萩駅
(山陰本線・はぎ) 2012年7月
萩駅駅舎その2.
東萩から循環バスで萩駅へ (完結編)
待望の萩駅が案内され、あわてて降りる準備をするが、そこはおよそ駅前とはいえぬようなところで、京一は必死に外の様子と停留所名を確認したものだ。するとやはり萩駅、ということなので、ぴょんと降りてしまう。彼一人だけだった。暑い中、バスの吐き出す排ガスでいっそう息苦しい。京一はおいてけぼりにされた感が強かったがそんな間もなく、
「なんじゃここは?」
どこに駅ある? どこに? 探し回ると、広大なレンガ敷き、和洋折衷の豪気な駅舎、けれど人っ子一人として歩かぬ、夏の沙漠だった。乾いた熱風が帽子をはがそうとする。あるのはただ、そのとき先進の意気のあったことのみだった。
京一は好きなだけ駅舎を真正面から眺める。誰一人としてそこから出てくる者はないし、駅に向かう者もいない。何分経っても、車も入らぬ。ずーっとずーっと風だけが吹きつづけて、まぶしい柳と花を揺らしつづけていた。京一はうなじに吹きだした汗をぬぐった。
昔の古写真でよく明治期の汽車駅が広大で何にもないところにぽつねんとしているのを見たことがあるだろう。よくある語り草なのは「当時は一〇粁離れたわが家からも、省線の駅は見えたほどでした」だ。萩駅のまわりは最近こそ宅地になりはしているが、少し前はまさにそんな感じだったかもしれない。
歩いて近づいて行くと、装飾の施された明治流の柱と漆喰風の壁のポーチが迫ってきて、京一の頭を抱え込むようになる。そのときにはひんやりと風が吹いてきた。銘板が「萩駅舎」となっているところからすると、現役の駅というより記念館に等しい扱いだ。実質的な利用はいくばくであろうか。
「ほんとに誰も来んな」
静かな記念館には長州五傑や鉄道の品が丁寧に飾られている。彼らが敷設に尽力したのは横浜―新橋で、この駅ができたのはもう明治も終わって大正に入ってからだった。しかし京一は、
「これは維新発祥の誇りとしての駅舎だ。さもなくばこんな立派なものを建てまい」
彼らは合法的に江戸に乗り込み、そしてそこにはやりがいのある、困難で夢のある仕事が山のようにあった。彼らが夢中になるのも、京一はわかる気がした。
「すべてができあがって、今は支配だけがある、と。遅れて来た青年じゃないけど、ずるいもんだよ…」
細く覗ける改札口からは、葉桜がざわめき、薄緑に塗られた柱がすっと伸びて、構内に不純なものは何もない。
黎明の香り…それは、もしそこで勝ち上がれば、天皇のように永劫に安泰なのだ。ならば今の黎明を探せばよい。けれど悲しいかな、その領域が自分に合っているかどうかという、どうしようもない条件を満たさなければならない。
ときは残酷にも過ぎ去り、ここは最新の文化の発信地でも、紳士淑女の集う場でもなくなった。放置された御所が荒れ果て、獣が棲んだり、公衆の厠とされたのに似ていた。そしてただ夏の日本らしい里山がのけぞって、時代と風土の当時における、おそらくは烈しいギャップや激震を、少しだけ放散している。
「しかしこんなふうに内国の故郷も廃れたということは、それもオリエンタリズムだったのかもしれん。だいいち記念館になっているじゃないか」
外地のことを京一は思い浮かべていたのだった。いったい何重のオリエンタリズムだというのだろう。やがてキャピタリズムが安定し、抗わんためには「挑戦しろ、行動せよ」そう意気軒昂に号令をかけるは結構だが、それでちゃっかり支配者側、或いはそう思い込んで座り、あなたもこちら側へ、などと誘う、それはなにかおかしい、それ自体がすでにブラフのように、京一には思われていた。
自分が猫のように居ついている古い寮を京一は思い浮かべる。寮母(おかみ)さんにツケてもらい、大鍋でこしらえた煮込み料理を運んでもらう。そこが新たなパラダイムの静かなるエンジンになる、そう信じて四年、ないし五年が経っていた。
けれども京一は今はそこから這い出してきたわけだ。
この大陸的な乾いた暑さの中、ここに誰も来ぬということは、いまここに、そして今ここにこうして訪れていることに、大いなる可能性を秘めているのを京一はひしひしと感じた。京一はまぶしい外に出て、建築をスケッチしたり、荒廃の印象を漢詩で書き残そうとペンを取った。
ひと段落して京一が待合室で休憩しはじめたとき、翔一は駅へのまっすぐの白い舗装路をカンカン照りの中とほとぼとと歩いていた。花びらの輝く花壇越しにこの荘重な萩駅を戴くのがちらっと見えると、翔一はとりあえずはほっとした。東萩から歩いてきたのだ。けれどあんな立派な建物なのに、遠目にも動きがまったくない。そして自分以外に、そこへ近づく人はおろか、車さえもないのだった。それはすばらしい洋館があるのに、誰にも見えていないような、或いはそれが存在していないかのように思えて、自分がパーセプター(能力者)に思え、その意味の場の中を旅しているようで、翔一はつとに愉快になった。
幻影を逃がさぬよう、速足で近づく。そして花と柳の噴水の萩駅に翔一は迎え入れられた。整列せるトロンボーンの祝祭音が今にも鳴り響いてきそうだ。
けれど観光客向けの記念館がぽっかりと口を開けていて、翔一はかなりがっかりだ。
「なーんだ。これだったらもっと自然の中の駅に行きたいもんだ…」
それにその中は図版ばかりで小物がなかった。
ひと回りすると待合室の方に静かに中に腰かけた。京一がここいるのももう何となく予想がついていた。
京一の方も、外にちらちら彼の姿が見えていたので気づいていた。
さっき東萩で互いを認識し、口は利かず。けれどこうしていま、狭い空間に一緒に座らざるを得なくなっている。はじめはどうということもなかったが、しだいに湿度は上がり、二人は立ち上がれなくなった。
(そっちが年上なんだからなんか声かけてよ、気まずいじゃない)
身軽な格好で来ただけに、余計に身軽じゃないようで、思わず翔一は天井仰いだ。京一の上に立つのもいやだった。ときおり冷たく蝉の声が耳に沁み込んでくる。
京一はかなり悩んだ。もし自分が相手だったら、自分がこんなふうに高潔でありつづけるのは、おかしくないか。それに自分だって、もういい歳じゃないか。いつまでこういうとき気をもんで過ごすつもりなんだ。
京一は一つ咳払いすると、はっきり真正面をむいて
「東萩にいたよね。…旅行かい?」
翔一はちょっとよろこんで、
「そうです。家が近くで、まずはこの辺に来たんですよ。やっぱり、大学生ですか?」
京一はいきなり痛いところを突かれ、汗が噴き出した。そう、コミュニケーションというのはこういう痛みの出し合いだ。京一は籍があることをしきりに思い描きながら、
「まぁ、そうだけどね。それは確かに間違いない。それはそうと、高校生だろう、部活には行かない?」
「やめました。旅行に行きたくて。」
「ボロが自分とそして出会いを彩るんだね。」
「なんのことですか?」
京一はいつもの癖だと苦笑した。
どこからともなく風鈴の音が聞こえてくる。近くの民家の軒先だろうか、或いは駅氏の軒端だろうか。
「大学って行くべきですかね?」
京一は苦虫を噛み潰したように、
「そんな将来にかかわるようなことは気軽に言えるわけがない。だがしかし、われわれが勉強するのは、あくまで叛逆、仕返しするためだ。命を救うにしても、それは失われたそれがあるからだ。こんな苦労をする理由はほかにない! 君がしばしば憎々しい感情を抱くような支配者どもを顚覆させるためだ。おれが大学を出るときには満腔の思いでそやつらをぶん殴ることができる。論文一本で破壊することもできるんだ。何もかもその瞬間のためだけだ!」
翔一は、ドン引きした。そういった答えはまったく期待しておらず、もっとライトなものを想像していた。翔一は大学に上がれたら京一みたいにいろいろ考えながら夏に旅したいとぼんやり思っていただけなのだ。しかし翔一の頭の中に不安の雲が立ち込めたのは間違いなかった。
京一は、口が辷った!と思ったが、何もかもが遅かった。何気なしにスッと駅舎を出て、柳の木陰で顔を真っ赤して、後悔しどおした。
高潔な京一にとっては自分自身を償却資産化することは、許せなかった。
さっきの恥ずかしさのあまり、ふだん入りもしないような食事処に入って麺類を注文した。店内では安っぽいラジオ番組が流れている。しかしでてきた品は恐ろしいほど口に合わず、京一はそっとお釣りが出るくらいの金をテーブルにおいて黙って逃げ出した。しかしいい時間つぶしにはなった。
外へ出ると、この激烈な山口は長門の暑さが、恥辱を焼き飛ばしてくれた。それにちょうど汽車の時間である。
駅にはあのバスで見かけた一眼レフの御仁もいた。彼は展示室の方で熱心に解説文を読み込んではときたま撮っている。もちろん、駅舎も存分に。けれどその爺さんには偏執なところがなく、すっと纏まっているところがあった。京一は、きっとの爺さんは周りなんか気にせず、その頭の中で凄まじい想像の旅をしているのだろうな、と思うと、うらやましくなった。
京一は少し寂しい思いから、その爺さんに思わず声をかけた。おお、との反応をもらって話をつづけると、長い間勤め上げた大学を定年になり、いまは私立大学に請われて教えているとのことだった。京一が洛東に在学だと知ると、爺さんは嬉しそうに彼を励ました。
にこやかに茶飲み話を切り上げると、二人はばらばらにホームに出てきた。
ほかの客たちの中にまぎれて何気なしに画面を触っている翔一を見つけると、京一はちょっと安心した。
「仮に真実の一面にしても、あんなこというもんじゃない。ひどいじゃないか。第一。」
それにしても…野良仕事の爺さんもいるし、もう文化や誇りなんて、どこか遠くにすっ飛んでしまったのかもしれない。いずれにせよ、この場にはそれに関しては、探しあぐねている者しかいないわけだ。
京一は何もかも身ぎれいに、すっとした気がしていた。
そのとき京一の耳の奥に突然、室内楽のF.A.E.ソナタが流れはじめた。
翔一は、うつむいて画面を触って逃げるのがいやになって、さっきのことについて何か言っておこうと、ふっと京一の姿を見た。けれど京一は不思議なくらい心地よさそうな顔をしているので、とりつくしまをなくしていると、もう列車が入ってきてしまった。
東萩で見た同じ運転士だ。彼はもう京一を気にするでもない。着くと、京一、翔一、穏やかに自分の想像に浸る教授の3人はてんでばらばらに席に着き、運転士はさっきとは別人のように快活に、出発の指揮をはじめる。
速度が乗ってきたころ、翔一はため息ついて、
「まあ、でも今夏は出ようよ…」
旅に出て迷わされたのに、迷ってそれで旅がはじまった、そんな転倒の印象を、翔一は受けた。
風景は流れて、京一は首をふりふりしながら帽子を押さえようとしている。飛ばされなんかしないのに。
(終)
―「自由に、しかし、孤独に」…Frei Aber Einsam. ―