸いはじめた。イチゴの甘いメンソール。私は輻輳せる時間の流れを追いつつも、ただ旧態の是認に終始することになるのは極端に嫌がった。富山であの枯れたホテルに泊まったときのように…。それはある骨董的な単眼児に似ている。それは例えば決して今に向かっての一切の発信を持たない、今における前時代的の経験だ。
闇に包まれはじめた西近江路を淡々と進む。津軽への長旅の序章としてこの平和の湖と江州の町並みを眺め下ろしつづけるのは恰好の車窓だった。しばらく光の町が見えたかと思うとそれは堅田であった。
寂しい北小松には停車せずただ濃紺の剛体が通過するだけだ。そういうときは安心感があった。
高架上に留置線のある近江今津とホームの灯りを過ぎて、もうこんなところかとしょげる。
いつものように近江塩津で運転停車して、敦賀に着いた。やっと北陸に入ったかという思いだ。一昔前は敦賀に行くのも結構な旅行という感覚だった。ここまででも充分だ。こうして寝台車で入越して窓越しに敦賀駅を見ると、そのときの隔たった豊かな北陸感が思い出された。敦賀も夜が早くはや寝静まっているかのようだった。
ここで乗って来るかと思ったが隣は誰も来ていない。中間だけの利用もあるから、寝台車も埋まるときは埋まるのだろう。本来ならばだが…。
かつては弁当でも買えただろうか、今は誰もおらなさげな駅前のルートインのネオンがさびしく灯る。時間的にも敦賀は、ただ敦賀でしかなくなっていてもうけっこう経つ。今のありようが悪いなんて思ったことはない。むしろ明朗、清潔で歓迎だ。しかしそれは自分の生活においてであった。つまり…旅は死に絶えつつあるともいえるわけだ。この国が国としての旅をいったん終えつつある、そういうことだろう。だから旅行者は旅していたその国の時代を追究するのである。
巨船のようなリラ・ポートの灯りを山手に見つつ、北陸トンネルに入る。さて、私は儀式のようにここでいつも何か食べることにしている。だって長いからね。
ほわっと抜けた先は今庄宿だ。機関車でもないからもう止まりはしない。このトンネルとてたいした事業だった。もっともそれ以前の時代を容易に思い起こせる人も少なくなってきているのだろう。鉄道町であった今庄はその旧線ルートを大切にし、人を呼び込んでいる。
カタタン、カタタンと客車は等速のように走る。山に囲まれた平地、鯖武平野だった。
福井に着きかけるとようやく北陸の都市を繋ぐ第一の目的を果たしたかと思われてならない。
地平駅のころは本当に遠い福井だった。福井には福井の流儀がある、車の運転方法がある、そんなことを想う。いまはおもしろおかしく地方の特徴を針小棒大にとりあげられるが、これもまた地方色の衰微を物語っている。今はなんとお笑いの対象というわけだ。
加賀温泉で一休止。車販はないからここの自販機で飲み物でも買えとの旨のアナウンス。加賀温泉もバブルの90年代はでっかい温泉郷という印象だったが、その後、生き残りをかけた取り組みがあったのだろう。夜になると駅はきれいさっぱりとしている。湯上りにふさわしい、北陸の風が流れている。
「やはり、人を見ないとだめなのかしらね。体験が、協働がなければ、豊饒さは…」というより、かつてはそれが当たり前であった。青年期とネットの出現は、私の孤独を深めた。そうしてわかっていながら、私は死んでいくような気がする。二回目の「日本海」とあって、それもありという気持ちになってきている。
わかってはいるが汽車は前進する。この列車は青森へしか向かわない。「あなたが決めたことじゃない? 狭い選択肢の中で。」 残念ながら、それが人生というものであるらしいようだった。
金沢に着くとほっとした。21時前だ。この街だけは今も変わらず金沢のままである気がするんだ。結局、自分が自分であることを時代が変わっても維持するには、強烈な文化観がこの時点で育まれていないとだめなのだろうか。文化というのは恐ろしいものだ。一方、世はフラット化が進んでいる。それに対抗するでもなく、厳しい伝統で以ってではなく諧謔性を以って人々をフラットにする機能を働かせているのは、時間の重みだった。ここだけいつも谷になっている、そんな気持ちで高架の暗い無機的な構内をガラス越しに見つめる。そこが金沢であることを物語っているのは、発車案内版に決して周縁の諸都市の文字が表示されることののみである。
多くの旅行者を魅了した高岡駅ははや眠りにつき、明かりも落ちてよく見えないので、私も富山に着く前に寝支度した。真面目な人は洗面所を行き来し、歯磨きなどしている。
富山に着くともう夜も深いといった趣き。車内は減光もしているし、放送も休止している。しかし時刻はまだ22時半前だ。仰向けになりつつ富山の「コカ・コーラ」や街の薄い灯りを暗い窓に映し出していると、隣の人が乗って来た。その人はすぐにカーテンを閉めて眠りにつく。すると車掌が回ってきて、暗がりの中で切符をと小声で言いつづける。その人はどうもカーテンから手だけだして見せたようだった。買ったものにとっては持ってるに決まっているのだが、車掌は仕事だからしようがない。隣の人もさっさと寝たいたいだけのようだった。
魚津を経るころは、深夜の日本海に沿って走るのが実感できる。こんなところで降ろされたら、拉致でもされそうだ、そうして私は気分が高まっていた。このあたりの漁村は北陸でも指折りの寂しさを擁している。
もう寝ようと思うのだが、ここまで来るとどうしても、恒例にしている親不知駅の見送りをしないではいられない。それで 「結局あの駅を見ないと気が済まないんだな」とため息ついた。これも儀式だろうか。
さすがに北陸東線に乗り慣れているだけあって、真っ暗で通過ばかりでも、どこを走っているのかの検討はつき、しっかりと親不知駅を見送ることができた。なんというか、速度とカーブ感、そして列車の音でわかってしまうのだ。
駅はもちろん誰もいやしなかった。ただ別の時間軸に私があそこにいたことがあるというだけだ。不可能な同時性というより、ただ人生にはある立場になったあと、逆の立場に立つことがある、というだけのようにも私の頭の中で整理されはじめた。これが大人というものなのだろうか。それはロマンチストというよりリアリストだった。だからといって盃を煽ったわけではない。リアリストから出発したロマンも獲得したい。
結局眠れず、糸魚川、直江津と停車を確認した。糸魚川は構内は広くとも駅舎や利用者は知れているが、そんな駅でもこうして寝台特急が停まると、何か緊急性のある使命を帯びた駅に見えた。
零時前であるから私もいいかげん眠くなっていて、もう寝てしまいたいのだが、いつもここまで来たら直江津も確認してしまおうと思ってしまい、直前まで床で半眠りで、直江津に着くといちおう体を起こす、そしたら立ってしまってデッキまで出てしまう、こんな具合なのだった。
列車がゆっくりになっている。直江津だ。とすると、向かいの人が降りるはずだ。着くと、転げ出るように降りていった。何か寂しかった。
いつもいるはずの人が死に、その寝台だけが残された、というような気持ちであった。私の魂は果たして一人どこへ向かうのだろうか。駅を旅籠にする私の思念や願望はどこへ堕ちていくのだろう。
直江津は寝台から見ると不思議な街であった。北陸西部の賑やかさが終わって富山湾岸の広漠を泊まで走り抜け、天嶮を越え、アルプスの出口たる糸魚川に出会い、またひと気のない海辺を走り抜けると、ころりと、直江津という都市に出るのだから。これまでとまた違う北陸に出たという感じがするのだ。楽しくないわけがなかった。
着くと私はいつものようにジェイアールの紋絣の浴衣を羽織ったまま、デッキまで行き、折戸の戸口で直江津の夜風にあたった。深夜の秋の威風で、爽涼としている。
目の前に菓子の自販機がある。そんなものがあるということは久々に立派な駅に来たということになる。けれど私には出る勇気がない。というか迷うのがいやで、スリッパのままである。とにかく停車は運転士交代の間だけなので、置いてけぼりになるのを懼れた。もっともレチは阪車だから意は汲んでくれそうだが、うっかり見落とされて騒いで乗せてもらった挙句、阪車らしい気さくな口吻で説教されそうなのはいやだった。
柔い空気圧でパタムと不器用に畳まれた折戸の戸口から菓子の自販機をぼんやり見て、ふとだいぶ前に函館行きの日本海で青森に着いたとき、りんごを手にしたのを思い出した。機回しがあるので少々停車していたのだった。けれどなぜあのときりんごを買ったのだろうかと思う。触ってみると本当に冷たく、暖房の効いた売店で置いたままになってるものでなかった。
札幌に泊まると、みかんを四五個買い込んだ。なぜみかんを買い込みたくなったんだろうか。果物が欲しかった。行動は何とも古臭いけれど、すべての時代が一つになったように感じられることはないだろうか、というより、そういう時間の流れは今も細々とではありながら脈々流れているのではないか。そういう水脈がふとした瞬間に合流する。あのお菓子の自販機だってそうかもしれない。ただ、本物やリアルにアクセスするにあたってのステップが増えた、つまり想像力を必要とするようになったようだった。
観念としての果物は何だろう。それはすべての時代を一つにして、じかに共感することではないか、と。そういうことは寝台車では、使い古された空間では容易に起こりうることなのだった。それは駅だって同じだろう。
気づくと私は自分の寝台に戻って考え込んでいた。
これより先は降りるとほどなくして海という駅ばかりになる。もうみんなとっくに寝静まっているが、私一人だけ浴衣を羽織ったまま、通路の窓側に座って少しばかし外を見た。リネンのせいかホテルの匂いがし、そしてあっというほど足元が冷え冷えとした。秋の前に北東へ、深夜に向かっているのだ。胸がドキンとするくらい、もの寂しい。窓はやはりナトリュームランプに照らされた国道と黒い海が覗かせている。
足を組み替え、
「もう秋だもんな。8月でも東北は肌寒いことがあるのだから、9月半ばなんてそれやそうだろう。」
北日本に行くときはいつでも秋という感じがする。初夏が本物の夏だろうな。
独りで寝台列車に乗っている。こんなことは慣れたことだと思おうとして、やれやれと首を振り、寝台に戻った。
「今回は道東だが果たしてうまくいくだろうか。寒くないだろうか。天気は悪すぎないだろうか」
いままでの経験を活かせばなんとかなるはずだと枕に顔を沈めた。