道東紀行
2010年9月
その後はしばらく停車もなく心惹かれるものもないから熟睡した。
しかし、列車の動いていない時間がどうも長いように感じ、軽く目が覚めた。どこかの小駅に停まっている。時刻はまだ4時だ。外はごくわずかに重たい濃紺の空が明るんでいるだけで、まだ夜明けには程遠い感じだった。そして、雨が降っていた。北日本日本海側はそういうことがあるという予報だったからさして驚かない。まあ、列車が遅れればそれだけ長い時間車内にいられるし、このまま停まったままなのもおもしろい、遅れだって回復するだろう、そう思い再び入眠した。
しかしそれから1時間経たないくらいで再び目が覚める。なぜって、まったく列車が動いてなかったから! 外は夜明け前の青いどす暗さだ。日本海らしい寒気による雲の重みのせいもあった。しかしどこをどう見ても、ここがどこだかさっぱり見当がつかない。指標たる駅にいるにもかかわらず! 鉄道を乗り回しているのにここまでわからないのは不思議だったが、そんなのに酔っていないではっきりさせろ、と、改めてベッドから窓に張り付き外を仔細に観察した。しかし一向に解を見いだせない。本気で確認することもできたと思うが、やはりまだ眠たく、「とにかく…新潟っぽいな。」と。そのことと時刻は5時前なのを考え合わせると、そろそろこれはまずいんじゃないかと思いはじめた。
しかし自分を安心させたかったのか、
「こんな時間に新潟って計算上おかしいよな。」、
と。秋田は5:32着である。列車が停まっていたのは認識外の時間を感覚的に含めても1時間と少しくらいのはずだ、新潟なわけがない、と。
雨が強くなっていた。しかし運転できないようなものではなく、こんな日もあるだろうくらいのものだった。
客らももう起きはじめてなにやらぶつぶつ会話しはじめている。もうそろそろ秋田の停車時刻が近づいているからだろう。実は秋田人の寝台列車利用は多いことで知られている。私は真剣に聞き取ったが、客らもここがどこかさっぱりわからない様子だった。
「秋田の人でもわからんのか? となるとやはりここは…」
5時半が近づき、しだいに騒がしくなって、ある初老の夫婦がデッキで電話しはじめた。
「なんかいま列車動いてないんだって。もう3時間かそれくらい停まってるみたい。さっき聞いたらね、まだ秋田にも入っていないって。まだここ新潟なんだって。」
なんと、そんなに停まってたんだ! 新潟というのは当たっていたがなぜか少しもうれしくない。駅のはっきりわかるところまで車内を移動する。通路で出会う客らは「どうなるのか」といった憮然たる表情なので、ただの個人旅行の私もそれに合わせ「このままでは私も任務が遅れる」といったしたり顔を決めて確認すると、平林駅だということが分かったが、こんな駅を知っている西国の人はほとんどいまい、新潟県村上市である。
まあしかし直江津過ぎて熟睡できた、やった、と思ったらこんなことになっていたのか、と。というか、山形県の鶴岡(3:35着)や酒田(3:39着)の人とかもっと前からやきもきしていたのかとも思うが、停車時刻が深夜・明朝なのでラッキーってな感じで眠っていたのかもしれない。
しかし原因はわからない。雨が強いといっても知れている。JREだから慎重なのか? 羽越線で転覆もあったし。車掌すらもデッキで言葉を濁すばかりでただ雨のせいと云い、詳細は後ほど放送します、という。
外は曇りながらも明るさを増すばかりで、どうもたかだか数時間の遅れではすまなさそうな雰囲気、この列車の載っていたはずの時間の矢が先へ先へと走っていくように感じられた。
「これは本気でまずい」と私も思いはじめた。外もしだいに明るくなっていく。多くの客もそうと思いはじめたらしいころ、放送があった。この先の川で増水しており、規制値を超えている、水位が下がり次第の出発になる見込みだ、という。北陸で一時的に強い雷雨の恐れがあるとの予報を思い出すが、まさかこんなことを引き起こすとは…。私は道東だから対して気にしていなかったし、経路上ではあったが警報もないようなものだった。
それから1時間経ち、腕時計は6時半前を差すが列車は動かず、もうすっかり私はだらけていた。こんな時間のこんなとこに「日本海」がいるのはおかしい。すでに大舘か鷹ノ巣くらいには行っていないといけない。あの朝の時刻の津軽入りが新鮮なのに…。すっかり明るくなった曇りの稲田とともに本日の予定がパーであることを悟るが、変な焦燥感に包まれつ私はカーテンを引きまわして篭もり、ため息ついていた。
「まあ、今日の道東入りはまず不可能だから、とりあえず道南で一泊して、翌日道東だな。」
列車が動いたのは6時50分になってからだった。放送によると、酒田駅で「弁当、お茶」の積み込みをおこない、必要な方に差し上げるとのことで、ちょっと期待が膨らみ機嫌を直す。でも次の放送ではなぜか「軽食と飲み物」と言い換えられ、さらには軽食は「かんたんな食事」と言い換えられて、もう、いやな予感しかしない。そして直前になってついに「パン」と明言されて、おかしいな、と。こんな右往左往するパンてどんなだ? 少なくとも菓子パンや総菜パンではないな…サンドイッチならそういうはずだし…そして酒田を出てだいぶ経ってから私の手元に配られたのは、なんと、缶入りの非常食のコーヒーナッツパン。しかも飲み物なし! 焼きたてとか書いてあるが、なんぞこれ?! その妙な図案から味への期待はどん底に落ちた。
ともかく徐行のせいもあり鶴岡に着いたのは朝9時。酒田が9時半で、トータル5時間半の遅れである。雨も降らない変な曇り、そんな午前に流れる気だるい自由な時刻が、体のだるさを倍加する。
さすがになんか食べたくて仕方ないので、例の缶入りの「焼きたてパン」を食べはじめるが、かなりクセがあって、なぜカンパンじゃないのかといぶかる。そして、むちゃくちゃ喉につかえる。飲み物のないことが本当に恨めしい。けれどあまりに空腹で全部食べそうになって、はたと、今は非常事態である、と。半分だけ残しておいたのだけど、それほど間を開けずに食べきってしまった。前夜も食べていないし、胃が空っぽだった。
航空機で機内食などがしっかりあるのは、そういう欲求にこたえられるシステムがないとトラブルが起きやすくなるからだろうか。これだけコンビニができたら、食えて当然でないとは、なかなか思えないものだな。
車内の飲料水はやはり、あまりたくさん飲まない方がいいようで、途中から喉がおかしくなった。
その後昼下がりに寝台列車にいながらにして鳥海山の麓、遊佐の奇岩ある絶景に出遭い、はっと目が覚めるようだった。窓辺の席に移動しつつ、まっ平らな飛島を不思議そうに観察する。けれどほとんどの時間は寝台のカーテンを引きまわしてひき篭っていた。それで予定の立て直しも終わった。もう今はすっかり諦めて、針葉樹や穀倉地帯を眺めつつ向うに足を伸ばしたり、好きなだけごろんと寝たり。途中放送があり、「青森にはこのまま順調に往けば14時半ごろの到着になる見込みです」というので、おどけて失笑を漏らしてみたり。しかし完走してくれないこともあると後で知り、これは御の字だったようだ。
秋田には11:15着、降りていった人たちはしんどそうだった。秋田では何か買う時間があるよと放送されたが、いかにも飢えているようで出ていけなかった。いくつもの時間の流れの合流は、近代の羞恥心には抗がえないものがある。
青森に着くころにはもはや絶望的な気分だ。体がだるくしんどく、食べ物も飲み物もない、とにかく着いたらそこを何とかしようとばかり祈念していた。
私にとっては18時間の乗車となり、とうとう青森着。もういいわ、と列車を後にする。14時半だが、曇りや秋の前のせいか、なんか暗い感じだった。客らも疲れた感じで三々五々散っていく。これからの予定の立て直しで忙しいからだろう。
特急券が払い戻しとなるためみどりの窓口に行くと、これから青森発の日本海やあけぼのに乗る予定だった人がいかにも不服そうに、未使用券の払い戻しを受けていた。しかしこれはどうしようもない。気長な心持ちこそは鉄道道である。休日のイベントと化した今となってはそうはいかなさそうだけど。
ちょうどそのころ突然、大雨が降りはじめた。一気に湿っぽい空気が駅舎の中にまで入ってくる。人々も濡れ鼠か、傘の処理に困っているといったふうだった。もはや駅舎の外に出たくないと思うくらい。夕立のようでもあった。すぐに出るスーパー白鳥に飛び乗ることにした。18時間前に寝台列車に乗ってからまともに食べていないので食事をするか買い出しすると決心していたが、このまま周囲をうろついたら着函する時刻が遅くなる一方だと不安になったのだった。
スーパー白鳥
スーパー白鳥に身を収めると、ほんとに北海道は遠いなと思う。寝台に乗ってさらに特急とは。少し前まで日本海は函館まで行ってくれて、乗ったこともあったけど、あれはよほどか楽だった。しかしこんなは二昔前の話。いまや新幹線の時代となり果ててしまった。
竜飛海底駅に停まる。ここを楽しみにしていた人もいるだろう。吉岡海底にはドラえもんワールドがかつてあり、ドラえもんを描いた機関車が客車の快速海峡を牽いていたそのころ、ちょうど私は宮沢賢治を絡めて岩手そして足を伸ばして青森を旅していた。けれど思春期で乗るのが恥ずかしく、無視していた。深い後悔を禁じ得ないのは言うまでもない。四国には今もアンパンマン列車がある。私は無視していないだろうか。そうこういうううちにトロッコもなくなるだろう。
そういっていながらも、私はこうして白鳥に乗り、道内の硬派の駅を追い求めている。時代を一つにする駅と、歴史と国家の誇りを求めて…。
格調高さと人々との融和がテーマとして捉えられるドラえもん列車は、なんともいえない、日に焼けたような懐かしさがある。
函館
17時半、急に暗くなった函館に着く。客は少なかった。函館駅は相変わらずしゃれてあちこちネオンが灯って煌いていて、港の風は駅まで入り込んでくる。それにあたりながら「ようこそは函館へ」の、サッポロビールの供するホーロー看板を私は一人見つめる。またこんなところに来てしまったか、という思い。私は時間を空費しているのだろうか。一人でここに来て楽しむわけでもないし、楽しむとしても独りでそうして一体何になろう!
しかしそれこそがまた旅である。つらい北海道の旅がまた、はじまる。
間を開けずして砂原経由、森行きの列車に乗る。時刻表は知らなかった。なぜって大幅に予定が狂っていたから。
来函しても汽車が出ても、それほど胸高鳴らなかった。今回の目的は道東だった。ここからもっともっと遠いところである。函館に来たくらいでは、この旅はものになるかわからない。今はこうして仁山の山越えのように、ただ一歩一歩着実に迫るのみだった。あした!ならいいが、あさってなのだ。道南から道東が遠すぎるんだ。それで道南に予定を一日分入れたのだった。本当は着いた日の次、明日が道東になる予定だったのに…。かといって道南はやはり外せなかった。長万部の町に行きたかった。
砂原回り
渡島砂原の海は暗く沈んでいた。この円弧をぐるりと回るとき、観念的遠心力で外洋に投擲されそうな気持になる。ずっとずっと遠いところへ放り投げられるような…砂原、そこには砂地に白の瀟洒な駅舎が立っている。その遠いところにはなぜか少し安心感もある。孤独のくせに、一人になりたいのは、もはや救いようがないように思われた。
それは社会的合法かつ緩慢、観念的な自殺といえそうであった。ほら、沼尻からも一人乗って来たよ。列車は前乗り前降りである。旅行者だった。彼は車内を窺い同輩を探している。複数いるとみるととくに目で探しもしなくなった。が、しかし、男性とは根はいつもそんなふうに一人なのだろう。私も誰かと一緒だったという感覚が思い当たらない。
無事、何事もなく森に着いた。ごらんのとおりで中道南を抜けるまでで一日仕事、もう20時半を回らんとしている。ここで乗り換えだ。こないだ着いたとき同様、もうすっかり夜である。初めのころは「森に着く」と読むと、何度もどこの山林?と思ったものだ。そんな地名はたくさんありそうだが、それが駅名になるとちょっと妙である。今は慣れたけど、それがつまらないというわけさ。
さて、ここから先は参ったなと思った。とりあえず明日は長万部の前後をメインにしたいから、この森―長万部の区間の長万部寄りでどこか寝られる駅を探さないといけない。予定が変わったので下調べは何もしていない。ともかく長万部行きに乗り込むが、このときはなんだか怖かった。客は誰もいないし、時刻は20時半。こんな時刻に幽霊さまよいそうな長万部に向かう人などいないのだ。宿も開いてない