厳冬の南紀1
2010年2月
神志山駅にて
ほぼ日暮れを迎え、電灯が点く。暗くなると、濃紺の空が木造舎の間口に見上げられた。もう訪れる人もなく、ただ叢越しの走行音と、あのペンキ絵だけが見える。改札口の方は向かいのホームが見えるが、その向こうは巨大な空き地となっていた。里山と民家のシルエット。もう松阪や津も遠くない気がしたが、実際にはまだまた旅が残っている。
待つのは退屈だが、オークワで買った酒や食い物にありついているとそうでもなかった。夕刻が過ぎからというもの、利用者もほぼいないし、駅に近づく人すらいなかった。それでも扉がないところで茅舎に座っているのは、落ち着かないものだった。
よし終電もあとすこしというころだ。ツートンカラーの車が灌木のロータリーを回ってきたのは。ちょっと除けるような動作をしただけで、たちまちその車は急接近。あっという間に官憲が一人駅舎の中に飛び込んできた。「ああ、やってしまってしまったな…。」 「どうした? 」 四十代のベテランと二十代の細身だった。若い方は後から車から出て来た。ふたりともなぜか気さくだ。しかし駅旅をしていて、初めてだったので、熊野に出るというと、すぐ駅の時刻表を確認して、熊野行きはもうないで、と。単純な理詰めだ。職質の血が騒いでいるようである…。二人はいかにも知りたそうな顔してる。いや、新宮にいったん戻ってホテルを泊まろうかとか言うと、ほお、どこに泊まるの? それで、これはそのまま言った方がよくて、もし許しを出さんとなれば、本当に次の列車で新宮まで戻ればいいと思い、予約なしで泊まれるかどうかわからんから、この駅に泊まる予定だというと、二人はちっょとにやっと顔を見合わせて、「そのことについてはおれらはなんもいえへんわ。まあこの辺は大丈夫やけど、ただやっぱり外やから、持ち物の管理、防犯はしっかりしといてな。」と。通報で来たんですかと尋ねると、「いや、通常の巡回。」 暇になるたんびに外やホームに出てたので、気になっていた。「そしたら一応住所氏名控えとくわ」とメモを取り出す。西暦でいうと、ベテランの方が口を一文字に結んで、「元号でいうて」と。しかし一瞬にして若い警官が朗らかな顔で計算して言うので、この人賢そうやなと思った。彼らだったら逆のどんな元号でもすぐ変換できてしかるべきとは思うけど。そして身分証を確認するついでに覗いて、「あ、一万円札は持ってるんやな。金は持ってるんやな。」。 それからどこの学校を出たとか、職業は、年収はとか、すっかり彼らの職質の練習台の餌食になってしまった。私ははもうただのらりくらりかわしながら苦笑するしかない。「いやさぁ、しんどそうにしてたし、なんか悪い薬でもやってんのかなと。心配してたんや。家出とかもあるしな。」 それから鞄の中も念のために見せてくれ、というので、はいどうぞと開けっ広げにすると、「食い物ばっかりやないか!」と。すぐそこのオークワで買ったばかりだから。「酒まであるぞ。」若い方が、「冷えるからな」と。「今晩は寒いぞ。大丈夫か? まあこういうことする人はいるけどね。」 警邏ということは何かあるのかと、「この辺は大丈夫なんですか」と尋ねると、ちょっと記憶をたどるような顔をしてから、「この辺はどうもない」と。しかしそのときの彼らの表情がやたら真面目なので、逆に不安になってしまった。しかし確かにこの辺は大丈夫そうなのになんで警邏したんだろうと考えると、近隣が気になって、また「通報で来られたんじゃないんですね」と聞いたら、色を成して、「こうやって巡回すんのがおれらの仕事やから。通報で来たんじゃありません!」 若い方も苦笑いしてる。市民の側からすると、通報でいち早く駆けつけてこそ仕事をしていると思うけれど、彼らからすれば、通報されてから行くのは当たり前で、こうした警邏中に事前に成果を上げることの方が大事なのだということにこのとき気づいた。確かにそれはそうだ。「おれらも深夜またここに来ることにするわ。ちゃんと寝られてるかどうかも確認しに。」 私は素直に謝して、お願いしますと。いわずもがな、本当にそういう不安があったというわけではなかった。また彼らの方も、そんな啖呵を切った手前、というのはあったのだろう。最後はじゃあ、といって別れた。気づくと、私はまた扉もない木造舎の中の煌々と灯る蛍光管の下に坐っている。また独りに戻ってしまった。「しゃべりたかっただけなんやな」と。警官なんて、孤独な仕事だ。孤独な者どうしは、引かれあうのだろう。私はこの後、幾度となく旅寝を繰り返し、何回も職質に当たることになって、今となってはツーカーの仲となってしまった。しかしこの初めのときほど、人間味を感じたこともなかった。落ち穂を拾い切らないように、こういう場も残されてほしく思った。これはある種の社会に対して失った信頼回復なのだろう。
外間口から切り取られたように望まれる駅前の風景は、夜が深まるにつれて凄涼さを増していくものだった。ただ叢がざわざわ、風にゆすられている。海は歩いて行っても見えもしない。あの不気味に密集した灌木類の向うにただただ、人知れず揺籃されつづけている。しかしその凄涼さが、すこし和らいで感じられた。この木造舎に、ついさきほど、白熱灯一つ灯るような一つの物語が生まれたからだった。
私は人心地が欲しくて、最後にもう一度と、国道まで出た。コンビニでもないかと臨んだが、黄色の点滅信号があるばかりだ。うどん屋もオークワも真っ暗。交通量ももうほとんどない。
0時前の終電が行くと、いつものようにシートを敷き、シュラフを敷く。最終で降りた客はいなかった。列車を見ても、ただがらんとした空間を蛍光灯が照らしているだけだった。思えばその列車も街の松阪や津から来たかもしれないのだ。
下里よりもさらに開け広げな感じで、とにかく落ち着かない。国道のバイクの音もたまによく聞こえる。和歌山からのことを思い返すと、だんだん寝る駅が街に近づいているな、と。こうして旅も終わっていくんだな。信じられないが、寝るのは今夜が最後だ。明日の夜はもう関西本線、草津線に乗って帰っていることになる。
消灯し、深夜一時ごろ、一台の車が駅前にやってきたように感じられた。私は言に違わず、こうして横になっている。しばらくして、その車は去っていった。本当に来たんだ。
街の感じで緩和されているだけで、この日もめっぽう冷え込んだ。足が冷たくて耐えられないくらいだ。頭を改札寄りにしていて、間口から入って来る風が足元にめちゃくちゃ当たるのである。
慣れたもので、この日もなんとか眠れた。目覚ましで起きると、早くも空が濃紺の光をぼんやり戴いている。太陽を求めるとは、なかなかしんどいな。ぎゅうっと体を縛り付けられるような寒さで、手は少しも言うことが利かない。こうして急かされるようにせっせとシュラフをスタフバッグに詰めるのも、なんかばからしくなってきた。一通り支度を終えると、ぼんやりしながらホームを歩き、始発を待った。結局夕暮れから朝方までだけだな、この駅のことを知っているのは。
賀田へ
暁光を望みながら、始発の紀伊長島方面への列車に乗ると、もう吹っ切れた。もうこのまま木本から尾鷲の間にあるリアス式海岸の区間に向かうことにしていた。しばらくは駅に降りないことになる。熊野市駅でしばらく停まる。重々しいものは何もなかった。駅員の肉声の放送が懐かしい。西から来ればこの駅はJR東海の放送が聞ける初めの駅になる。
列車が大泊に向かって出ると、私は緊張した。とんでもない閑散区間へと向かう気持ちだった。深青色のモケットは、トンネルの暗い中で真っ白な蛍光灯の下、輝いている。車内に客はほとんどいない。しかしここからの区間のトンネルは理性的で、ただ入り江の集落を駅という点と点で結んでいくだけなのだった。だから、まっすぐなトンネルを出ると、いつも駅である。それはJR東海に似つかわしかった。