山陽1

2011年

山陽の罅割れた日の光のかけらを求めて

 北陸本線の下車旅がひと段落したら、山陽地方を訪れよう、兼ねてからそう考えていた。2010年代には似つかわしくないほど、山陽本線には旅情ある旅ができるような駅が数多く残っていて、こんなのいつなくなってもおかしくないな、そんな気がいつもひしひしとしていた。
 また、毎年、五月の連日の好天にどこに行くかは悩まされるところだったが、そんなところに山陽地方が滑り込んできたのはまさにちょうどよかった。

 しかし何よりも問題なのは数カ月前の東北の大震災だった。節電が叫ばれ、自販機の明かりはすべて消された。山陽線の各駅前でも救援物資の受付をしているところもあるというくらい、全国的に混乱が発生していた。そんな中旅に出て、僕は恐ろしい心地がした。
 けれど山陽の工業地帯が奮闘していて、その力強さに触れたいという思いもあったし、全く遠く離れた地方で人々がふだん通り暮らしている姿を見たい、というのもあった。というより、そんな情景を見たいと切に願っているのは、何よりも震災に遭った人だろう。それになによりも、山陽地方は原発事故の地方とはまったくの逆方向で、安心できるというのも大きかった。そう、このころめはいめいの一存で疎開する人は少なくなかったのだ。以前から移住先としては、岡山がよく取りざたされるきらいもあった。

 しかし―数多くの人が亡くなって、自らの生きようとする力が暴力的に亢進したというのもあった。
 とにかく何か活動したくて、仕方なかったのだ。
 酒類が禁止と言われれば、それをこっそり提供する闇酒場があり、音楽が禁止されれば、細々とでもそれを誰かが営みつづける。エスペラント語が普及しなかったのは、統一しようとすると離散する、人間の習性によるらしく、そのことが人類の存続に寄与してきたのだそうだ。

 けれどこんな一般よりも、もともと社会的な良心より、自分の基準に従ってでしか行動できない僕は、自粛とは無縁の生活を送るしかなかったのだ。
 夕方5時の週間天気予報と天気図をチェックしたあと、僕はあらかじめまとめていた荷物を持って、すっと家を出た。新快速は姫路まで伸びているが、始発に乗っては山陽入りがあまりに遅くなる。そのため、前日に少しでも近づいておくことにしたのだった。

姫路行

 新快速に二時間乗る。中国地方の旅はじめとしてはなんとも気の進まない時間だけど、もう儀式のようなものだ。新幹線でさくっと行くほどの余裕と心構えが、僕にはまだない。
 実は、琵琶湖線から西へ進む列車はこの時刻、わりとすいている。京阪地方からの帰宅の流れとは逆だからだ。京阪間は混雑をまぬかれない。京都から高槻までのあの空気感は、なんとも耐え難いものがある。
 五月といっても、連休はもう済んでいたし、その連休でさえ平常通りの行動に対する非難は強かった。あまつさえその平日となれば、みんな震災の報道にかぶりつきながら仕事したり、学校へ行っている、そんな時分である。とかく、みんながしんみり、ぴりぴりとしていた。
 大阪到着前の、ネオンの乏しい阪急三番街。これから一夜世話になる備前地方の真っ暗な無人駅の想像がそれをかき消していった。

 都会を見て思う。少しでも都会に住んで、人と出会って、仕事もして、一人で暮らして…そんな人をこの国は歓迎している。だってそんな生き方をサポートするサービスは、山のようにあるのだもの。家賃を支払ってくれ、仕事もしてくれる給与所得者となり、そうすれば保険料と税金も自動徴収、その代わり、自営よりはだいぶそれらは割引、そういうシステムに素直に乗ってくれる人を、この国は歓迎している。そうして、僕はまったく歓迎されない人間となり、ここでもまた、そういう道を選んだわけだ。

 大阪を出ると、神戸くらいまでなら余裕で旅の意識を保てるが、明石まででそれも尽きて、それ以降になると毎度うんざりしてくる。山陽鉄道が見えることになると、いつまでも同じ席に座りつづけていることに、自分で自分のことを不審者に思うほどだ。神戸の元町は日中はいつも人が少ない方だが、帰宅時刻とあって人が多かった。

 加古川まで来るとようやくかと思う。高架駅というのは相変わらず人を疲らせるところがある。

姫路にて

 終点、姫路着。さあこれから岡山行のボロ列車を押さえないといけない。2011年の原発事故でさんざイエローケーキと呼ばれはじめた、あの黄色い列車である。
 姫路のコンコースでおにぎりを買ったが、それにしても姫路はなんとなし柄が悪い。播州の荒々しさだろう。トイレで手を洗わずに出る奴多数。それにしても高架後、姫路のエキナカは充実したものただ。

 イエローケーキの車内はいつものようになんとなし古くてかすかな黴臭さがあるけど、懐かしい匂いだ。五月の夜とあって肌寒く、乗客も少なくて寂しかった。赤穂線に入ると列車は淡々と無人駅に停車していくが、都市圏だけあって、降車客はそれぞれ二十二以上いた気がする。

117系。
このころはとにかく九州新幹線ごり押しだった。開通間もなかったからね。