柱野駅
(岩徳線・はしらの) 2011年5月
この駅ではあまりよく眠れなかった。寝ていたホームの待合室は引き戸や窓はあるのに、或る一面だけ壁のないという変わった造りで、その壁のない方が下方の駅前集落の側だったのだ。それで少々落ち着かなかった。むろんうまい具合数本の木が伸びていて、ぎりぎり覗かれはしない感じだったけど…
そんなわけで、もうすぐ目覚まし鳴るよなぁと思っていたら、薄暗がりの中で無情にも鳴り響く。インターネットに接続できない、電話だけの二つ折り携帯だ。何のおもしろみもないその端末を、僕はちっとも愛していなかった。仮に接続できたとして、およそネットをしているという感じにはならないし。
そんなわけで5時前に起床。外は外灯なしでは歩けない暗さだ。
薄明を待って、いろいろと歩いた。とにかくびっくりするくらい山深く、こんなところで寝ていたのかと唖然とした。深夜の闖入者はなさそうだけど、もうちょっとひと気のある方がいいかな…まぁ、いずれにせよ、もう明るくなったわけだし、何も問題ない! と思うときはいつも、寝ている間に厄介な問題が解決していたというような快感だ。
ホームは古風で、白線がまだしっかり引かれていて、端の方は真ん中が土のままという汽車時代そのものだった。しかしそう考えると、駅という構造は、一度作ってしまえば百年以上は余裕で使えるものということになる。
ホームは盛り土で、その斜面にはささやかな細かい草々が生して山の自然と溶けあっていた。確かに山深いけどそれもそのはず、ここは古代より周防一険しいと言われた欽明路峠の手前なのだ。山陽道がここを通っていたのだから往時は大変な苦労だった。ちなみに鉄道は、欽明路とトンネルという長大な隧道でこの難所を乗り切っている。けれど一方、ここは岩国側に歩けば新幹線の駅もほど近いという立地で、こうして駅にとどまっていると想像は難しかった。鉄道旅行者は概してそういう傾向があるけど、こうして僕を含む我々特有のあの無邪気さというのが醸成されるんだろうなと。だって駅にさえいれば足に困らないし(というかそう確信している)、時刻表は出版されているし、峠だろうかなんただろうかできるだけ水平移動で所望するところへ運んでくれるのだから。そんなだから揚げ句の果てには行きつ戻りつして下車旅なんてやる始末。贅沢なことこの上ない。
一線分の構内踏切は駅舎と近接していてなんか信号所のような感じだった。なんか北海道の東山駅のようである。そしてそこに入ったら昨日の夜の項で述べた通り、すぐに真っ逆さまの階段だ…
昨晩はその屋根付き階段が神社のように思えたけど、朝見るとこれはお寺だ。下りると立派な廃庭があり、駅舎のあった時代はほんとに格調高い駅だったのが確信された。
駅前集落は戸数は少なく、広場をぐるりと囲うようだった。かつては欽明路峠の手前の複数の集落の需要を取り込んでいたはずだが、自家用車が当然になり、新幹線、錦川清流線も開業し、事情はだいぶ変わったのだろう。それでもここの駅舎は残しておいてほしかったと思えるくらい、階段回廊と廃駅庭が立派だった。
維新発祥の山口には、文化の高い駅が多い。遺構から類推するに、この駅もそのうちの一つだっただろう。
かつてはあったのでしょうか取り壊されたのでしょう
川を渡って旧山陽道に出ると、中央線もないような道で、車も走っていなかった。地図でも国道2号はこの欽明路峠をはるかに山手に迂回しているし、山陽自動車道もこの柱野付近を迂回していて、現代でも避けられているように思えたけど、実は駅の裏の山の中に欽明路道路というバイパスがあって、みんなそこを走っている模様。 にしても、いまとなってはとある川沿いの道レベルにまで成り下がっている古道・山陽道を見たときは、ほんとに峠が険しかったんだなぁとしみじみ思った。交通量が少ないのはそれはそれで助かったけど。
もうここに降りることもないか、と思いつつ、駅の階段を上った。一晩寝ただけでも、だいぶ長い時間をこの駅と過ごしたことになる。けれどその間は無意識だ。毎日ここを使うにしても、それも無意識だろう。無意識ということは、それはほかに目的があるからで、それはとてもいいことなんだ。そんなふうに僕に思わせるのも、駅舎がここからなくなってしまったというこを。ここほど感じさせるところもまた少ないからだろう。