府中駅
(福塩線・ふちゅう) 2011年5月
ちょっとだけ秘境駅な中畑から、府中にいったん戻ってきた。これから中国山地の閑散区間を攻めるはずなのだが、やはり府中という街も外せない。全福塩線の中締めともいうべき駅で、乗り継ぎ、降車の駅だけど、ひとことで言うと、ここは昭和の鉄道という仕事をコンパクトに凝縮した、驚くほどよく保存された天然の駅だった。つまり、もう今にも聞こえそうなのだ。連結、入換、の掛け声、厳格な改札、給水塔、検車区、貨物ホームでの荷捌き、大小さまざまな小屋、官舎、車掌区…これらが狭い範囲にまとまっていて、時には大ぶりな上屋の太いに出し過ぎたほうじ茶のような色の梁が、私を恐れさせ、睨んだ。
ホームも細かった。のりばは1~4と振られているが、ぱっと見、4つもあるようには見えない。なにかやたらコンパクトなのだ。
中二線だけが本線で三次行だ。けれど、すべての列車がこの府中止まり、駅旅人にはなかなか下車できない区間になっている。そんな本線にはたたせぼんやりと色褪せた三次方面の行き先が架かり、何か日の陰った涼やかな風が吹き抜けていた。
ここでこの盆地も終わりです
鉄道模型の跨線橋をポンと置いたようなそこに上がると、何か自分が人相不明瞭なフィギュアになったかのようだ。来た方向には中国山地がでんと控え、ここでこの肥沃な盆地も終わりであることを示している。かつての山陽道は海側を避け、この府中まで上がってきて、現在の山陽ふるさと街道という内陸部を通っていたの。ここは山を下りたところにもなるし、国府を置くにもふさわしいところだったのだろう。海側ルートがメインと考える現代では、なかなか想像がつかない。そんな府中の街の片鱗も跨線橋から窺えるが、戦後昭和の様子がよく暮れ残っていて、中国地方ってなんでこうなんだろう、と、やはり来てよかったと思った。
丸窓がよい!
工業団地のようです
リョービが有名
郵便と鉄道は軌を一にしていたからなぁ…
鉄道は労働
構内はまさにかつての鉄道員の掛け声や作業音が聞こえてきそうなくらいだが、午前十時の今は、静かにそのティー・タイムを謳歌している。しかし電車化され、気動車も新しくなったとはいえ、それでもここは長大な福塩線の旗艦駅であることには変わりなく、こんな時間になると。ほら、あんなふうに定期点検や保線が始まるのだった。
昔の貨物用通路ですね
よく今まで耐えてきた
最近知ったのでは大牟田くらい?あっちは半分現役だったけど…
ついてしばらくしてから改札を受けたが、特に何も言われず、スムーズに通してくれた。西側はその名の通り?割と自由である。ラッシュ後だけに、一日でもいちばん静かな時間かもしれない。蛍光灯はぼんやりと灯り、外はぽくぽくと雲が浮かび…7月もまだ深くはなく、なんとなし蒸ッとした、盛夏の序章のような感じだった。西日本の七月には、何かそんなところがある。
"ようこそ"の塔や緑樹が何か映画のセットのような駅前に一歩踏み出す。海ではなく、山の方に旅の舵を切ったことが実感される。蹴飛ばしたら窒息した呻き声を上げそうなコンクリートのプランターは、何か花を固定化しているみたいで、それもまた昭和的に意匠化した花だった。中小のビルが私の眼の上の半分を心地よく撫でる。しかしあたりに人の動きはない。こっとりと時間かが止まったように晴れて、そして、ただぽくぽく浮いた雲だけが、動いていた。
しかし街というのはこうでなくちゃいけない。いつも忙しげな街など、街ではない。
青色の石州瓦を戴いた府中駅はやはり中国地方の駅だった。端の方には作業小屋が集まり、一般の立ち入りが禁じられている。表向きは静かだが、時間を通じて何かと中では動きがあるのを想う。その民家かような建物は、2000年代に入ったデジタルの時代でも、それだけに何か昔ながらの仕事も平行しているようである。虚像的なデータというより、それを頼りにしつつ、直截に物体を扱う、目に見える仕事だ。だから、増築に改築と繰り返し、貨物ホームの袂では複雑な庇が織りなされ、その暗がりに静かに軽バンが駐まっていた。鉄道会社ともなると、だいたい独自に工務部を持っているものだ。
たいていこんな風にでっかい石が敷き詰められています
石動駅、豊岡駅なんかで見たかなぁ
これまでの小駅で見た石見銀山街道の、あの商店がぎりぎりまで道に迫っている古い国道はやはりここまで延びてきていて、そしてここで終わっていた。やはり魅力ある道で、いちど車で走ってみたいと思いが強まる。
府中の街は学習塾が多い印象だ。この盆地で習い事をするなら府中市街くらいしかないというのもありそうだが、かつて公教育が人権教育に侵蝕されたことも一因なのかとも思った。かつて中国地方に人気がなかったのは、そういう側面もあったかもしれない。
ひところ公教育が部落差別教育に侵食されたからでしょうか
府中ではかなりそれが激しかったようです
山の方まで街道を歩いてみたが、街の雰囲気や建物が古くて、けっこう楽しめた。家具屋の自社ビルは印象的だった。ずっとセールをされている感じだ。そういえば…ほんとに家具って買わなくなったな、と。変な話、バブルのころはまだなんともない家具を気分転換で大型ゴミに出し、買い替えるみたいなこともやってた。当時は大型ごみは無料回収だったから、年二回のその日になるとまだ使える山盛りの家具や電化製品が積みだされた。それを遠方より来て持ち出す人が現れ、ケンカも勃発、それで自治会のコワイおっさんが何人かで警備していたりもした。
今考えると再利用なんだからむしろ歓迎すべきなのだが、それを争いなく授受できる仕組みは無に等しかった。
また、かつてはその都市ごとの土着の家具屋しかなく、入ると人が付いて案内してくれ、みんなそこで買っていた。当時はネットなんてないから、現物としてそこにあるものからしか選べなかったが、そのことに疑問を抱いたり、不満を感じたことはなかった。だって、どうしようもないから! 値段も高く、しかし少し傷がついただけで価格は下げられていた。
今ではより普遍的でシンプルな販売スタイルや家具が好まれ、そして普及している。
そういうものが肌に合うと感じるのは、自分たちの世代が望んいでいたからかもしれない。
家の方も収納が重視され、パントリーや納屋、蔵などは珍しくなくなり、居室内はより洗練に向かった。畳の部屋を古箪笥が占有する残念な空間は、終わったのだ…
かつてはタンスが婚礼家具であったのは遠い昔の話…必要とあれば樹脂製の簡便なものが使われるようになっている。その方か処分するのも容易だ。
こんなところにら一度くらいは泊まってみたい
そんなふうに昔のことを思い出しながら街を歩いた。古い信号が今にも落っこちそうに錆びてぶら下がり、コンクリート舗装の上を凝固したままの空気が流れていった。その地方の都に来たときの高揚感、大きな買い物、食事…そういうことをする場だったのだろう。
けれど府中はあの工具メーカーリョービをはじめてとして、さまざまな企業が陣取り、今でも産業は活発だ。
過重な労働時代には癒しだったかもしれません
僕は何もこの街が古くて用済みだといったのではいな。現に、今の自分には必要なものだったではないか。そして今も大切に想っている人がいるのである。変化は緩やかであるべきで、そして何より、旅の自分には、こうしていいろな時代と出会い、想起させてくれる空間を渇望しているのだ。
なんかときどき日が陰るなぁと思いつつも山手だからべつにいっかと思い、駅前まで戻ってコンビニに入った。やきとりとおにぎりとお茶を購入。レジ係は男性で店長かもしれなかったけど、やきとり買ったら機嫌良さそうだった。
駅に戻って椅子に座り、食事タイム。こういう時間も計算に入れて置かないといけない。ここから山に潜り込む閑散区間を早く攻めたいが、その列車はしばらく出ない。しかし今からいったん福山行に乗り、隣の駅に降りてからまたここ府中まで戻ってくると、山行きの気動車にが待ってくれているというぐあいになる。というわけで次は隣の鵜飼だ。何か真剣な希少区間の駅というより、電車区間のお手軽な駅である。