廿日市駅

(山陽本線・はつかいち) 2911年5月

 子供のころ、「廿」の字が怖かった。  「えっ、甘くないの?」  なんだか白目を剥いた人のようでもある。親に訊くと、  「あれは二十の意味なんだよ」  数字だったのかと驚いたものだ。  「八日市とか四日市とかあるでしょ、その日にちに市が立ったんだよ」  ご存じの通り五日市とかもある。個人的には四日市がいちばんかっこいいと思っていたが、よみづらい廿日市も捨てがたい。

 西広島から出た列車は混雑していて、多くの人が旧車の中で立って、つり革につかまっていた。自分もその仲間である。新井口という絶対読めない駅を僕は人々の腕の隙間から羨望の眼差しでやり過ごした。どうしてあれが初見で"しんいのくち"と読めよう。  難読地名は地の人にとってはもはや空気みたいなもので意識に上ることもないのだが、その難読性を指摘されるとなぜか嬉しいものだ。地元という幻想の連合体の、合言葉である。  降り立った廿日市でも、西日に煽られながら大勢の人が下車した。まだまだ広島近郊区間だ。けれども列車が去るとこっとりと日が暮れるような時間を駅は歩みはじめていて、この日の最後の駅として僕に安らぎを与えてくれた。

全国の駅の名所案内をオールクリアした人はいるだろうか。
広島方面の列車を多くの人が待っていた。

 裏手は新緑が鮮やかで、ほっと落ち着ける雰囲気だ。じっさい腰かけて読書して待っている人もいる。街は街としてそままにそこにあり、そして人の作品と対話し、自己と対話する…それがどれほど贅沢なことかと思う。SNSよりはるかに豊かな世界だろう。広島といえばなんでも平和、と付くけど、あの惨劇から連合国を騙し騙ししながらも、こうした時間を作れるようになってとりあえずは良かったものだ。しかしその騙し騙しがいつまで続けられるのだろうかとも最近は思う。そのうち相手はその支配を隠そうともしなくなってくるだろう。

以前は窓口から何か売ったのだろうか
桜の木が多い
早稲田自動車学校…
跨線橋より東側
至広島
駅前を覗き見て
木壁と古レールの跨線橋
ベッドタウンなんでしょう
典型的な様相
勝手口がありました。
1962年の刻印
なんとなし九州の瀬高駅のことを思い出していた
岩国方
至岩国 右の壁がベンチ替わりみたいです
主要駅の風格

 文字通り廿日市駅のその上りホームは平和だった。静かに緑樹はそよぎ、日差しは弱まり、涼やかになりはじめている。さっきまで滞在していた西広島の騒々しさがウソのようだ。民主化を語るいろんな色の広告やコカ・コーラ自販機を、さながら模型の中の小物のように、つかの間の休息を与えてくれるものとして僕は愛でたてた。  コーラを飲まなくなって何年たっただろうか。スーパーから500㎖が消えてから、このままではだまされると思い、完全にその飲水を断った。いったい誰が値上げした価格で害をなすだろう飲料を買うだろうか? 鉄道旅の合間にコーラで空腹を癒す、そんな楽天的なフェーズは20年代の今となってはとうに消えてしまったと僕の認識するところの事象なのだ。  けれど、このときここにあるのは、確かに戦後の平和のひとときだったし、それを構成する小物たちだった。ゆるやかな光がまわっていく中で、ホームに佇んで微風をあじわい、まどろんだ。

井戸ですね
勝手口
車いす用に良さそうだけど、少し狭そう。
なんとなし直江津を思い出したり…
古レールが優美
小町を覗き見て
貨物側線 左手には新しい住宅地ができつつあった
味のサファイア「お好み焼き」が気になって仕方ない
下関行きとか岡山行とかすごいなと
駅舎には便利な勝手口もついてます
駅のコンビニ ホットスナックとかはないけど…
地平駅っていいね 車いすは裏側からいけるようにすればよいし

 都市近郊だから、人は常に駅に二三人はいた。夕暮れだが、ラッシュの様相はない。けれどなんとなくタクシーも出入りして、気の急く感じはしている。あたりは小町といった風情で、石州瓦を積んだ連棟にお好み焼き屋やメガネ屋が入っていた。どちらかというと住宅地で、暗くなってから帰ってくる酔漢のお父さんが思い浮かぶような町であった。

帰宅時刻ですね
廿日市駅駅舎その1. 建物が建物に嵌入してるみたいな
駐輪場はこちら
飲み屋などがあります
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ロータリー
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ちとややこしい
10.
既視感がありすぎる

 今日はこの駅が最後であるし、ゆっくりと駅前の街を散策していた。この街にある銭湯で疲れをいやす予定でもあった。しかしそうして歩いていると広電二日市駅に逢着してしまう。

戦後かくやとも思わせる建物