青森駅

(東北本線・あおもり) 2009年5月

  朝の忙しい最後の時刻にさしかかって午前の自由な時間への扉を開きかけたころ、昨夕から乗車しつづけた寝台特急がついに、青い海峡の終着駅に入った。リネンを雑に畳んだ寝台の並ぶがらんとした車内に何の感情も抱かないかのように、客らは気もそぞろに背を向けはじめる。しかしその背は、ひと晩休んだ寝台をあとにする気まずさや、名残惜しさを、感じていながらも感じていないように巧みに装うのに長けた姿にも見えた。
  代理として、そういうものを感じようと最後の方まで残っていた私も、やがてはほかの人々と同じように断ち切って、機械室じみたデッキへと繰り出した。するとそこは人々が詰めかけたせいで薄暗く温気がこもり、みな、不機嫌に黙っている。ときおり妻の夫へのささやきが流れる。ほかは、客たちの疲れた呼吸だけで、私は自ら被った長時間乗車の頭痛をこらえる。とつに遠隔操作で空気が抜かれ繰り戸がいったん緩み、ぎこちなく開き切るともう、津軽の空気がすぐそこだった。逸る気持ちを抑え、前の人の足を踏まぬよう、足元だけを見ながら少しずつ前とにじり寄る。しかし戸口を目の前にしたとたん、後ろから押し出されるように よろめきながらステップを踏み降りることになって瞬く間に真っ平らなホームへと押し流された。一気に新鮮な外気に身を包まれる、けれどもあっと冷涼で、首が縮こまった。でも、 「用心するほどでもなさそうだ、これならこれからの旅もなんとかやっていけそうだ」と判じられると、安心して身を 津軽の空気に委ねて、人知れず少年のようにその冷たい空気を 深く吸いこんでみた。黒いほど濃紺の鋼鉄の客車は動力を失い、巨大な子供、その手によって牽いて弄ばれるのを待つかのように、従順に電気系統だけが生きていて、方向幕だけが灯(とも)りまだ血の気を感じる。遠くで解かれた機関車の近くでは、乗客たちによる撮影会が行われているのが見える。寝台車から降りた人は多くはなかった。撮り残すほど珍しいものになり、また、列車以外の見えざる手でほかの客らがどこかで、空港などで、運ばれているのを想わせた。ホームに土や泥の匂いはなく、都会の洗練が移入されていた。

  8時半過ぎのホームは、まだ通勤通学の人たちが気難しい顔をして冷たい空気の中突っ立っていたが、それは別のホームで、まるで旅行者とかちあわないようになっているかのようだ。しかし青森の人とて、寝台に乗ることはあるだろう。白いワイシャツで黒い短髪の いかい高校生数人が、薄い背広の男性と肩を並べて、物おじせずそば屋で温かい椀に首を落としていた。店は湯立っていた。数少ない普通列車が出ると、彼らも吸い込まれていて構内は静まった。ひとり機関車が海辺の先端まで行き、折り返し、構内をぐるりと回っていく。

  構内の上には、湊を跨ぐ巨大な橋が架かっているが、これを見ると、湾の形やその国土の尖端たるをはっきりと想像させるようで、認識の安直な手段ともいえるし、わかりやすい最果てのロマンともいえそうなものだった。忙しい時刻を乗り越えた駅は、店を整え直したり、スピーカーが回送列車の到着を告げたり、だいぶ先の特急白鳥を教えたりしていた。

 

 

 

 

外から見た乗務員室の様子。

右:ついに扉が閉められた客車。

1・2番線ホーム

駅名標と寝台特急「日本海」。

旧連絡船方。


いろいろとひところに新しくし直されたようだが、 それでもだいぶん年月がたったように見える。

 

電源車。

連絡船乗り場への跨線橋への階段は閉鎖されている。

青森ベイブリッジの橋桁。

機関車を切り離されてぽつねんとしている「日本海」。

駅の裏にはマリーナの建物が見えた。はじめ水族館かと思ったが…。

国鉄時代の案内板。

埠頭を望む。

あんなところにホームが。後で見に行かねば。

1・2番線ホームを新青森方に望んで。

ここの屋根はまだ木製だった。

 

日本海側沿いを走破して血潮噴き出した電源車。というのはともかく、 どうしてこうなるのだろうかと。

 

 

回送されていく機関車。

はつかり停車中の風景。

2・3番線。

この案内板はJR様式だが、以前は国鉄様式で左側には青函連絡船への案内が入っていたのだろう。

電気が消えている。

 

 

右手三厩行き。約一時間後の発車。

 

号車案内札と「日本海」。やはり号車案内札は 金沢支社のものがいいなあ。

連絡船方。

待合所と待合室。

待合室内にて。最近造られたのだろう。

埠頭方に見た待合所。

 

そば処「八甲田」。新しい店構え。

旅人をよろこばしめる広告。

跨線橋への階段前にて。

 

 

 

青森ということで。ちなみに電話らしい。

埠頭方。

 

 

 

 

 

時刻表。メインは東北本線か。

駅舎方。

 

信号所方。貨物用昇降機と跨線橋。 このエリアは立入禁止になっていた。

 

 

こんなところに横浜デスティネーションキャンペーンの広告。

  造花やいいトイレのある跨線橋の中に居ると、そのベイブリッジと争うほど、長いように思える。それほど構内は広かった。ホームの青色のトタン屋根が積雪や突風を暗示している。貧しい小屋の屋根を思い出した。

3・4番線ホーム

  大湊の方に行く快速列車が入るころ、そのホームには人が増えた。その中に、少女と、その背丈に合わせて屈んでこんこんと話しこんでいる若い父親がいらしった。その人の妻は、女の子の側に立っていて、夫だけ単身赴任するような様相を見せていた。しかし、そのお父さんはひどく泣いていた。妻は悲しい柔和な表情をたたえて、ややこうべを垂れていた。
  その快速列車は、激しいベルと共に動き出した。構内の海と反対側の端の、貨物ホームを過ぎて行く。そのホームは低く小さく、陋屋があった。客は誰も入ってはいけないところだった。単身で離れて行くあの人にとっては、そのようにして触れないものになり、思い残すものになるのかもしれないと思えた。

3・4番線ホーム下り口前にて。

 

3・4番線ホームにて。スーパー白鳥などが停まっている。

 

 

信号所方。ここだけ異様に古いままだった。

 

 

 

 

7時から22時40分まで開いている売店"NEWDAYS".

ここにもそばの八甲田があった。客が引ける時間のためか、改めてセッティング中だ。

種別普通の回送列車。

 

 

 

階段方に見た待合所。あまり周りと調和していないが新しい。

4・5番線。

 

埠頭方。

 

 

 

階段方。

 

2・3番線。

 

この先はスイッチバック。

連絡船方はもう用途がないのでがらんとしている。

 

 

 

垣間見える街。

跨線橋にて。

「ゆずりあいの椅子」だそうだ。

駅舎方。

5・6番線ホーム

5・6番線ホームにて。

6番線。

 

「日本海」の機関車はこんなところに。

駅裏の様子。結構土地が余っている。

トタン屋根の上屋のある風景。

側線が多い。

待合室内にて。木製の椅子だった。

詰所か小屋のようなもの。

公営団地。

これからという感じかな。

このホームの売店は休憩中。列車がここに停まらないときに開けていても仕方ないのかもしれない。

弘前方。

 

  プラットホームや跨線橋に旅人は少なく、代わりに老人や地元の若い女性をちらちらと見かけた。しかし旅行中らしき小柄な女性もよく見かけた。古い跨線橋の新しいトイレは近づいただけでアナウンスが流れるため、ただ通りすぎるだけの人がセンサーを動作させてしまい、午前ののびやかな時刻に向かって突き進む駅に、空しく音声を響かせている。跨線橋の窓からは琴線を引いた灰白色の橋が同じ色の空にまたがっていて、いちおう君は青森に来たんだ、来たいと思っていたところに、来られたんだよ、あの寝台特急日本海に乗って、と、跨線橋の和やかで自由で、創造的な雰囲気と共に、君は今は旅人だ、と規定してもらうことができた。

跨線橋にて。5・6番線ホームへの分岐点。

駅裏への出口方向。

本州の鉄路を収斂する青森駅。

駅裏への連絡通路から見た5・6番線下り口。向こうが駅前。

駅裏方。

連絡船方。構内の左端あたりが、果てな感じ。

5・4番線。水色トタン、緑色トタン、赤色の列車が停まることもあり、 色は結構氾濫している。新車のスーパー白鳥ですら、黄緑・水色・黄色だから、 そういう方向性らしい。

 

 

トタンをレンガ調に並べた屋根。左端に当跨線橋、右端に手荷物用跨線橋、と並行して架かっている。

街の方を望む。

駅舎方。

左端が1番線。

新幹線は新青森だからそっちに手一杯でここは何も工事しないと思っていたが、 どうもここもその余波に曝されはじめたようだ。

 

 

駅裏方。

トイレ。どこか変則的。

 

 

 

 

  跨線橋だというのに函菓子を平積みした売店があり、さっそくの旅情の第一波に色めき立つ。しかしそれを押し隠して、ぎこちなく冷静に笑んでかわし、階段をどうにかこうにか降りていった。コンコースはまだ旅人も少なく、午前が午に向かって緩み切る前のちょうどよい、気持ちのよい時間で、それでも三人ずつ、四人ずつと地の人が駅の中に入ってきて、色ガラスの扉は、まだ見ぬ外をバスの音と断片的な風景で提示し、外へ出たいとの欲望を掻き立てさせた。
  駅の中は青森としての特別さは演出はしていなかった。広告灯もほどほどで、弁当屋などがあり、一地方の県都の駅という趣き。それが却ってよかったが、ちょっと淡泊だった。といっても、建築家の意思を強制するようなのは、心がしんどいし。
  隣接してお土産ビルがあるが、そんなのがあるくらい、売れるんだ、と青森が旅人に好かれ続けてきたのが思われる。その建物と駅舎との間に、りんごを目いっぱい並べ売っていて、目を見開かされるほどの甘い香りが充満している。営業のために強力な香水でも撒いたのかと思ったほどだ。修学旅行の中学生らがその匂いに驚嘆して、歓声を上げながらその露店に寄って来た。

お土産の買い忘れにもちょうどいい。

駅前も工事をやっていた。

跨線橋が屈曲しているのがよくわかる。

地上コンコースへ。左端の階段を上ると、駅長室。

改札内・改札外コンコース

 

改札内コンコース。

内照式広告が多いが目立つものがいま一つ。 ほかは大学のもの。

改札室なるものがあった。要は駅務室だろう。右手は精算窓口跡?

このあたりも改札があったのだと思うが、今は団体用出入口。 改札内にて。

 

改札を出て。

駅前方。待合室がある。乗り継ぎ列車までにかなり時間があるときなどに利用する。 たまに、待合室でお待ちください、との放送もある。

改札外コンコース。

改札外から見た改札内。手前が駅前側なので、直線の動線上にだけ自動改札を置くようになり、人の流れは昔とは変わったかな。

 

向こうからこの柵を越えてはじめて、青森。青森県と全国との境。

 

待合室入口とコンビニ。待合室は時間帯により、 改札内のみからの利用と改札外からのみの利用に分かれる。

待合室内はこんな感じ。薄型テレビが二台。

券売機。

みどりの窓口。

青森駅東口改札。裏が西口改札。

改札前付近にて。

改札機はおおむね2名の改札員の代わりを務めているということになりそうだ。

みどりの窓口前から見た改札。

みどりの窓口は旅行者や出張人らでやや混む。

駅舎出入口。

コンコースの売店エリアにて。

左:みやげ屋
右:びゅうは10時からのためまだ開いてなかった。

たいへん古風な駅レンタカー窓口。受付窓口に小さい扉がしつらえられてある。

コンコースを改札方に見通して。

 

 

ここを出ればいよいよ外の青森へ。

出口付近から見たみどりの窓口。コンコースには団体客が入って来ていた。

  駅の中はそうでもなかった代わりに、駅を出たら青森そのものだった。A駅、などと気取って代替することは、もう考えられない。広大に昔の風情でタクシーという黒豆が並んで、奥から華やかに商店街がはじまってる。まるでこの光景は見せつけるかのようではないか。駅前や周辺は、なかなかどうして人が多く、途切れない。駅舎前の歩道を走り抜ける地元の危うげな自転車に、旅人たちはそののんびりした頭を牽制される。ボストンバック持った旅行中の老夫婦のうち妻は手洗いに行っていたるらしく、コーデュロイのズボンに手を突っ込んで旦那が一人で待たされている姿や、荷物をホテルにおいて小さなハンドバックだけにした薄着の若い女性の連れ立っての旅行の姿などが目に映った。地元の人は、年配の人ばかりだった。しかし、青りんご色の「あおもり駅」のサインを下を行き交う人々を見ていると、あらゆる人が旅人に見えた。東京へ、北海道へ行く人たちの姿を長い間見て知っている街のはずであった。構内の端は見えないが海に突き出しているはずで、そのため落ち着かず、経過地のようで、それは必ずしも北海道へではなく、あらゆるところへ、地の人でさえ誘われつづけて暮らすようなところだと思えてならなくなった。人にとってはこの迷惑な解釈が、自然に勃興したのだから、そのときは悪意も、現実の苦々しさも思いだすことができず、どうしようもなかった。それでなるべくどこにでもあるようなものを探したが、見えるようにはならなかった。
  人々の姿を見ていると、初夏だけに事前の判断が難しかったことを思い出し、そういえばここの人はどんな服装なのだろうと、観察しはじめたが、綿か化繊のブルゾンで、なんだ、自分と同じ感じの格好ばかり…。周りと比べて厚着で、あからさまに旅行者とわかるのではないかと心配したが杞憂に終わった。ここ北国青森は今は5月下旬。東北は下に長袖にジャンパーということね、と経験から意識的に記憶にしまった。しかし、夜はその格好でも足りないことをこのとき私はまだ知らない。
  ところで駅から外へ出たときは曇りだったのだが、雲はやがて和紙を引き裂くように切れはじめ、そのうちに薄青い空が見え日が差し、ほぼ、晴れになった。気温が上がり、肌寒さは消え、歩いていたこともあってか、この服装では急に、暑くなってきちゃった。もしかしてやっぱり服装を間違えたか、と焦ったその汗もかいてしまう。脱ごうか。と思うが、荷物になるので、そのままにした。それに、じっとしてるなら、やはり少し寒いのだった。
  予報通りの晴れは私のことを祝福した。ほかの旅行者も幸せを感じていそうだった。寝台車内で抱いていた不安や挫折の予感は霧消されていた。

 

 

 

 

 

未整備の雄渾な趣き。

駅舎前の風情。

 

 

都市的な横断歩道。停止線も太い。

弘前方に見た駅舎前。

港寄りにはいろんな店が入っている。 地元の人はもちろん、旅人らもこれらの店を利用する。

ドトールコーヒー。中央の表札によると、この建物は青森支店の建物でもあることになるようだ。ちなみに青森支社というのはなく、ここは盛岡支社の管轄。右手がその支店の入口。

持ち帰り用だろう。

そば処八甲田。プラットホームにも展開している。

5時半から24時までの営業と、夜遅くまでやっている。

コインロッカー。旅の参考にどうぞ。

トイレ前。

コンビニNEWDAYS. ここで軽食を購入した。駅からいちばん近いコンビニはここ。 もちろん駅前を渡ったところにもある。

 

 

民衆駅の趣き。

当然ながら東京や横浜の宣伝が多い。 あとジパング倶楽部。実入りのいい商品の広告。

見上げる駅名表示。

 

 

ビジネスホテル。夜になるとネオンがきれい。

タクシー乗り場。

 

 

防風性能の高いバス待合所。

 

バス乗り場にて。

  バス乗り場は地元の人でいっぱいに詰まっている。そこを歩いていると、一人の目が切れて色白の方に見つめられているのに気付いた。津軽美人ではないか。しかし私がよそから来た者だとわかると、その人は急に関心をなくした。たぶん、バスの乗り場を訊ねようと思っていたのだろう。この市内各地のバス乗り場のほか、JRバスの酸ケ湯、十和田湖行きや、東京へなどの都市間バスの乗り場もあり、バスが要のところだった。

 

 

バスのりばの隣にできた青森市観光交流情報センター内にて。

新幹線の塗り絵展示コーナー。

右:整備後の想像図。

青森駅駅舎。

 

 

駅舎軒下弘前方の様子。

ラビナ入口前。

ラビナと青森駅駅舎の間。

ここを入ると駅へ。

 

アーチのところがラビナの入口。駅前では数人の警察官が交通整理をしていた。

 

 

ラビナの一階にも飲食店が入っている。

こんなところにマンションが。

 

リンゴ屋と交番。

お土産、飲食店ビルのLAVINA.

青森駅駅舎2.

3.

4. 青森駅からはバスやタクシーが欠かせない。

その5.

ネオンサイン。厳密には違うけど。

  大通りを少しだけ歩く。アーケードの陰に大理石の礎が鎮座するシティーホテルや、ビル一階の飲食店、居酒屋、旅行代理店が押しひしぎ、混むほどに人はいないが、数人ずつ途切れずに人は流れてくる。自動車やバスはやむことがない。

 

鮨屋のショーケース。

その6. 光につなごうの広告が時代を物語っていた。

市街方。

 

 

 

 

 

裏通り。

右手駅方。

左:駅へ向かって。
右:市街側。

左:青森グランドホテル前。
右:駅前ホテル青森館。

 

駅前交差点にて。

青森駅駅舎その7.

8.

9.

 

 

ホテルルートイン前。

 

 

 

 

十和田湖行きのバスが停まるところ。そのためこのあたりは旅行者が集まっていることが多い。

 

 

 

 

駅なか食堂つがる路。ホタテ料理や青森しじみが多かった。

メモリアルシップ八甲田丸と青森港旅客船ターミナルへ。 旅客船ターミナルは下北半島にアクセスする定期船の発着するところ。 そのあたりが埠頭の先端になるが、時間の都合で行けず…。 ちなみに津軽海峡フェリーの発着するところはもっと別のところで、青森駅前からシャトルバスで30分かかる(200円)。

  そのような喧騒を逃れて、構内の先端に近い、海辺の公園に赴くと、ビルの広告塔が遠巻きで誰もおらず静かで、一人旅を誰かに悟られないには、いい場所だった。休憩所代わりだった車両編成の塗装はめくれあがり、錆が垂れはじめた鉄の塊たる連絡船が岸壁に繋がれている。交通遺産とはいえ、変わりゆく寂しさから残したその結果が、当時の人の動きは保存できないし、当時を知った熱意ある人もしだいに減っていくことを語っていた。
  連絡船内は有料だそうで、今回は入るのをやめる。目的でない人にとっては、雨の日の時間潰しにはなりそうだ。ぶ厚いフロントガラスは油膜がかって、懐古的で、次の世代を遠ざけているかもしれなかった。

  その公園からは駅構内に寝台列車の停まっているのがよく見えたが、日本海はもう退いていて、上野から来たあけぼのだった。あれに乗って来た人々はもう撮影会を終え、青森市街に散り散りになってしまったのだろうな。代わりにホームにはどういうわけか駅員と警察だけがいて、線路に降り、何かをビニール袋に回収している。こんなところでまさか投身だろうか…。いずれにせよ、そう思わせるあそこに居合わせなかった私は、運よく旅人になれただけだと思えた。私がまだホームにいたとき、ちょうどこの閑散とした海辺の公園から、たった一人だけで、日本海を撮っている人がいた。一周りしたあと、その公園でゆっくりできればな、と思っていたのだった。
  さて、そろそろ老後の公園を離れ、窓口で切符を買いに行こう。ちょっと物足りないが、ここでは内地にへ戻って来たときにまた来れるし。

 

 

 

 

 

 

 

まったくさびれている。

たぶん昔はあの形状の屋根が続いていたのだろう。

 

 

 

青森=カーリングの街だとのこと。さて、全国で今どれほどの人が覚えているだろうか。

あけぼのが停まっている。

 

変化への胎動を感じる一角。

 

  自動ドアに開けてもらって、みどりの窓口へ入る。もしここで青森・函館フリーきっぷが売っていないとなると、この4日間の予定はまったく成り立たないから、事前に問い合わせてこの駅で売っているか確認を取ったくらいだ。青森駅だから、間違いなく売っていると思われるものだけど。若いお姉さんに、厳粛な面持ちで一枚頼むと、かしこまりましたという趣きで、すんなりと発券してくれて、価格を告げられる。支払おうとするとき、 北海道行きがいよいよ決まったと思って緊張して、小銭を床にばらまいてしまったら、お姉さんが、取り澄ました顔で「だいじょうぶですか」、というので、平静を取り戻した。
  この切符は青森からフリーエリア内まで指定席がとれますがどうされますか? と、予想していた通り、訊いてくれるので、「白鳥1号で木古内まで行きます」、ときっぱりいうと、調べてくれ、申し訳なさそうな声で、白鳥1号はちょっと空きがありませんが、次の白鳥3号なら、指定が取れます、という。もしかして、この切符、指定席でないと乗れないのかな、と焦り、「あの、自由席でもこの切符で乗れるんですよね?」と尋ねた。すると、もちろん乗れますが、次の3号なら確実に今指定をお取りできます。どうされますか?」 と尋ねるので、やっぱり指定を取らないというのは損なのかな、と思うも、白鳥3号だと木古内で乗り継ぎ列車もなく、予定通りにいかないので、座れなくても何でもいいから、「では白鳥1号の自由席にします」といって、1号を死守した。帰りはフリーエリア内で指定することにして、窓口を出た。
  あのお姉さんはきれいな発音だった。東京から美声のアナウンサーでも連れてきたのかと思う。そうではなく東北の人だろう。訓練されたのだろうかと思った。

  駅へは裏から入った。裏手へは鋼鉄の吊り橋が架かっていて、こうしてみると、青森駅構内は橋だらけだ。つり橋にしたのは、構内に柱を刺せなかったからだろうか。こちら側はどこにでもある住宅地で、団地もあった。むろんあらゆる人々が旅人に見えるなとどという夢のようなことはもはやない。むしろそれは厳しい風景だった。
  雪国にありそうなトタンの鋭角屋根の水色がきれいな小さな駅舎に入り、改札内に入った。

替わって、弘前寄りにて、港方を望む。

何このど派手なビルは。

 

 

ここも商店街になっていた。

駅裏へ

構内をまたぐ陸橋。あまり使われない規制標識が二つ。 スロープがあるがリヤカーとか大八車も駄目だそうだ。

 

左:ラビナの裏手。
右:街の方。

 

 

しっかりと二股に分かれていた。左は東北本線、右は奥羽本線、津軽線。

 

 

 

 

西口駅舎方。

このあたりの一般的な造りの家。

 

 

西口駅前広場。

青森駅西口駅舎。なんと古風で美しいこと。

 

 

 

 

西口駅舎内にて。こちらは自動改札がなかった。

 

途中、関係者しか入れなさそうな敷地を覗いて。

 

公園は駅の裏側にも造られてあった。

乗り場への下り口のある跨線橋へ。

こちら、西口の突き当たり。

 

白鳥1号に乗って道南へ

  白鳥1号の入るはずのホームには客はまだ一人しかいない。あと20分くらいあるし、ホームの待合室に入った。しばらく経って、若い一人旅の客がスーツケース牽いてやって来て、待合室で待とうか考える風だったが、待合室の中に白鳥の客らしい私がいるのを見てとって、彼は中に入って、休みはじめた。なぜ彼が迷うそぶりなのか考えはじめたら、自分が自由席であることを思い出し、もしかして並んでおかないといけないんじゃ、と気づいて、待合室をそろりと出た。すると、あの彼も目を上げて、そろりそろりとキャリーを牽いて出る。そして私の後ろに、ならんじゃった。やっぱり…。
  さて、混むのか、混まないのか不明だが、5月下旬の土休日でなければ、すいているんじゃないかな、と期待している。時刻が迫るころ、制服を着た高校生の修学旅行団体がホームにやって来た。それを見て、これか、指定が埋まっていたのは、と納得した。はしゃぎ声や、悪ふざけはなくて一風変わっておとなしかったが、やはり北海道行きが楽しみとみえて、薄ら笑んだ10代後半の子らだった。でもこの中にも、苦悶している者がいるに違いない。厭で仕方なかったり、融け合えない人もいるだろうが、そうは見えない、それが不思議だ。意識しないうちに、当時の自分も、隠していたのだろうか。引率者や大人にとっては、何でもつい小さな問題に見えてしまうのは、一通りのことを通過したからだろうか。

  一般客もいよいよ増えてきて、私の後ろには長い列ができた。自分が先頭だ。白鳥なんか乗ったことないけど、先頭で大丈夫だろうか。緊張する。

 

  黄緑の白鳥が入って来た。高校生の中には撮影した人もいた。あの当時は、デジタルカメラなんかなかったな…そう物思いに耽る間もなく、目の前に片扉が来る。両開きでないところが、いつもと違うところ。しかしドアが一向に開かない。はっと気づいて、ボタンを押す。ようやく、私の後ろの長い列が動き出す。第一の失態に焦る。そしてデッキから客室に入るドアを開けようとするが、なんと、取っ手がない。これ、どういうこと?って、トカゲのように粘着力もたせて平らな手で開けようとするが、開かない。みんな待ってるのに、焦りまくる。すると、タッチするだけでいいのに気付き、叩きつけるようにタッチする。ようやく客室へ入り、私はさっさと奥まで行く。後ろがつかえないようにするために。すると後ろにいた客の列は椅子取りのため急にほぐれ出し、戦闘になった。私は悠々と構えて椅子取りに頓着しないふうを装っていただけに、不意打ちを食らった。それでもなんとか平静を維持し、後ろのおっさんがやっているように、座席を回転させるも、本心はあわてていたことが露呈したようで、回転レバーを、掌で押して、回していた。ふつう、足で押すんだ、足で。なんという失態を。
  そのとき後ろから、あの赤いシャツの彼が戸惑っていたのは、私が回転させてそのコンパートメンとを崩し、回転させなかった方に座ると思っていたらしいのだが、私が回転させた方に、座ったからだった。この場合、どちらに座るのが自然なのだろう。回転させて、回転させない方に座ったら、まるで自分の向かいに座ろうとする人を無碍に追い払うみたいで。

  そんなことはともかく、私は席について、顔を隠した。三つの失態のために。みなの先頭に立つべきではなかった、そしてそれは、ほかのことにも、応用される、などと、深刻に悩みはじめ、苦しみはじめる。しかし皆が座ってしまえば、あとはこっちのものだと思えはじめもした。もう自分のことを気にする人なんていない。みなの目的は、着席であり、渡道なのだから。目の前には、引き出す机の裏面があり、そこには青函トンネルの解説シールが貼ってあった。もう西日本はおろか、東日本すら離れようとしているな、と思う。自体がポップ調だった。遠いところに来たんだな、そしてさらに遠くへ行くのだ、と思った。

次のページ : 青函トンネルを経て、木古内で乗り換えて