波田須駅
(紀勢本線・はだす) 2010年2月
降りるとき、運転士は少し含んだ笑みを漏らした感じる。しかし私はいたって数多の一つのようなふりをする。それで彼も真面目な表情に戻ったかのようだった。小さなホームに横付けした列車は、運転士の集中した発車で去っていく。
ため息きながら拒絶するように手を振り、これはまたすごいところに来たな、と。車が直接入ってて来られない駅だ。降りたところは地図にも載らないような小尾根を切り通していた。海は、と、端にプラットホームを歩くと、入り江で、その向うは遥けく縹渺としていている。それは淡い憧れで、哀しく、どこともつかない様相だった。はたしてその海が実際に特定のものとして存在するのかは怪しかった。たとえばほかのどこかから見た海はたしかにそれは枯木灘、熊野灘と言いえそうでも、ここのは次見たときはまったく違うものか、別の人が同じものを見ることは決してないようなものの思われ、引き込まれた。きれいとか爽快というのではなく、ほんにとある海辺という趣だった。それだけに遥かなるものを感じ、少し胸が苦しくなった。
眼下には古い棚田が広がっている。誰の土地かもわからないところもありそうだった。実際、切り通された小さな丘尾根は、複雑に里道が形成され、興味が尽きない。そんな道は後ろ側にもあり、これはおそらく今回ですべてを知ることはできないたろう。なんと不思議なところだ。
こんな淋しいところにも人の住まうらしく、山手の側にこそ数軒あるのがわかる。駅の出入り口もいうまでもなく、そちら側だ。もっともこんなところにもなると、すぐトンネルが見えているように、隣の集落に移動するには、そのトンネルを汽車のない時間に伝う方が絶対早いというように、さきほどの丘尾根の里道から直背ホームに上がるというような自在な使い方も、ここの畑仕事の人にはふつうであるようらしいところだった。
もっとも驚くのは、ホームから細道に出たすぐところにポストがあったこと。ここまで回収しに来てくれるのだ。これは逆に言えば、ここ以上に中心的な場はもうないかもしれないとの推理も可能だということだった。熊野古道の案内板もあるが、目に入らない。どうせ私はそういう捉え方をしていないのだから。集落があり、僥倖として鉄道が走り、そしてさらに駅まである、そういう捉え方だった。
私はただ旅人の宿命として、山手に向かって登り返しはじめる。舗装はさすがにしてあった。何度も振り返って海を望んだ。どこから見てもさびしく儚いものだった。人家は案外多い。波田須の重要な集落なんだろう。昭和の初めごろまであったというおたけ茶屋。自販機があり、意外に波田須駅も都会だ。しかし昭和の初めごろとは、それは随分前の話である。そのころにはすでに旅人も交通も様変わりしつつあったのかもしれない。ちなみに鉄道の開通はずっとくだって戦後である。
やはり立地は厳しく、人家の屋根と道が一体化しているところもあった。駅や海岸へはバリエーションルートがあり、もともとのこの地の相貌というものを物語っていた。突然雪に降り込まれた。新鹿で見た雲が山の端をついに乗り越えてしまったのだ。
「まさか、こんなところで吹雪に見舞われるとは…」
南国への希望を託し、人里離れたところの駅に訪れたが、そこに見たのは、あの海のように、南国の遥かに遠のいていく様相だった。「確かに自分の追い求めていたものは、そんなものかもしれない。」 いくら南国といっても、まさか常夏ではない。観念としての南国を思い知らされつつ、こうして旅が終わっていくのだと思うと、つらい気持ちになった。しかしこちらで雪となると、帰途はどうなるのだろうかと。この予想ばかりは、当たることになる。
はやく終われ、と念じるように、登り続ける。どうにか出た国道には、何もなかった。車も通っていない。バイパスが開通したのかもしれないが、そんなことはないようにも思われた。
やはり海の方が気になりだし、一気に下って、バリエーションルートを取る。古道は往路よりも寂しく、急に心細くなった。たった独り、南国の驟雪の中だ。気でも違うかもしれなかった。
強引に鉄路をくぐって、川辺に出た。そこはひっそりとして気味が悪い。それでただ好奇心に突き動かされるまま進むと、丸石ばかりの海岸に独り出るのだが、開けてはいるのに、まったく人の気配はなく、とにかく任意の海岸という感じがして、怖くなった。狐につままれたかのようで、天気は急劇に好転していた。駅の名所案内版には、付近一帯、磯釣りの好適地、そんなふうに怖くもおぼろけに記してあったのを思い出す。だからここに来る人もいるのかもしれないが、それらしい痕跡もなく、ここで何かあっても、当面は見つけてもらえない気がした。
それにしても…狐とは観念上の動物で、現実にありそうもない変化に伴う精神変化に翻弄されるのを防ぐために用いられるのだな。そういう世界がまだ残っているのが、古道であり、そして紀伊半島なのだった。
私は堤防より先には進めずにいる。規定されていない土地とは、不安なものだ。漁師たちがしきりに岩場に名前を付けたのも、利便のためだけなく岩への意識もあったのだろう。不安なって振り返ると、見事というべき棚田が続いていた。不思議なことに、その土坡は鋭く割られた隙間のある大石の堡塁で作られ、海岸のものではなかった。こんなところにいかにも苦労した感じで棚田を作ったのはなぜだろうか、と目を丸くする。今の考えでは、もっと平地に行けばと思うが、かつてそのようなところは早くから豪族が支配していたのだろう。これらの石垣が具体的にいつ作られたかはわからないこともあるそうだ。私はその鋭い割れ方を見て、ちょっと東紀州っぽいなと思う。賀田の殺伐とした港や、集落のコンクリートの道が急峻なのを思い返していた。JR東海の支配する中部地方のようでもある。ともかく、この地でやらねばならぬという状況があったのだろう。するとよりよい地を求めつづけるのでなく、今ある与えられた土地で、なんとかやっていくことも大切なのだなと冷たい風の中しみじみ思わされた。誰も知らないようなところだが、私は密かに心打たれた。その石垣は、海まで出ないと見えなかった。
からくも駅に戻る。寒いのでカイロをにぎり、チョコレートを食べてはごみ箱に包みを捨てる。こんなところにごみ箱、と思ったら、なんと切符箱だった。それくらい大きい鉄製のものだった。さっき冷たく硬くなったカイロも入れちゃったよ…。しかしあの会社のことだから、この中も定期的に管理しているのだろうと思うと、独りで大笑いした。気づいてからというものは、ポケットの中にしまうことにしたけれどね。
寒いなぁ、と列車を待つ。見えるものと言えば目の前の丘尾根の切り通しばかり。それは枯草の塊だ。波田須駅を見たという私は、精彩を失っていた。観念のふるさとを見ると啖呵を切ったとはいえ、それを自分に当てはめられるようになるには、もっと時間がかかりそうな気がしていたのだった。