厳冬の南紀1
2010年2月
椿温泉
「よし行こう! 聞いていたように自転車も無料であるし、明るい地図もある。行けるはずだ!」
鞄はカゴに入らない。元々小さいし、ぶつけて凹んでた。それで肩にかけながら、おそるおそる漕ぎ出した。とにかく自転車自体のバランスが全く取れてない。どちらかに傾くし、転倒しそうになる。
荷物があればなおのことだったから、シュラフだけはカゴに突っ込んだ。
坂をゆっくり下りながらブレーキを幾度もテストする。とにかくこれが壊れていたらお話にならない。どうせ町は検査もしてないだろ。しなくていいよ。自分で気を付けるから。何かあって怨むような気力はない。
ゆっくり漕ぎながら、
「しっかし見落としてたな、椿駅は山の中ってことは、坂の上にあるってことだったんだ。行きはいいが、これ帰りとなると、どうやって帰るんだ!? すっごい下り坂だぞ。」
正直、参った、と思っていた、顔もやたら冷たい。下れば下るほど後悔していた。もっと早くに来て明るいうちか、バスでもひっつかえまえていればと思っていた。
「この自転車ぜったい棄てられたやつを拾て色塗り替えて配備したやろ。これ事故車とかそんなんちゃうか。おかしいって。」
ふらつきながらなんか乗りこなす。
外灯は幸い、遠い感覚ではある。これがないのは考えたくない。人家? そんなものはない! 森の中。つらく寂しい冬の旅だ。まさしく真っ暗である。ただ道はほんとよくて、二車線できれいだ。カーブの連続だが。
「なんでこんないい道付けてんのにこんな暗くて家もないんだ? この道からするとこんな時間でも使っていいのは間違いないはずだが。」
まだ駅に引きととどまる迷いも微かにはあり、また安全のためブレーキをかけたかったが、こんな真っ暗な道をゆっくり走る恐ろしさには勝てず、ブレーキはしだいに使わなくなり、最後はノーブレーキで山の下り坂をぶっ飛ばした。ふらつくハンドルを制御するため脇を締め、山中には自転車のギアの音が響く。
「タイヤ歪んでるな。」
乗り心地、めっちゃ悪い。ゴムは厚くて、空気は抜けにくいものになっているらしいが、却って安っぽかった。独りで雄たけびを上げつつ坂を三分の二まで降りると、灯りの付いた人家が見え、心の中で歓声を上げた。
「やっと里まで来たか。ここまできたらもう、漕ぐぞ!」
しかし、二車線だった道がいきなり狭くなっていた。途中で間違えたか?と思うが、走り去りながら思い返しても、心当たりはほとんどない。
「変だな。国道から駅までの停車場線を作り直したんじゃないのか?」
道はしだいに痩せ、さっきより暗くなり、先の方には行くもはばかれる気持ち悪い道が控えていて、
「これはおかしい。」
ほとんど止まらず、すぐ手前に分岐があれ、右の方が広かったのでそこを折れた。しかし本道いう感じでもなかった。走りながら、まあとにかく海に近づいているんだから道は単純だろうと、走っていくと川に出会い、気づくと、黒い水面にさめざめと国道の信号の映る川に、見上げる橋がかかっている、そういうところに出た。「これか。この川は海に注いでるんだな。」 微かに波音と潮風。けれど国道には出られない。「てことは、あの狭隘な道が本道なのか。うそだろ。」 幸いすぐ近くに人道用の橋があった。
からくも四十二号、朝来帰の交差点に出た。それはもう、あっけにとられるほど、寂しいものだった。
ただただナトリュームランプが点々と、登りながら屈曲する道を照らし、くくくくく、そういう路面表示を強調している。昔ならオートバイが好きこのんでこんな時間にぶっ飛ばしそうだ。まあ死に号線、なんていわれてるけどね。
静かに朝来帰(あさらぎ)の交差点であることを確認し、自転車押し道を左に取る。海辺はただ黒く、漁船の明かりが数灯見えるだけで、そんな真っ暗な海がただ音だけで緩いコールタールのように寄せては返ししているのを想うと、何かあったらもう二度と帰ってこられない、そんな気がして仕方なかった。朝来帰とは、どういう意味なのだろうか、そういう人や自分を安心させられるような帰り方をしたいと思った。
国道に出さえすればしめたもんだ。そう信じ込んでいたのだが、なかなか急な上り坂、私は荷物の重さもあって自転車を押した。歩道はひどく狭い。いぬの散歩の人とどうにか離合する。ほかに人影も一つあった。釣りか、温泉客か、泊まりか、しかしどうも温泉の従業員らしかった。車で出ていく。
車の通りは少ないが、ないわけじゃない。私は知らなかったのたが、どうもいったん道としてはこの椿温泉の地でいったん終わりのようだ。もちろんつながってるけど、地勢からすると、もう行き止まりなのだった。海岸部はこの先本格的なリアス式海岸を迎えるため、道は山に登り返しているわけだ。四十二号にそういう局面のあるのをあまり想像したことがなかった。
自転車がやったら重い。
「まあよくもこんな自転車置いとくよな。」
息切れし、恨み節ならいくらでも出そうだった。
切り通しのような曲がった坂を登っていった。駅からの行程を振り帰って、これはきついなぁと思う。結構遠い。 曲がる癖のあるハンドルを押して、信じていた平坦部に出ると、驚いたことに商店が二つ三つ営業している。ほんとかと近くまでいって覗いたくらいだ。その中でも入浴施設に近いところのは、帰りに必ず寄ろうと思った。コンビニは、ない。そういうものができる前の時代の町の風景だった。つまり調理したものなんか置いてないけど、カップ麺や酒、お菓子、おつまみを置いているといったお店さ。幼児のころ10年ほど前にできたローソンに入ったら、袋入りの唐揚げが置いてあり、たいそう驚いた。その肉汁にも。当時から高かった。しかし、ほかはほとんど乾物系のものばかりだった。
「あれだろ。あれじゃなかったら知らん。」
冷たい空気で胸が痛む。白い数階建ての横長なホテル。玄関口にしらさぎの名があるのを見て、遠いわあ、と漏らす。実は地図上では1.8kmしかない。だから私も予定の段階で行けると思った。おまけに自転車ならなおさら。しかし山から海、そしてアップダウン、また紀伊半島独特の山の深さ、夜の海のせいで、けっこうこたえてしまった。無事着いたけど、帰りのことを考えると、うわあと憂鬱になる。
「でもまあ、せっかく着いたんだし、うんとゆっくりしてやろうよ。いっぱいあったまったら、まあ少しは気持ちも変わるかも。」
そんなわけないと言う自分をうやむやにして、フロントに入った。
前に車は結構駐まってた。はやってるんやなあ。それや車だったら何の不安もないよな。
ホテルの匂いがする。暖色ランプが灯り静かだ。この階上では車組が床を取ってテレビなんか見てるのかと思う。とりあえず主人を呼んで、お風呂入れてください、と。
出てきたその人は変わっていて、太い声を出しそうなのに、女性的な面をもつ方だった。
「ほお、ああいう人なら旅館も向いてるんかな」
そう思いつつ、案内された通り進む。
椿温泉は歴史ある温泉だけに、昔から同じ人たちが集まってがんばって経営してきたのを勝手に想う。椿でもここは大きい方だから、周りからがんばらはったと思われている姿を思い浮かべる。館が大きければ経営というのはたいへんなものさ。椿に来るのは通だろう。私はたまたま駅から行ける温泉の一つというくらいだったけど。白浜は街まで遠いし。私にとっての貴重品をカギ付きロッカーに投げ込む。
服を脱ぎながら、「こんな例はないかもしれないが、でもいいじゃないか。」
浴室は誰もいない。みんな船盛りの刺身でも食ってんのかな。
厚着のため片付けるのも一苦労だ。こんなこと書いて私が女人でないことを申し訳なく思う限りだけど。
ドアを引くと、そこには湯けむりの浴場で、日中には紀州灘を見せてくれるはずのところだ。もうもうと立ち込めている。驚いたことに薬草湯として桶を二つ切っていた。みかんが浮きまくりの方に思わず目がいく。これはおもしろい。冷泉とあってか、薬草の方は加温していないみたいだった。もちん従来の湯もあるよ。それでも熱いほどではなくてほどほどだった。しかし体が冷えていたので、最初は熱い。馬油のシャンプーがあり珍しい。売店で売ってるそうだ。
初めは従来の方で体を温め、それから冷泉へ。はじめてだ。どくとくのぬるさで、柑橘の香りがほんのりしているが、野趣のある匂いがしてきていたのは不思議だ。
カランに赴いて、馬湯なるシャンプーを試す。ちょっとは髪質がよくなるかしら。何もかも帰りや今夜のことを考えなくて済む時間だった。
それからまた熱いのに、それから薬湯に…。上がっては浸かりする。最後は従来ので締め、夜の寒さを考えて温みを蓄える。もちろんそんなことはできはずないけど。
途中で客も入って来た。そろそろか来るころかと思って、しばらくしてから立ち上がった。
名残惜しむように、デッキに出た。明るい時分なら大洋が広がる。しかし一方で昼から湯に入って海を望むのは私にはまだまだ退屈だから、こうして夜の海を眺め日中を想うのがよい。そうね? これはせわしない者の優越かもね? 休日多少の悪天でもそれを楽しむ自分に価値を見るという。もっといえば、無意識的なそれはもっとも美しいものかもしれない。私のは時限的だ。なにせ日が昇ればおよそ世人の営みとかけ離れて、制度としての駅に見立てた停車場への巡拝をしているのだから。
だいぶあったまったから、と楽しみにもしていたのだが、しんと黒く寒く、やはり冬の夜は強いんだなと思わされた。
出るときあっさりして、はいありがとうございました、と、特にこちらを見ない。うれしいような寂しいような気持ちだ。入湯だけは客でないという私の思いを補強することに加え、怪しまないことによるもてなしにも捉えられたからだった。
「なにせこんな真冬の夜遅くにあんな山の駅からあんなフレーム鞭打って重い荷物抱えてくるというのはね、本来怪しまれてしかるべきだからね。」
そう独り言ちながら、またあの黄色い重い自転車に向かい、かごに荷物を入れ、跨った。湯に出入りする人が私の姿を見るが、とくに気を止めるでもない。でも、なんでこんな苦労を自分だけ、そう思わないではなかった