赤碕駅
(山陰本線・あかさき) 2012年7月
静かでまったりした朝早の下市駅から少し出歩いたあと、そこから列車に乗ると客は多く、ようやく朝がはじまったのだなと。中にはまさ海水浴に行く、みたいな恰好の子もいて、いかにも山陰らしかった。
ちょっと大きな駅に着く感じで汽車は赤崎に入る。私は緊張を催す。何人かが疲れたように放り出され、もやの中を漂って虚心に改札口へ向かう。空気はもうすでに、予熱の終わったオーブンの中のようだった。
私は、あっつ! といいつつ、ホームの端に赴く。そこに私がここに来た記念になる駅名標がある。事実猛烈に暑く、もう梅雨が完全に開け去ったのが報道に接しなくてもわかった。「そんなん見んでもわかるな。」 懐疑する必要はまったくなかった。それに…通信端末も何もない、山陰の夏の旅行だ。
構内は灼熱のバラストをかんかんに熾らせ、煤煙がかすかに棚引き、黄色な太陽が私の頭頂をするどく突き照らす。
駅名標の足元には花壇があって、ある婦人が水を遣りしていた。花に水やりだなんて、自分がやったのは小学校の当番か夏休み以来かもしれない。そのあたりに一瞬、いい風が吹いたので思わずそこの日陰を味わっていると、その人が私に
「お暑いから帽子をかぶりなさった方がいいですよ」
と、にこやかに。
私がなまじ受け取っていると、その人は本気だという真面目さを表情に湛える。
やがてその人は立ち去った。残されたじょうろにはマジックで赤﨑婦人会と記されてあった。
「山陰は着物姿の人も見かけるし、私なんかでも旦那扱いしてくれるのか」
旧制高校の歳に近いでもなかった。これが明治だったら、ご婦人こそ気を付けなさってください、とかなんとかいって銀貨を握らせ、こんなにいただけません、どうかしてます、とかいわせるのだろうか。
何々の町、赤崎、という写真入りの吊り下げられた看板の下から、また涼風が入ってきた。そこは旧小手荷物通路だったのだった。 すると、忙しくなる前の朝の駅の一瞬を思い出した。 ここはどんな町なのだろうな。そんなことばっかり考えて、駅旅してる。もっとも、どこだってたいてい秀抜なものはないさ。けれど初めての町のはじめの一歩にいつもいるこの想像する楽しみと期待感、これは堪えられないものだった。 しかし休んでいると少しくらっと気分が悪くなった。家いるときのようには食べてないし、駅寝で二日目だからだった。けれどこの悪心でさえ夏の山陰にいるということにほかならなくもあると思うと、急に元気が湧いた。赤碕という地名。またあおつらえ向きにも海っぽい地名だ。漁師たちが目印にした茶色っぽい岩が、この町の海にあったのだろうか。そして赤はまた、なんか山陰に似合うところがあった。
駅はかなりに鋭角な三角屋根の木造舎で、中と合わせても山陰のどこにでもありそうな雰囲気なのだが、外に出ると不釣り合いにかなりの敷地が広がるのみで、ちょっと妙な感じを受ける。どこか工業的だ。でもその面影もない。歴史は…まあ研究家に任せるとするか。
ここ赤碕は大山の裾野を回り込む前の最後の町となっており、涼しげな並木道がはじまっているが、実態は海辺のとある村に近いものかもしれない。でも海はここからやや遠いので、駅旅人には真の町であった。
こんなふうに少し海から離れた駅から、あえて観望に行く、そんなのもいいと思った。少女の白い麦藁帽なんか灯台をめぐる鴎のように吹きとばされればいい!
それから少女はやさしいきもちで一通の絵手紙をしるす。そうして受け取った人は自分に心酔していると罵ってみんなで嘲笑する。それでもよい。
むしっと息の詰まりそうな暑さ。空も暖湿気でブルーがくぐもっている。でも悪い感じはないな。だっていかにも夏って感じだもん。
そういう暑さを避けるように駅舎の中に戻り込むと、タクシーの運転手がいて、
「もう梅雨開けたの?」
「開けたって。それでこんなに暑いんだ。」
私はその会話を聞いてどきどきした。けれど同時に、「あたりまえだよ。見たらわかる!」そう弩しもした。
山陰の初物の夏を捕まえたんだなと実感して、体腔いっぱいにエネルギーの充満するのを感じたのだった。目の前の人を轢いてでも前に進みたい、私はそんな暴力的なロマンティカーでさえあった。赤碕の駅を思想の棍棒で殴り倒した、その表記から海の目印の赤茶けた巌と断言した、批評もした、山陰の婦人にも遭遇した、その人に銀貨を握らした…なにか多くの同年の若人と手を繋いで、陽にきらめく飛沫上げる波濤を堰き止めるような、そんな感覚であった。
この駅を通学で使ったような人には、そんな感覚はおかしいようだが、どんな人生の停留場も、その輪郭を自分の最も好きなブルーだけでさっとひと刷毛にえがききってみたいのだった。