道成寺駅

(紀勢本線・どうじょうじ) 2010年2月

道成寺駅駅舎。
 
離れると駅かどうかもわからなくなり、何度も振り返った。
椅子は十分。しかし暖国らしく窓が大きい。
全体的にあまりきれいではなかったが、飲み物は買った。
夜の道成寺駅構内。
 
こういう微妙な隙間が寒かったりする。

 深夜の南紀の木造舎に、90年代の白い列車はひどく不似合いだった。駅と列車の落差が大きかった。しかし汽車時代の長大編成に合わせたホームの駅もあるから、それは都合がよかっただろう。降りてそのまま煌々と灯る駅舎を潜るように入って、すぐに内部を見回した。私はすぐにOKを出した。不安だった。そして何よりも寒かった。はっきりいって、和歌山よりも宮原よりもだ。もう深夜0時前だから、夜間の最大の降温でもあった。
 すぐ駅舎から外へ出た。私はその瞬間、泣き出しそうになった。本気でだ。なぜか人をそうさせる一景ってあるものだ。
 「うわぁなんと寂しいところだ、こんな、おかしくないか、これはひどすぎる、想像以上だ」
 雪が見えた。深夜の濃密な闇の中、濃いオレンジのナトリウムランプに廃墟が照らされ、風が吹きすさんでポスターをひたひた剥がさんとしている。そしてひたすら粉雪が舞っているように見えた。― 幻覚だ。
 私はこういうとき、理知を意識的に擁立する。
 「落ち着け。さっき221を出たな。それから急いで汽車時代の駅舎をくぐった。そしてこの町の景観は廃れた昭和のころのものだ。時代が輻輳しているから、おかしくなったんだ。それに長時間乗車のせいで時間感覚も狂っている、今はもう23時過ぎだぞ。時計だけでない、よくみろ、雪は舞っていない、雪じゃない、よな? それに廃墟は何棟ある?」
 勇気をもってあたりを探す。
 「およそ一二棟じゃないか。」
 しかし町における人の気配というのは皆無だった。
 「いやあ! 寂しいね。こんなところを歩いていたら憑り殺されそうだ。」
 冗談めかして私はそう言いながら手を振り、駅の方へと戻っていった。写真を撮るのは、自分の意識をしっかりさせる意味もあった。こういう旅では目的を見失ったとたん、よくない感情に絡め取られやすい。というより逆にそういう人は、駅か何かを追いつづけた方がいいのだ。それは旅の理知的な把握手段の一つさ。でもなければ道の駅などいうものはできやしない。

 駅の中に入り、構内に出ると急にすっきりした。そこには風という時間が流れていた。明らかに現代のそれだ。空間はどれだけ古くても、時間が今に繋がるものであれば、あらゆるものが生かされるのだった。しかし時間は空間を侵食しやすく、そうして失われた古さは新しい時間感覚で擬態されやすい。それが所謂レトロだろう。

 「はぁ、駅から一歩出たら鬼の住む世か。」
 わざとそうため息ついてみせる。跨線橋に立ち、あえて風に吹かている。これでこたえなければ寝れるはずだ。
 「大丈夫だ。」
 しだいに慣れても来た。周囲はどうも集落のようだ。構内はやはり221の入るのに合わせて改良もしたらしいようだ。
 「こうして現代が同居しているというのは救いだなあ。」
 音をたてぬよう鉄製の階段を静かに下り、駅舎に戻る。乗り場の間口に戸がないのはいかにも西国だった。それで冷たい風が吹き込み放題だった。
 「西日本だって寒いんだよ。尤も、絶対的にはそうでないからこそ、昔は小児も裸で乾布摩擦なんてやっていたわけだ。」
 これもまた文化的、歴史的な寒さだろう。暖かいから戸がないのでなく、冬の冬らしさを熟知できるようにと戸がないのだと。
 駅舎に入った私は風を触知し、とにかく風の当たらない一角を探り当て、そこにシートを引き、シュラフをスタフバッグから引きずり出した。風はたまったものではない。風があるとシュラフの保温能力も相当落ちてくるし。そもそもテントや避難小屋想定で、露営じゃないし。
 駅舎はというと、白塗りに徹した木造だった。しかしごみ箱もあり、なによりもカップの自販機があって、これを配置してくれた人の温かさを感じた。椅子のペンキは剥げ、虫やごみも溜まっているが、これはどこもそんなものだ。冬のため虫はほとんどいなかった。しかしいないわけではなく、冬に駅にいる虫は這う系統だ。

 シュラフも敷き少し時間があるので、
 「そうだ! こういうときにこそ。」
 カップの販売機の前に立ち、コーンスープのボタンを押した。すると本当にカップが落ちて、スープが注がれていくようである。
 ぶーうん、と一唸りすると、ランプが消え、完成したようだ。扉を開け、手に取ると、確かに暖かい。すごいと思った。駅舎の隅にはすでにシュラフが敷いてある。そこに腰かけ、ゆっくりと味わった。駅の利用というのはいろいだなとしみじみ思う。この先は不安半分以上で、残りが希望だった。この旅はどうなるか。この一日でおよそ占えてしまうだろう。
 飲み終えると、カップを握りつぶしてゴミ箱に投げ込み、外側の引き戸を閉め立て、シュラフに身を包みはじめた。まず腰をシュラフ内に下ろし、靴を脱いで脚をしまう。それから上体を寝かせ、背中の心地を確かめる
 「まあこんなものかな。」
 これまで見なかった天井がはっきりと視線の先に現れる。駅で寝ているのだなと思った。
 時刻はもう0時を回ろうとしている。間もなく消灯だ。シュラフに入ってしばらくして、外側のズボンを外し、それから上の服も脱いだ。窮屈さがなくなり、楽だ。さすがダウンとあって、まだ寒くはない。

 列車の来なくなった夜の駅というのは、風しかやってこない。営業が終わったことも明示されず、ただ風と時間の経過だけがそれをしだいに知らせることになる。
 「本当にもう来ないんだ。」
 まさに時刻表通りだった。
 0時を待ってほどなくして減灯された。しかしそれと気づかないくらいだった。
 「真冬のこんな駅でも明かりをつけておくんだな。」
 こうして時間は穏やかに過ぎていくだろうと、私は体を休め、眠りに入りつつあった。しかしあまりにも順調なので、少しは気になっていた。そのせいじゃないのかと思っていたが、やはり、確かに遠くで列車のゆっくり走る音がする。
 「回送かな。それにしてもゆっくりだな。まさか…」
 列車のゆっくりと駅に入ってきた。明らかに保線車両の音だった。
 「まあここには停まらないだろう。旅客列車じゃないんだし。」
 そうしてそのままの状態でなんとなくまどろんでいたところ、その車両はついに道成寺駅に停車した。
 「きっと信号待ちだろう。え? いやまてよ? 対向列車なんてないぞ。」
 「この構内の保線かな。だとしたら少しまずいな。」
 しかし起き出したらよけいに怪しいので、シュラフを引っ張り上げ顔までかぶせる。ここではシュラフはただ寝るためにそこにいることを表す記号だ。そういう意味でも結構寝袋は重要である。
 やがて作業員が駅舎に近づいてきた。
 「やはりそうか。もはやこれまでだ。」
 彼らは入る前は談笑していたが、駅舎に入った途端、会話をやめた。たぶんこの一枚のシュラフ越しに、互いに見つめ合っているのだろう。いずれにせよ、こういうときは黙って寝ているのが得策と分っているので、すでに寝入っているように見せる。
 彼らもいきなり黙るのはおかしいと思ってか、なるべくこっちを気にしないようにして、ちょっとしゃべりはじめた。しかしベースは言葉少なだ。硬貨の音がする。あのカップの自販機で飲み物を買うようだ。どうもここは保線作業の合間の定番の休憩スポットと化していたようである。やっばりこんな寒い日はこういうのはありがたいんだよな。考えていることはみんな同じかあ。
 私は耳を澄ましているが、そのうちの一人の若いらしいのが、小さな声で、通報する? と言ったように聞こえた。私はどっちでもいいが、やはりその続きは気になる。すると年長者っぽい声が、もっと小さな声で、何々やん、という。どうしても聞き取れなかった。

 彼らはやがて去り、保線車両も轟音を鳴らせて去った。気動車なのだった。あとはこれまで通り、ただ寒風の音が、一灯の蛍光管のもとに響き、流れるだけの駅になったが、いつでもこの駅が覚醒しうることを知ったいま、駅の休む間のないのをその風に知る。
 私はその年長者が何と言ったのか考えつづけた。もっとも最初の若いのが言った台詞が間違いないのが前提だ。結論として、年長者のニュアンスとその後の何も起こらなかったことを踏まえると、通報したらかわいそうやん、と言ったようだ。私はきっとそうだと思い、さすが年長者、長く生きている甲斐があるというものだなあとまたもやしみじみ思い、私もそう言えるようになりたいと深く思った。今こそは夢中だが、将来は見守る側になるかもしれぬ。そのときはそっとしてあげられたら、と。だって年齢を重ねても自由に嫉妬するなんて、苦しいではないか。
 ふだん暖かい飲み物を飲みつつ腰かけて、談笑するところを申し訳なかった。しかし私がこうして夜にここにいるのは一生で一回あるかないか。だから、次回彼らが訪れたときも私がこうしていたら、それはずうずうしいし、やっかいなことになるだろう。

 その後はやはりうまく眠れなかった。どうせ5時半に起きるという意識もあった。
 深夜2時ごろ、寒くてこたえた。およそ体をリラックスさせて眠るような感じではない。背中も脚もかたいままだが、かろうしで浅い眠りにはつくことはできそうだという状態。シュラフに記されている使用下限温度での状態はどうもこういったものらしい。保線員が来るのを気にする気にもなれなかった。
 結局ただ体を横にして目をつむっただけで、外はもうなんとなく明るくなり、熱い頭のまま眠るのを諦める。厚い雲の間が朝の空を覗かせていた。これから今日一日、休む間もなく行動しつづけることになる。
 起きてまず靴を履くが、このとき、運動靴ではとてもだめなのを知った。長年寒風にあたり続けた干物のようになっていて、足を入れるのが苦痛なほどだった。ここで急遽靴下を二枚重ねにした。服を着ると、シュラフをまずスタフバッグに押し込める。表面に触れると死人のように冷たいが、内側は温かく、体温でよく膨らんで実にしまいにくい。
 「まずこれを片付けないと話にならん!」
 片付くといつもほっとする。誰もが入りうるところに広げているんだから。
 LABATORYと変にしゃれて併記された小屋脇の水場で手を洗ったり、その後身支度をする。
 明るくなりつつあるだろう空のもと、蛍光灯はしだいにその意味を失いつあるのにはほんとに急かされる気持ちだ。