南紀1

2010年2月

 

ストーブ

 冬が深まるほど、雪のない厳冬に憧れた。ふだん、全身に水の這うような寝起きの寒さ、窓辺の結露、赤い日の出、そのような枯れた内陸の冬の日々を過ごしていると、その無積雪冬季の極みだといえる観念的南国の厳寒を味わいたくなった。そういう南国でも冬はひとしきり寒いのさ。それに実際、本気で寒くなくてはならぬ。万一そうでなくとも、そう感じる旅をせねばならぬ。ならば駅寝旅はその格好の手段だ。

 こういう寒さは観念的ばかりともいえない。だって実際にその地においては、最も寒いのだから。南国というところの、一ばんの寒さである。寒い冬を持つ相対的南国というものを想定するわけだ。そうでもなければ冬の沖縄に行けばいい話なのだから。

 これらの条件を満たす私の望む長大な旅を叶える美しい地は、南紀しかなかった。厳寒の南紀に私はただもう憧れた。温暖で湯治もあると古来よりしるされつづけた地は快晴のもと、厳しく寒く、対蹠せる夏を裏側からただぼんやりしと見せる海への眼差し旅人から攫い、夜には牟婁の湯にあたらずにはいられず、厳寒の中、紀伊の海岸の天空には星雲が煌き…。

 冬といえば雪で、北へ想いを伸ばすことは少なくない。けれどそれは京の冬を表すに、稀な雪景色を以ってし、その日を狙ってカレンダーのために撮影に行くに等しいように思え、即物的だといいうることから逃れる手立てを見いだせづらかった。今の私はどちらかというと、乾いた冬や、朝のじっとりした日の出という、西日本的冬季にすっかり傾倒していた。その冬の厳かさは喩えようもないものだ。

 「二月に行くことにしよう。」
 この二月というのも観念的な寒さを表すが、実際下旬は春の前触れとしての前線も形成されやすく、ものすごい陽気に見舞われることもある。また寒気が強まると紀伊山地を雪雲が乗越え、南紀でも曇り、雪が舞うことも珍しくない。というより、私はまさに見舞われてしまったのだが…。
 気団に会い、季節に会いに行く旅、それが一ばんの贅沢だなあと思う。その地の空気に会うこと、それを超えるものはないように思う。

 とにかく、一度こんな冬の南紀を思い描いたらそこから逃れられるわけもなかった。夢中になって予定を立てはじめた。といっても、その手段もふさわしくいつものような駅ばかりの旅だ。しかしこれは駅が好きというより、いくつも駅に降り立つだけにとどめることで、近代の厳しい時間の中に自由を見出すためのようだった。もちろん、駅からの旅を全てを包摂したいという貪欲な精神もあると思う。そういう一般性を捉えて、私は嬉々として赤く熾るストーブを抱き、片足の貧乏ゆすりを止めず、時刻表を繰っていた。
 「こう組むとここでの時間が短か過ぎるな、なんとか行けるか? いやまずい。ここの時間を回せれば…しかしそうしたらあの駅に着くのが遅すぎる! まいったな…。」
 鉛筆の芯を舐めり舐めり、するわけもないが、とにかくそんな感じで頭を牛のように悩ませていた。
 「できたな…」
 ノートの数多くの殴り書きからはある一つの、仄かに成功の予感をさせる旅程が流れ出さうとしていた。「少し大きくなりすぎたけど、仕方ないな。」。

 「しかしそうはいうけど、寒いぞ。駅で寝るんだから。なんぼ南紀といってもこれは相当防寒しないと旅自体が不成立になる恐れがある。」
 冬の駅寝は今回が初めてになる。シュラフは道南に行くときに調えたイスカの500g 650FPを持っていく。
 「あれがあったらなんとかなるはずなんだけどな。数値上は。」
 無積雪冬季ならそれでいけるはずだった。過去の気象情報から「白浜」の統計値を何度も調べた。
 「だけどもしものために着こまないとまずいだろう。むろん日中のためのでもあるけど」
 基本的にダウンシュラフの場合、着こんで入ると温かくないが、何が起こるかわからなかった。
 「とにかく持っている冬服を三枚重ね着しよう。それを日中の行動着にして、夜は脱いで入る。もし寒くなったら、それを着るか、シュラフの中に入れるか、かぶせるかしよう。」
 服はその辺の衣料品店で昔買った安物だった。ジャケットにフリース、そして化繊を内側に吹き付けたトレーナーみたいなやつ。いかにも金がないという恰好かもしれないが、そこは無難なジャケットや襟巻や鞄が救ってくれるはずだし、温かさには換えられなかった。靴は運動靴。まさかこれでひどい目に遭うとは思わなかったが。
 しかしこうして寒いぞと言い聞かせ、対策に熟慮を重ねることは、南紀の冬を思い描かせ、冬の明るい旅を楽しみにさせるものだった。
 「そうだ! 熱源としてカイロをたくさん持っていこう。だって道南のとき2℃だったが、ガタガタ寒くて寝られなかったし。」
 鞄に詰め込むと、重くてしようがない。一部はシュラフと一緒にパッキングした。全部で6キロある。

 一月は、忙しく、また二月と決めたのだからと、想像を半ば放棄していた。しかし天候はチェックしていた。やはりベースはよいようだ。というのはそのころはまだいわゆる暖冬が取りざたされていて、南紀にあっては異様な晴ベースで推移するほかなかったのだった。ここ数年はどうであろうか。

 二月になって緊張しはじめた。その季節に会いたかった。会いたい人か去ってしまわぬうちに…。
 気象関係のアンサンブルなどの資料を目に通していると、やはり晩くまで放っておくとよくないというセンスが明瞭に見受けられたので、予定通り、自分の体を自分で蹴っ飛ばした。ストーブはくすぶり、鼠色に沈んだ。

 どれほど行きたいと思っていても、どれほどそれがチャンスであっても、いざ出るとなると、どれほどいやなものか。よい想像だけを頼りに、というもそれはどちらかというと能天気なもの分類されるが、自分が能天気なふりをし続けることで、出かけることが大したことではないように思いこませようとしていた。あまりに不安が昂じ、話のついでに「もうすぐでかけることになるんです」と人にいうと、「よくこんな寒い時期に出ようと思うね、私なら絶対無理だ」と言われた。「そんなことないよ」と言うも、私はどきりとしていた。しかしそれで私の顔は怖くなった。肚が決まった気がしたのだった。
 
 美しい風景には、こんなふうに必ずきっと自室に苦闘が潜んで、そして伴っている相違ない。

 それでもいやだった。うまくいくかどうか測れなかった。しかし夜の帳も堕ち、ダウンジャケットの若人が列車を待つ最寄りの駅の乗り場で快速を待っているときには、もうすっかり体は周りの空気になじんでいた。私の呼吸も一定だ。いや、まってくれ、私とて若いはずなんだけど。というか間近いなくその人たちよりも。

山科

 東海道本線を京都に向かう汽車が、山科を過ぎたあたりの大堰堤を走るときいつも、これから本当に自分の旅がはじまるのかなあと思う。それは長い間、つまらない用事や仕事で決まって京都に降りていたときがあったからかもしれない。それは昼でも夜でもそうだった。汽車は灯りを燈し、山科の町には、いくつものカンテラが大堰堤を走っているように見えるだろう。
 堰堤を走っていると、京都で一旦路線が終わるように感ぜられてしまう。実際そうでないだけに、首都的なたちの悪い観点だった。しかしこの堰堤にはそんな効果があるやも知れぬ。この円弧は京を繋いで循環するように思えるし、見せ場がこういう静かに低まって広がる長屋の多い山科の町となると、日々の生活の中で京を銘都のように見立てたり、想像してしまうように思えるのだった。
 山科の町は言ってしまえば住宅街だが、やはりこれだけの人が住まっているとあって、夜窓からもその熱と蠢きを感じるのだった。

 東山トンネルに入る。関西の諸都市がこうして山々で仕切られているのは、それぞれの都市の気質や伝統文化からは死んでも逃れられることはないのを意味しているようで、いつも首が真綿で締まるのを感じないではなかった。トンネルから駆け上るようにして地平へ出る。いつも日中に見ているが、その辺は新幹線開通の1960年代から変わっていないような感じだ。
 疎水の橋梁の上で、決まって、
 「きょうもJR西日本をご利用くださいましてありがとうございます。まもなく京都です。乗り換えのご案内をいたします。」
 東海道新幹線、関空特急はるか、そして嵯峨野山陰線…これらが案内される。右手に団地と幼保を過ぎると、おたべの広告が小さく見える広い構内に、汽車は転轍機を渡っていく。
 「ご乗車ありがとうございました。まもなく京都です。到着までにしばらく揺れることがあります、近くの吊り革などに掴まってお立ちください。まもなく京都です。」
 京都でだいたい入れ替わるが、時間によってはまったく動かないこともある。そういうときは損した気分だ。私はこの先長いとあって、とにかくあいたところに遠慮なく座った。隣が誰でもよかった。

 京都を出るといつも長旅になる気がしてほっとする。右手に、種苗で有名なタキイ本社、左はというと、まだ近鉄や新幹線の構内が壁を作っている。
 車掌は改めて名乗り出、途中大阪までのご案内となります、という。姫路あたりまで行く予定のときは、ちょっと残念な気がしないでもない。
 考えてみれば車掌なんてなかなか大変な業務だ。こんなふうに数百名の客相手に放送をし、遅延などのトラブルの対応が待ち受けている。揺られたまま延々立ち続けるのも、日常生活ではまずないことだ。しかし、きっとその辺のことは考慮され、休憩は過分だろう、と自分を安心させる。それに…レチの弁護をしたところで何になろう。だって自分にはどうしようもないことじゃないか。
 「それにあくどいのもいるはずさ! いまにおれの感謝の念を蹂躙するんだ!」

 向日町操車場には非番の高級な特急一編成が灯りを燈して休んでいた。吹田操車場のあった岸辺や、鶏冠井の阪急の車庫を過ぎ、高槻や新大阪で、隣客が降りるかというのを気にしつつも、左手の阪急三番街のネオンが明瞭になり、なんとか大阪までたどり着いた。ここまでくると、南紀への旅も王手の一つ手前。なんとなれば天王寺からくろしおが出ている。特急に乗るなら新大阪になる。

環状腺ホーム。紀州路、関空快速もこちらの乗り場。
 
 
 
 
 
大阪方面の列車が併結中。
和歌山駅に停車中の221系。
これから紀南へ向かう。

環状線

 大阪駅は各案内板のLED光芒板が都会感を演出し、まさしく大勢の人でにぎわっている。この寒い中、イベントなどに繰り出す人もいそうだった。私は従順にも環状線ホームでダウンジャケットの人々の列の後ろにつなぐ。列が消えることはない。しかし東京のようではなく、まろやかさがあった。だからといってというところもあるだろうけど。

 

 夜の大阪駅はなかなかおもしろい。男性のいろんな私服姿が見られ、女性は決まってごついダウンでおしゃれな鞄を持ち、毛染めしている。駅員はどこかでマイク片手に次々に入線する環状線の列車を捌いている。背後のホームではステンレスリベット打ちの221系が青の新快速の幕を灯し、橙の鮮やかなドットで行き先を出し、車内を満員にしながら、口を開けて待機している。さらに乗って暗黙の袋叩き似合う、そんなことはあるのだろうか。駅員は今にも発車合図を出さんばかりだ。違うホームなのに新快速が出るとほっとした空気を感じた。そしてすでに新快速目当てのスーツ客が溜まりはじめている。
 私はというと環状線の列車を何本か見送っていた。紀州路快速併結の関空快速に乗りたいところだが、今の時間だと30分弱も先になるので、先に来る純粋な関空快速に乗ることにしていた。
 放送から関空快速が到着するとわかると、私の体幹は熱で揺らぎはじめた。あたかもそこにない列車を見出さんとするかのようだ。凄まじい風と共に入線し、列車が停車すると、私は視線を濃くして意識的に認識し、列の中にいる私はしっかりした足取りで前に進む。隙あらば割り込まれる気がして。牛歩の後、車内の床に足を、着けた、その瞬間、空気の違うのを感じた。それは大阪駅のものではなかった。とりあえずほっとした。これでまた紀州が近くなったわけだから。

 やはりこの列車を待っていた人は多いようで、次々に乗り込む。それを見ると泉南の人なのだなあと思う。環状線を待っているのは「こてこての大阪人」なのだろうか。
 関空快速は座れるわけもない。スーツケースを伴隨できるようにと座席が少ない。結局堺を過ぎるまで立ったままだった。

泉南

 大阪で学び、勤めた人々を鳳、和泉府中、東岸和田と降ろしていく。時刻は21時を回ろうとしていた。よく考えればこれらの地域では結構晩い時間ということになりそうだ。各駅のホームはどこもしんみりとして、ただ蛍光灯がアスファルトのホームを照らし、ぼんやり灯る駅名表示がなければ、他と区別がつかないくらいだった。私も初乗車から数えると、いつしか長時間乗車となっていた。

 途中の駅で普通列車への接続案内がしばしば行われた。あの鮮やかなスカイブルーをした103系である。
 日根野に着き、降りると、寒さに襲われる。紀州路快速を連ねていれば、その車両に乗ったまま和歌山に行けるのだが、仕方ない。乗り継ぎの人が何人かいるだけで、寂しい汽車の構内だった。関空のできる前はこんな感じだうと思う。みな身を縮こめ、何人かは突端に向かい、煙草に火を点けた。

 ここからは普通列車で和歌山まで行く。濃まやかな水色の車輌に乗り込むが、中は茶系統で地味だ。阪和線の普通列車なんて誰も乗らんだろうと思いきや、ロングシートは見事に全席埋まっている。でも立ち客はほとんどいない。
 少し気まずさを感じつつも、向かいのドアに立って、私はガコンガコン揺らされながら和歌山を目指した。速度は明らかにゆっくりで、車体も重いらしかった。車窓は黒く沈んで、灯りはほとんどなく、私には辺境に向かっていくように思われた。泉州も南端は寂しく、堺などの諸都市が和歌山に連綿と続いているわけではない。毛糸の手袋をしてバーに捕まっているが、ドアガラスからは冷気が伝わり、目の前のリベット打ちのドアは冷たさを強調していた。またそれは機械的な揺れをも印象に残させ、手袋を越して金属の硬さが伝わってきていた。
 「でも、不思議なことに和歌山に入ると一気に開けるんだよな。そこがいいところだ!」
 そうして自分を元気づける。しかし実際、うらやましいく思っていた。和歌山は和歌山として、独自を保っているに相違ないから。
 六十谷という峠の駅を過ぎ、いよいよ和歌山に入る。私は立ったままで視点が黒いガラスに固着されつづけていることにしびれを切らせ、思い切って車内を見渡した。すると、なんと、みんながみんな、同じ顔に見えたのだ!
 私はびっくりして、しばらく視線が外せなかったくらいだった。どう考えてもほとんど同じ顔なのである。
 「これが和歌山人…」
 物腰、空気は穏やかで、ファッションは地味だった。
 「阪和線のこの時刻の103系って、なるほどこんなだったのか。いや、一度乗って見たかったんだけど…しかしまさかここまで…。」
 とにかく阪和線103系の凄味を知れて、ちょっと満足した。和歌山はきっと何かある國に違いない。

紀ノ國

 まもなく終点和歌山。デパートの屋号塔や、和歌山線の合流を見るとなかなか疲れるものだ。大阪から帰ってこんな故郷を見るのは悪くない。それになにより、ここは紀伊半島・紀伊国を統べる拠点都市なのだ。
 「よし、やっと和歌山ワールドに入ったか! ここまで来ればもう辺境紀伊半島への旅も確約されたようなものだ。」
 すばらしい玄関口だが、私が降り立ったとたん気にしたのは、気温だ。
 「こんな中、寝るんだな。でもこれだったらいけるだろう。」
 なんとなし5度付近だったが、南に行けばさらに期待できた。何よりも私は冬の駅寝がうまくいくかどうか不安だった。冬に駅寝する人ははたして夏の一割いるかどうか。今回は雪がないからいいものの、最低が氷点下10度ともなると、かなり高いシュラフが要りそうだ。
 水色の列車から吐き出された人々は、久々の寒さといった感じで、階段を下りて群れを成して改札へと向かっていった。私は独り、感官を消耗しないようすぐ紀伊田辺行きに乗り換える。さらに旧式の列車と期待したいところだが、この時刻は帰宅客のために221系を当てているようだ。列車というのは沿線の格も変えてしまうようで、その車両から流れる風景は、都市近郊然としているように見えた。実際降りると、いい意味でそうばかりではないんだけど。