銀水駅
(鹿児島本線・ぎんすい) 2008年3月
2・3番線ホーム。向こうが鳥栖。
大牟田を過ぎてからようやっと顔を上げられた。あのときと周りの客が入れ替わっていた。どうせ大牟田より前から入れ変わっていたのだろう、と、ふてる。気恥ずかしいことがあって顔を伏せていたのだった。久しぶりにぼうと見上げた車窓はすすきと住宅地を映していた。天気も薄青い薄曇りに変わっていたが、しばらく光を通していない眼には、さわやかだった。
そういうことや、しばらく列車内にいたことから、銀水という美しい駅名の駅に降りても、あたりはただの郊外地か、都市との間らしいにもかかわらず、空気をさわやかに感じた。じっさい駅裏側は土地に余裕があり、空間が感じられる風景で折に触れて見渡し凝視したのだが、すぐ近くには西鉄線が並走していて、ホームに立っているとたびたび列車が走り抜けていった。そんなのを見送っていると、ここはすすき揺れる、どこかへ向かう途中の地点のようであって、何となくさびしい。けれどもこちらには板壁の駅舎が立っている。国鉄線は何を追い求めるともなく、優雅にこんな駅に停まっているらしい感じだった。
1番線ホーム。
こういう駅舎だった。
大牟田市の制定花、ヤブツバキにちなむのだろう。
大牟田方面を望む。
1番線ホーム端の様子。
短い上屋のある待合部分。
2番線から見た駅舎前のホーム。
よく考えると軒だけで屋根がない。
駅裏の風景。あのしばらく向こうに有明海が広がる。
鳥栖方面を望む。端の方は舗装されないままだ残っている。
1番線の上屋もこちらと同じ長さのものだった。
2番線から大牟田方に見た駅構内。
跨線橋内にて。
駅裏を展望して。下方の線路は西鉄天神大牟田線。右手の里山に熊本にもあった仏舎利塔があった。その山が甘木山(91.2m).
瀬高・久留米・鳥栖方面を望む。ホームの有効長が長い。
筑紫山地の一端が見えているが、あれは越えずにすむ。
大牟田方。
駅前がちらっと見えた。
駅舎前にて。
1番線から見た駅構内。
清潔感ある駅名標。
ホームの駅舎前の様子。
あちらが大牟田。
JR銀水駅と西鉄の列車。
1番線ホームの待合所。
隣のホームの待合所。
ここにも花が飾られていた。どちらかというとまだ冬の花。
3月中頃でまだ寒かった。
こちらの椅子は珍しく黄色だった。
背後には木を味わえるちょっとした空間がある。
JRと西鉄の列車。
1番線ホーム待合所の大牟田方にて。
代わって1番線ホーム瀬高・久留米・鳥栖方端の様子。
どこかの家先にありそう。
この木造の駅を任されているといったように駅員がわざわざ窓口の外に出て、びしっと立ち、ありがとうございましたと言いながら集札している。九州の駅で、こんな光景を何度か見た。駅員が旅客に一定の敬意をもっているかのようにさえ感じて、私も自然と駅員に敬意を抱いた。このような応対で、都会的なサービスに含まれているものをも思い起こしたりした。駅員は集め終わると、中に入ってパソコンで仕事の続きをする。駅員の去った改札口では、きれいな緑の葉をした鮮やかなゼラニウムが静かに軒下をくっきり明るくしている。葉牡丹が置かれるような春先で寒いのに、改札窓は開けたままだ。それで客が来ると、すぐ窓口に寄ってはきはき対応する。いつも単なる田舎とは違う感じがするのは、こういう九州のはっきりした人柄のせいだろうか。
でも駅舎の中はやはり九州のよき田舎らしい感じで、従来の木の壁や白い壁や時計が、通り抜けできるみんなの家となっていた。駅舎はたいてい通り抜けるものだが、そこでは売店はないのにお菓子を売り、飲料販売機を置き、花を飾り、こまやかな配慮があって、もしこの町の利用者であれば、それゆえ自尊心を抱く瞬間もあるかと思えた。
出札口。券売機が埋め込んで設置されてある。
こういうのはときどき見かける。
駅舎内から見た改札口。実はこの駅、お菓子や新聞を売っている。
右下のがその菓子棚。
駅舎内の待合。
外との出入口付近には2台も自動販売機が置かれている。
しかも左のは大きい。
ポーチ。このあたりの壁は板目が鋭かった。
駅務室の窓。
皇紀貮千六百年記念、昭和十三年四月寄贈。
たぶんだが、どこかから移してきたものだと思う。
こういう階段を見ると、結構利用者のいた駅なのかと思う。
自動販売機は中に隠したとも取れそうだ。
初島タクシーとあるが、これはこの辺から有明海に出て初めに見える島の名前からとられたものらしくて、ここからは見えないが存在する海を感じられるものとなっていた。
銀水駅駅舎。
自転車のある駅の風景。
駅の三点セット。駅舎、トイレ、跨線橋。
駅前の様子。
国道に出る道。
吉野・瀬高方面に伸びる道。
駅前にて。
駅前の道を大牟田方に進んで。
どこもあたりは昔からの住宅地という趣だった。
吉野方。
駐車場から見た駅舎。
この駅は集落型の駅で、駅前はといえばとある町だった。しかしこんな板張りの駅舎があるにしては駅前の駐車場が広く、そこそこの駅かもしれなかった。純朴な銀水との灯り表示が、流れる月光に照らされる木の色や、月下に飛び交う蛾の鱗粉への想像を膨らませた。
どんな人たちが使っているのかな、と想いながら駅のポーチに寄り添った。すると壁いっぱいに抉ったような鋭い板目があり、脅され、どきっとした。それがこれまでの傷や、また、雨かで黒ずんだのをいっそう見せつけた。しかしそうなっても木は黙っている。体毛の失われた肌を愛するようにその壁を目で撫でていると、いつも同じ駅を使う者は泰らかな日々ばかりでははないことをすぐに教えられたようだった。
銀水はよく銀水止まりの列車があって、すっと列車が入って数人を降ろし、運転士が外に出て前に移動するという光景が見られた。こんな駅で折り返しとは穏やかものだ。駅や列車は、どんな日々も一定に、同じように送らそうする。すべてを受け入れてくれるもののようで、それゆえ反っていろんな人模様を浮かび上がらせる、そういうことにまた、思い当たっていた。いっぽうもっぱら安穏とした心地だけで、ふだん知らない駅に来る自分は、それをつまびらかにするにも語るに落ちることはわかっていた。
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