山陰海岸紀行―帰還・山陽本線を経て

2012年7月

 関門海峡トンネルの雫は、何か僕の人生の敗北を感じさせるところがあった。門司港駅の衝撃が忘れられない。襤褸の交直列車の中を、ネクタイの無いまろやかな顔の車掌が通り過ぎていく。なにか時代的にちぐはぐなところがあった。
 列車に乗って味わう敗北といえば、それは東京物語のようだ。けれど誰にだって心に都会というものがあるものだ。そんなものが実態を伴って現れた東京なんて、僕はさして興味がない。だって、僕が負けたのはほかならぬ、自分自身なのだから。

 まっすぐな人生を捨てて、旅に身をやつしてしまった。しかし今思えば、そうなったのも単に自分に期待のあったことの裏返しに過ぎない、けれどいっぽうで、自分に期待を持たない者は、ほんとうに駄目になるんだから、何とも言えない。

 夕景の徳山・コンビナートを見ると、この故郷を心にしまいつつ、大都市や世界を目指した人もいるのが想えてならなかった。僕はこの車窓を見て遠くまでやってきたと思うし、異国だともいたく感じる。けれどそうしたものを、それはそれ、と、脇に置いて、まっすぐに道を歩いた人の方が多い。
 ついこないだまでは、そうした生き方がまっとうなはずだった。けれど二十年代となった今は、もはや利潤と資源の強奪が看過できないほどになった。少なくとも―どの時限において何が正しいかは措いて―僕がこういった生き方を呈示するのは、僕には似あっているようだし、できることといえばもうそれくらいだともいえる。

この光景を見ると、光ももう間もなくだと思う。
光駅。鳴き砂で有名だ。

 もうすっかり暗くなったころ、19時前に岩国に着いた。どう調べても今日中に大津へはたどり着けそうにないので、山陽本線のどこかの駅て寝ることになりそうだ。福塩線なども考えたけど、とかく面倒である。乗っていた列車は糸崎行で、こんないい塩梅の長距離列車もないのだけど、疲れもあって岩国で降りてしまう。
 列車が行ってから、飲み物を買った。夜風を浴びながらホームを歩く。だだっ広い構内、長いホーム。誰一人として待っちゃいない。たまにパート帰りのおばちゃんがいるくらいだ。そんな闇夜の構内に響く放送は、ひときわおどろおどろしく思えた。

 広島・岡山方面の列車をだいぶ待った。疲れたとしても、あまり途中で降りない方がいいのは経験でわかっていたが… 乗ってからのことはほとんど寝ていて覚えていない。熟睡していたのだ。薄目を開けて見た広島駅がもう静かになっていたのを覚えている。とにかく、白市から三原の間のどこかで降りようと思った。そこで寝るか、またそこから移動するか、それは降りてから決めよう、と。僕は終電の一本前に心づもりをしていた駅に着くことが多い。そこでたむろでもされていたら寝られないし。