道東紀行
2010年9月
東海道を普通列車で
バスを転がり出てぼけた頭のまま「晴れかぁ」と疲れた様子で感応する。もう旅は終わりだから天気は悪くていいんだけどな。ここからはまたバスの選択肢も用意していたけど、さすがにつまらないので前回と同じように、鉄道で東海道を進むことにした。もはや予定調和である。
都会の朝は遅いというように、東京駅はまだがらがらだ。無人の改札口もあり、私はそれをのぞき込んだりして遊ぶ。もっとも、遠隔監視だろう。長距離の出る券売機から切符を吐かせて、東海道線ホームへ上がれば、そこはのどかな旅路のはじまりのホームのようだった。これから東京を離れる人がやってくる在来ホームである。湘南カラーに東海道線、と出ているのも相変わらず自分に似つかわしい気がした。海辺の松の小径をこれからゆくんだ、こんなくだりははや詩人気取りである。
ホームにハトが集まっているのでなぜかと思っていると、初老の男性がエイセイボウロを撒いていた。餌をやらないでくださいと書いてあるその前で餌をやりつつ都市を離れるときの気持ちとはそんなものだろうか。
東海道本線、熱海行きはほとんど席が埋まっていたが、立ち客はなかった。熱海行きというのも古来からある一つの私的な定型句のようであり、近くのハワイである。
適当に空きがでたところで座る。ロングシートの車輌だったから景色も何もなく、ただ男性通勤客の座っている姿が目に入るばかり。
横浜や戸塚、平塚など神奈川の騒がしい駅と車内の混雑に耐えて、国府津や小田原が現れると毎度ほっとする。前回は曇りだったが今日は箱根がくっきりしていた。
熱海―島田
2時間後の9時半ば、熱海着。毎回同じような行程だが…2005年のときはわざわざ下車までして休んだがもはや乗ってる方が楽。そのまま島田行きに乗る。これで一気に静岡を詰められると歓ぶ。静岡の人には悪い。
ロングシートだけど床に落ちる日向が等積変形するようなすき具合で景色は好きなだけ眺められた。
天気が良くて田子の浦も下車したくなるほどだが、もはや疲れ果てている。そう―東海道というのは両端に目的がある人ばかりなのだ。常にどちらかに流されそうな心理的モーメントに耐えつつ旅行することになる。
右手に延々と続く静岡の茶畑や蜜柑畑。田舎といえばそうだが、なんともいえない静かなる丘が両端の間には眠っているのだと思った。
途中、白杖をついた若い女性が乗ってくる。左手で男児の手を繋いでいた。私は胸に深い不意を突かれた。
固唾をのみながら観察すると、男児は見えているようである。母は愛情深そうな人だった。母は男児を横にちゃんと座ってというのだが、男児が景色が見たいばかりに靴のまま席に上がって背を見せていると、たまたま通りがかった車掌が、上がるんだったら靴脱いで、と、きついながらも声に笑みを湛えてすかさず注意した。母は、だからちゃんと座ってっていってるてしょ、と、静かにいう。車掌を見るに、国鉄やなぁ、と思いつつも、何もかもすべて、丸く収まっていくように思われた。
私はたまたま景色が見たく立っていた。二人が降りるとき、私がすぐにどくと、その女の人が私の眼の中をしばらく見つめた。
島田
11時ごろ。島田は静岡浜松の中間点の乗継駅である。最近新しくして、旅人としては別に降りる気もなくした。けれど東海道らしい長閑なでやや没個性的な、いや却ってそれが東海道らしいというようなホームとその雰囲気か感じられた。案の定人が溜まっている。静岡の普通列車では真昼でもスーツ姿の人もちらちら見かける。県内を営業出張だろうか。ただあまりにゆったりとしたダイヤには、何か焦点を結ばせないものがあった。そういうところから静岡の暮らしというものも見えてるのだろうか。
浜松―豊橋
12時過ぎに浜松止まり。外はすでに蒸し返るような夏の東海道。休憩に飲み物を買う人が何人かいた。新幹線に乗っていても、ちょっと一目置いてしまう街だ。やはりヤマハピアノということで、そんな宣伝をいくらか見る。昔のイメージでいうと鰻だろう。
そして豊橋行きに乗る。またあそこで乗り換えかと思うと疲れるが、もはや機械的に乗り換えをこなすしかない。けれどこの区間は浜名湖があり東海道線でも随一の風光で、弁天島に強烈に降りたいのだけど、今ひとつ気が乗らずいつかの日に預けてしまった。風景を解釈するにはあまりに疲れすぎていた。
豊橋―大垣
13時ごろ、豊橋で降ろされるが、快速大垣行きが輝いて見え、一縷の迷いもなく飛びつく。これで助かったと思った。名古屋でも岐阜でも降りなくてすむとは。大垣まで出ればこっちのもんだろう。
豊橋を出てしまうと、少し寂しい駅が続く。降りてみてもいいだろう。
ずっと晴れていて、車内では窓越しに陽光が暑い。やはり蒲郡の風光はいつ見ても惹かれ、竹島を見てはおもしろいと思うものの、どこにでもある高架駅に少し疲れを感じてしまったり。
14時半過ぎ、名古屋らしい、あの大きくて怖い字体の広告塔の立ち並ぶ街並みを見ると、名古屋こそは殷賑消えぬ生ける化石としての地方都市ではないかと想像する。
その後車掌も女性に変わり、短い岐阜まで案内される。後は米原に向かってわが心は疾走するといった感じだ。岐阜で3分乗り換えで大垣行きに。大垣まで来るともう静岡も遠いし、岐阜や三重の文化が感じられる。けれど米原を見るまでは、やっぱり安心できない。どこかお堅いJR東海との付き合いは長くないからね。
117系で米原に向かう。伊吹山麓ののどかな田野は、自分にとっての小旅行のエリアだった。
新幹線の高架の収束を見ながら、米原着。なんか国境をパスした心境。もう夕方である。見慣れた223系がありがたく感じる。もう寝台に乗って道北に行ったことなんかとうに忘れていた。
帰宅後は炎暑で灼けただれた貧しい自室を目の当たりにし、扇風機で空気をかき回す。暑かった旭川を少しだけ思い出すが、北海の空気はすでに様々な文化に浸食され、私の体のどこにも宿されておらず、ただ各種パラメータとしてデータ化された記憶の海の中を順を追って構築することでしか、自分が何をしてきたのか掴めないでいた。
またこういう旅行をするかといえば…わからない。ただいえるのは…自分が生きていることを確認するのは大変なことで、生の実感もないままそういう行為をただ続けるということもあり得るようであるということだった。(おわり)