中国1―近畿から鉄道で中国山地へ

2011年7月

 広島や新山口までのあの長大な山陽地方の駅旅から、ふた月が経った。五月に訪れ、梅雨の六月は雨音を聞きながら旅程を練った。毎年のパターンだ。そして七月を迎える。いちどやってみたいことがあった。それは七月下旬になって梅雨明けしたとたんに、長旅に出るというものだった。採れたての季節を味わいたい、そんな考えだ。できれば天気が良く持つ中国地方がいい。そのほうが気持ちいい。北陸地方を攻めていたころはよく辛酸を嘗めさせられた。日本海側でもあちらの方はそんなに天気か持たない。
 中国地方のような西日本らしい西日本は避けてきた経緯はあった。というのも、あまりに豊穣・爛熟の風景と文化だからだ。あのあまたるい方言をまた聞きたいとも思った。年少きころはやたら北ばかりを目指すものだけど、そんな時期も、少々落ち着いたのかもしれない。

 西日がガンガン攻め込むエアコンもない陋屋で扇風機の風にしがみつくように、予定を立てる。主眼は三江線だ。とにかくこれを落とさない以上、駅旅をやったとは言えない、そんな気がしていた。とかく本数がなく、下車旅をすると距離を稼げないので、18きっぷなどでは逆に損だった。考えた結果、その都度現金で払うことにし、バスや徒歩も活用しつつ、三次から日本海側に抜けることにした。自分にはその段階で、長い山を越えた暁の潮の薫りが想像された。そうなるともう実現化してしまわないと気が済まなくなる。旅の想像に囚われてしまうのだ。

 三次までは高速バスの案もあったが、天気も持ちそうなので、福塩線の山あいの閑散区間の下車旅を前の一日に足して、起点となる福山へは前乗りすることにした。

 三江線の予定は困難を極めた。とある駅では滞在時間が19分みたいなところもあれば、2時間、3時間の長時間のこともあり、得体のしれない深山の駅での何泊かせざるを得ず、バスといってもそれを鉄道と組み合わせて立案するのは至難だった。長時間の滞在となる駅では隣の駅まで歩けるような駅を選びたいところだが、なかなかそうもいかない。半月ほど悩んで、ようやく予定を清書。あとはいつでも行けるような準備をした。

 梅雨明け十日とはいうけど、山間部では不安定なもので、夕立や急に雲が沸くことが懸念されるような予報だった。しかし山ならそれも画になるだろう、と、毎回予報に足される"夕方から雨"、は気にしないことにする。この文言は、天気予報というのはハイカーや人の少ない山間部に住まう人々のためにも出さないといけないので、平地ではそんなことなくても、こうした文言をおまじないのように足しておくことがあるのだ。

 とかく、夕方から雨、と毎回足される予報解説をネットで聞きながら、出発の準備をした。なぜそんなに旅に出るのか、駅を軸にするのか、と言われてもわからない。もはや体と脳がが勝手に動く感じだ。ただ一つ言えるのは、恐らく今の自分には水のように必要なものなのだろう、そういうことだった。自分でも言い当てられないような過重なトラウマや想像の希求が、あるのかもしれない。

 ことしも夏の長旅かはじまるのかと思うと、ふだん利用している駅も急に新鮮に見えた。夕刻だが、何か新しく生まれ変わる前夜のようでもあった。七月だから日もまだうんと長い。それも重要なポイントで、本数の少ない区間において、時刻の遅い列車を使って、駅旅を続行できるというメリットがある。
 デッキから街の様子を眺めていたら、むかし家族旅行の予定を進んで立てていたときのことを思い出した。よく最寄りの私鉄の駅の時刻から克明に記して書いていたら、そんなところはよくて、まずは乗る予定の新幹線や特急を軸にし、あとは簡単に書いておけばよい、と言われたものだった。いわずもがな、そんなふうに些末な駅から書くことで、旅行の想像を味わっていたのだろう。

 天界から降臨するようにエスカレーターでホームに降り立ち、このうんざりするような風景から逃れられるのか、と、あたりを見回した。
 ふだんは快速くらいがちょうど良いと選んでいたけど、福山まで出ることを考えるとそうも言ってられない。新快速を思い切り鞭打とう。

とりあえず新快速で姫路・播州赤穂へ

大阪・淀川

 ふだん着の列車に乗り込むと優越を感じた。まさかこの中でこれから福山まで出ようという輩はいまい、と。よもや三江線なんて夢のまた夢であろう。車内はすいていて、木菟に座れた。当駅から夕刻の大阪方面なんてこんなものである。

 ところで、新快速に乗っていると我慢較べみたいになることがある。さて、隣のあんたはどこで降りるんだ、というような…というのは、中距離乗る、鉄道に余り興味のない人は、我こそは隣の者より残るだろう、そう思っているのだ。けれど私が平然と大阪、尼崎、果てには三ノ宮まで過ぎるので、降参しました、とばかりに、隣の人は消えていく。立っていた人が次にまた隣に座る。今度はその人と勝負だ。その座って来る人も、この人はいったいどこまで乗るんだろう? そう思っているのである。しかし私が超然として態度で西明石、加古川、と過ぎるので、やはりその人も、いやいやそんなに乗らないでしょ、おかしいんじゃないの? とばかりに怪訝に降りていくのである。
 姫路に到着。もうここからはそういう勝負にはならない。人はがくんと減り、閑散とした雰囲気の中、播州赤穂までの停車駅がしんみりと案内される。車掌も何回か変わっている。大阪までは女性、それからも女性、しかし姫路からは男性だった。乗ったときの、わたくし〇〇が、大阪までご案内します、というのをよく憶えている。

姫路

 相生でいそいそと降りていく人を見届けて、列車はおもむろに動き出す。もう日もとっぷりと暮れて、終着の播州赤穂。この時間に岡山方面に出る人は少ないみたいで、車掌に注目されつつ乗り換えることになった。

岡山へ

 なんとなし中国方面に抜けるのに赤穂線を使うことが多い。どうせなら長く乗れたほうが得という貧乏性もありそうだが、見えなくても海の近くを走りたいというのもある。けれどどうでもいいときは山線の三石経由を選択してしまう。車内ではほぼひと駅ごとに巡回があった。駅が無人だからだろうけど、乗車があったのだろうか?

 東岡山の放送を聞いたときはなんとなしほっとした。夜のローカル線というのはなんとも心細いものである。古いシートに古いガラス、その窓には亡霊のように光が流れ、車体はがタピ揺れる…
自分と同じことをしている人がいない車内というのは、存外さびしいげなものだ。

福山へ

 岡山を越えて、福山へ。もうしばらくの辛抱。そう…中国地方への旅はこうして前乗りすることが多いんだけど、在来線だけを使う場合、夜間のこの移動が精神的にネックである。8時を回った岡山の近郊、北長瀬、庭瀬などはまだ人も多かったが、そこも過ぎると車内の人もだいぶ減った。
 にしても、金光、笠岡と過ぎると、いったいどこもまで自分は前乗りするんだ、と。ちょっと遠すぎやしないか?と。前乗りは岡山までくらいが限界かなと。なんとなししんどい。
県境の大門で列車は傾いて停車。そういえば前回の旅行でこの駅にも降りたなぁと。峠?だからか、その駅に着く前から車掌が巡回していた。車内の警備も兼ねているのだろうと思うとなんとなし頼もしい。

福山

 大門を過ぎると、もう福山もまもなくだった。東福山の次である。ここで大急ぎで乗り換え。最終の福塩線・府中ゆきに乗らないといけないからだ。さすがにこの本線との接続は考えてくれているみたいで、なんか待っててくれているように見えた。けれど乗り換えたのは自分だけだった。初めて乗るカラーリングの105系に少年のようにワクワクしながらも、そこには夢想だにしていなかった光景が待っていた。

福山駅のホームにて

 福塩線の車内はギュウギュウだ…終着は0時を回る列車だというのに…なので立つことになったが、乗客は珍妙な人ばかりである。まずは酢飯の御仁。ステテコにランニングシャツ一丁なのだが、汗のにおいというか、酢飯の匂いが凄いきついのである。いくら夏とはいえ、これはないだろう、と思うも、一方ではド派手な格好をした女人が床に胡坐をかいている。黄色やパステルプルーにフリルにガングロ気味の化粧という見たこともないくらいのけばけばしいいでたちでこなんか昔の娼婦そのものだった。その彼女が、酢飯の御仁を怪訝に見つめているのである。いや、お互い様やろ、と、都市圏からやって来たことを自負する私は思う。そして…座っている乗客の顔はみなすごく濃かった。夜間のローカル線は土着の人しか乗らないので、こういう光景は珍しくない。なんとなし、その土地の顔、というものがあるのだ。以前は和歌山に向かう阪和線で遭遇したっけ。
 これは濃いぞぉ、と思いつつ、列車は出発。こりゃ駅寝する駅で降りても先が思いやられるかもな、と思う。