二股駅
(函館本線・ふたまた) 2010年9月
駅寝は日を経るごとに明日へのタイムマシンとしての速度が上がる。
早朝かなり明るくなって、雨が降っていた。もうおれの旅行もこれで終わりだな、と。しかしふと時計を見たら、それどころではない、始発到着の30分前を切っているではないか! 疲れすぎて寝坊したんだ。
それこそ両手を車輪みたいに回して片付けをはじめ、外に撮りに出かけた。慌てるのは、もうこんなとこ次来れることなんてたぶんないから。いったいどういう理由をもってこの二股に来るんだろう?
けれどそんな大慌てで片付けながらも、深く印象に突き刺さった風景が、駅から見える三つ子の丘。二股ではなく三股ではないかと思ったほどだ。それくらいきれいな三つ子ちゃんで…いや、もう外に出よう。
折りたたみを差しながら、雨寒の中を歩きまわる。
四方を欝々たる低山に囲まれし、路傍の街村。誰も注目しないようなところだった。貨車駅前の迂遠なほどの広い土くれが、余計に物悲しかった。こうして雨に沈むうちに死することもあろう。しかしほんの翌日にはからりと晴れ、罅割れた光線を葉影が揺らす。夢、とはそんなものだろうか。
歩けば、もう自分の体が本州の磁力に吸い寄せられているのを感じる。土や匂いが道北のものじゃない。いや、自分の心だけがもう還っていたのかもしれない。客死すると、こんな感じだろうか。
けれど集落としてはまとまってはいて、かつては入植者たちによるコミュニティも大きかったようだ。双葉という名の小学校が、閉校している。また国道5号が長万部を出て、はじめにあたる駅集落になる。
雨中、一人で廃駅のようなホームで単行気動車を待つ。ほんとに列車なんか来るのかと思う。この濡れた枯れ薄に雨あたる静寂さが、どうやって打ち破られるのだろう。しかし貨車内がこれだけきれいということは、地の人が手を入れてくれているのだろうか。
それにしても…あの三つ子の丘は何なんだろな。ずっと自分を見つめている気がする。三人がかりで二股へようこそといわれているような、あるいは三つ子の魂に触れ合っているような、なんとも言えない気分だった。
そうか、と。二股とは結局三叉ではないか。主体的には2つでも、客視すれば3なんだ。互いに素なのに、文学的な親和性がそこにはあった。
汽車は定刻より少し遅れてやって来た。もちろん放送なんか何もない。自分の仰ぐような胸で電気灯る気動車を言葉にならない必死さで捕まえんとしていることに気づいた。