山陰海岸紀行―帰還・山陽本線を経てその2

2012年7月

 明けきらない夏の始発列車は、何とも言えないそわそわ感がある。本線なのに時間が止まったかのような昭和の静かな町、河内の駅から僕はそんな列車に乗ったのだから、再び旅が始まる、そんな気になるはずなのだが、もはや旅行は十日目、気がおかしくなりそうだった。来る日も晴れ、晴れ、晴れ。そして海、海、駅… 天国のようで、地獄である。僕の人生はもはや他者に対してはおろか、自分に対してさえも益するものとはなっていない。とにかく早く帰ってしまおうと思った。

倉敷駅にて。

 河内から乗った列車が岡山行きで、手前の倉敷で降りたのは、姫路行の始発に乗れるからである。けれど、降りるとまたむわぁという夏の空気と朝の忙しそうな人々の姿。何かもう後悔しかなかった。岡山の人は概してまじめである。なるほど吉備王国というのはこんなふうに勤勉な人たちで成り立っていたのかもしれない。が、いい加減な僕にはとかく合わない。
 あとは混雑する岡山をやり過ごし、ただ漫然と乗り通すだけだ。それにしても、この姫路から岡山ははじめは楽しかったけど、今となってはもはや辟易している(たぶん鉄旅人はみんなそうなるのだと思う)。

岡山に来たなぁと思う。
晴れの国だ。

 姫路まで着けばもうこっちのものである。あとは新快速一本でで帰れる! ただ…座れればの話。145km先、2時間以上乗車して大津まで帰る自分にとっては死活問題で、しっかり早めに並ぶが、実は姫路から乗るのならたいていは座れる。むしろ姫路から岡山行きの古くて遅くてボロい列車に乗る場合は、たいてい座れない。しかもフリーきっぷの御仁ばかりで、若い人もいない。

姫路。お茶を追加購入。

 わたくし、相当疲れていたのか、隣のお兄さんに寄り掛かったまま寝ていることがしばしばあったみたいで、2回ほどその人にグイと頭を向こうにやられた。もう恥ずかしいやらなんやらで、毎回そのたびに軽く謝っていた。もうめちゃくちゃに疲れていたのだ。というか、隣の人に寄りかかって寝たのは、これが人生で初めてだった。

大阪にて。このころにはすかっり目が覚めていた。

 とにかくこうして僕の山陰海岸紀行は終わった。駅寝で渡り歩いて山陰を旅することが実現可能だということもわかった。門司港駅のような、みんながいいというものへは、早くに足を向けて出会った方がよいということもよくわかった。
 夏というのは中学生以降はあまり良い思い出もない。なぜってたいていの人がそうであるように、とかく勉強だとか、受験だとか、模試だとか、競技大会だとか、これは僕の場合だが、偉い先生のレッスンを受けるだとか、コンクールの準備だとか、そんなばかりで、夏といえばとにかく「緊張の夏」なのだ。だから天気の良い日にエアコンの効いた部屋で考査を受けたり、誰かと出会って面談、面接、レッスンを受けたりするのが僕はかなりに苦手である。なんでこんなに外はいい天気なのに、エアコン付けて人と、先生とやりあわなければならないのか、と。本当にそれは正しいのか? そんなふうにずっと考えていた。もううんざりなのだ。日差しをよけて、将来を見越した行動? そんなの嘘っぱちだよ! 社会の変化速度は想像もつかぬほどで、知ったふうな「大人たち」のいうところの将来なんてなかったではないか! むしろ既得権益にしがみついているのは一体誰なのかね? それを指摘して暴き出して行動している人は、みな、あのとき、あのときの夏、クーラーの部屋に閉じこもらず、太陽を浴びていたんじゃないかね? どうだね、答えてみろクソドモ! 答えられるわけがないのである。ウソばっかりついて自由を奪った見返りを、彼らは甘んじて受け入れるべきだ。

 ただし、断っておこう。どれほど社会が変化しても世相が変化しても、変わらないものというものがある。それは本物を見る目だ。別にこれはフェンディやコーチのバッグであるとか、フェラーリやマセラッティといったスポーツカーのことではない。どのようにして革は獲られ鞣され、どのようにしてエンジンは動き、電気もネットもなくなっても生活を創造できるような、原理的なものを理解し大切にし、ときには実践までできる力である。既存のシステムに乗っかって儲けているのは、それはあなたがすごいからではない。そのシステムを作った奴がすごいのだ。だから何も残らない。法もグーグルもない中で、攻めてくる奴らをためらうことなく刀で斬り捨てられる度胸を、華やかなSNSが違うと思うのならそれを貫く力を、身に着けるべきなのだ。(山陰海岸紀行:おわり)