広島駅新幹線側駅前・駅中
(山陽本線・ひろしま) 2011年5月
路面のある広島駅前を全部見回った後、新幹線側、つまり裏手に移動。この巨大な駅のせいで足が棒になった。そしてそこは、路面側よりも年若い駅前ながら、新幹線とともに歳を重ねてきた、いわば壮年期の駅前だった。30代半ば以降から40代のお父さん、といった感じだろうか。
どこに行っても広島鉄道病院は見え、それだけに頼もしい感じだった。鉄道の仕事に従事している中で発生するさまざまな事故に対応してきた実績があり、症例も豊富なのだろう。かつては連結器に挟まれる事故が多くあり、それをつなぐことで鉄道病院は優秀だったそうだ。労災病院もそういう傾向はある。一般に各病院、各診療科それぞれにおいて得意分野があり、病院を選ぶ際はそれを参考にした方がいいだろう。
新幹線側の駅前を歩いていると高速バス、とりわけ山陰方面の案内が大きく掲出されていいて、はたと、そうなのか、と。改札内の跨線橋にもそういう案内がしばしばあったっけ。中四国のみやことして、やはり陰陽の連絡は欠かせないものだ。芸備線が瀕死の状態の今、いまもツバメのマークを掲げるJRバスが走っているのは心強くありがたいものだろう。山陰側から広島の病院に通っている人もあるかもしれない。
高度経済成長期のような新幹線、高速道の建設は止まることがない。けれどこれからは既存の交通網を生かすことが求められている。実は本当はそんなに急ぐ必要はないけど、そんな風に行動している、というところも、我々にはある。あるいはビジネスというものがそういうものだ、というふうにも捉えられている。問題の発生した会社、顧客のもとに一散に駆けつける営業人ほど、信頼されるものもないのだろうから。
では、かつては熱い思いは今ほどではなかったかと言えば、そんなことはない。むしろ、担当者は遠来の客として扱われたのだった。
なぜこんな仕事をしているのか、わからなくなることもある。なぜ利益を追求しているのか、なぜ新幹線に乗って顧客や取引先企業のニーズに必死に応えようとしているのか…しかしそれは社会というものが魅力的であれば、特に問題にならない気もする。けれど今や年齢の如何に関わらず、あらゆる情報にアクセスできるようになり、また稼ぎ、大人や社会人になったという喜びや実感も乏しくなった。
僕が大人になるころには残念ながらそうなってしまっていた。僕が旅の雰囲気として受け取っているのは、かつてのビジネンパーソンたちが醸成した大人な社会生活の生み出すその芳醇な上澄みの残り香なのだろう。90年代風のつややかなステンレスのドア枠、ショーウィンドウ、駅弁、飲食店…これらがビジネスの利潤の産物でなくて、いったいなんだというのだ…
変なものだ、と思う。人から必要とされたいと思うのに、会社から呼び出されたらいやだと思う。僕らはきっとうまい具合に自分の能力を発揮しつつ、それを元に必要とされたいのだ。でもそれがとても難しい…
こちら側の駅前は緑樹が豊富で、季節がら盛んに萌え出していた。日が色づき涼しきなりはじめたころ、銅像の近くでは一人仕事中の男性が二つ折りの携帯をチェックしつつ休憩していた。けれど彼はすぐに立ってしまう。なんとなし、市電側の駅前の、あのどんよりした緑樹帯のことを僕は思い出した。
同時期に改良されたのかもしれない
近年は駅前の緑が著しく削減される傾向で、それはこれまでがあまりに贅沢と捉えられているのかもしれない。要は、樹に土地を貸している余裕はない、というワケだ。しかし実際は単にロータリーの機能に充てられているだけのことが多いので、とすると、そんなに有意味な再開発ともいえない側面がある。山を削り、街路樹をなくし、と、僕らもだいぶ追い詰められてるんだなぁと思う。
ここ広島駅では新幹線側も街路樹が多数植えられ、それは当時としてはこっち側の駅前は当時機能としてまだ冗長性があったからなのかもしれない。
アイボリーを基調とすると控えめなコンコースに入ると、広島野菜を売るコンビニや弁当の露店が目に入る。新幹線名店街もあり、そこはお土産と飲食の殿堂だ。
2010年代以降は完全なホワイトや、もっとつやつやしたものを建材に用いるが、この90年代風のアイボリーは、これはこれでいいと僕は思う。なぜか? まだ使えるものをそのままにしておくのは、本当に注力すべきことに、注力している証だからさ。けれど利益は常にその行き場を求めている。それは服があるのに服を買うという行動に近いものになりえ、ある種のセクシーさや変身願望、欲望からくるものだろう。現状維持とセクシーさとはいつも拮抗し、ここにはまだ70年代当時の茶色のタイル貼りの壁が残っている。
かつてはカラー液晶というものがありませんでした
団体専用改札とともに
みどりの窓口は改装され、白地に黒字、ホワイト化の走りの00年代の改装に見えた。緑を強調しないのが新鮮という訳だ。けれど入口前の天井部分は鏡のような段になっていて、ディスコを想わせるなんとなし80年代~90年代初期風である。こんな凝ったことができたのはバブルの時なのだ。
新幹線コンコースは東西に長く伸び、どんだけ店があるだよと思うほどだ。その中にはほんと猫の額ほどの間口のような弁当屋もあって、なんかそそられてしまう。各ATMに外国食品雑貨屋、本屋と、もはや一つの街で、もはや暮らせそうである。微妙に生活感があるところがポイントで、東京や大阪ではこういかない。
ホーム上の店や露店も入れたらこの駅だけで100店舗以上はあるんじゃないでしょうか
岡山寄り最奥部は残念ながら整体になっていて、ホテルではなかった。旅の疲れをいやすのだろうか? 昭和のころならここはステーションホテルがおあつらえ向きである。いや僕ならネットカフェがいいかな。そしてそこで住みたい。
通路に飛び出してるからJR関係のものだなと分かります
こんな隠れ家的なロータリーがあるとは
官が交通を牛耳り、人々が頼りにしていた時代は遠くなってしまった気がしますが、今でも変わらない面と、これからそうしたかつてのような地統括的な運行が必要とされてもしています。
涼しくなった外へ再び出歩いた。旅感のある山陰方面のバス乗り場は出発案内があって、まるで駅のホームを真似しているかのようだ。あたりは家路に急ぐ人が増えるなか、そこだけなぜぽっかりと違う空気が漂っているかのようで、不思議な感じがした。それは掲げられたそれぞれの地名が発する空気感から来るものだろう。広島には広島らしい地名があり、山陰側はもまたそうであるという…
そろそろ新幹線側も一巡したので、名店街を経て2階のマックにても入ろうか。
なんか組合みたいな感じですね
今日最後に歩き回った新幹線側駅前を俯瞰しながら、ビッグマックセットを食らった。ふだんはセットなんて頼まないけど、今回は午前から何も取っていなかったので…こういう没個性的な食べ物の方が、その地のとある光景が"風景"として際立ってくる。
店内は黒を基調としていて、なんとなし海外感もある。一番に印象に残るくせに、気に留めるべきではないとされている駅のそれぞれの差異に僕ははまりこんでしまい、今日も長い間観察してまわっていた。それはとりもなおさず、僕たちが今どの辺にいるのかが、わからないという思いからくるものだった。上の世代が当たり前のように感得しているそれは特に言語化されることもなく、次々と忘れ去られていく。それは単なる思い出話として、世代間で共有できる範囲で持ちこたえられればいいものと思えず、誰か一個人の視点だけでもあれば、それは一般的な基準になるという思いがあった。
僕は歩きながら頭はいつもオンラインだった。脳と脳のネットワークを感じていた。だから撮った画像は共有している気分だった。かといってほんとのオンラインでは、独りで施策を深めるというのは実現できないことだった。オンラインでありながらそういう独りだという、タイムラグのない世界を誰しも模索している。それは内省と社交という、ありえないアウフヘーベンだろうが、心への侵入という点でのみ、実現されるだろう。自分がやっているのは、自分が存命している間は、大局的にはタイムラグがない、その程度のことだ。
余りに疲れ果てたので、市電の走る方の駅前で日がとっぷりと暮れるまで休んだ。もう20時だというのにどの土産物屋が開いていて驚かされる。東日本震災の節電がなければ、もっと明るい駅前だったのかもしれない。どうせ"干からびた日のかけら"を集めるこの山陽旅行もこれで終わりだ。あとは終電を乗り継ぐようにしてできるだけ近くまで帰る予定。
1番線に向かった。内照式広告が灯り、多くの黒い影が列をつないでいる。こんなにも暗い広島駅はついぞ見たことがないかもしれない。うんと遠くまで行く列車を選び、僕はそのまま寝呆けた。駅間距離のあるセノハチを越え、西高屋あたりでだいぶ人も少なくなり…記憶はとぎれとぎれで、おぼろげだ。こんな風に毎日が忙しく、けれど充実していれば、車内での細かなことは何も気にならないに違いない。実家に住んでいたあるとき、何気なく下に降りて行ったら「さっき家族内でものすごい大げんかがあったの知らないの?」 と尋ねられた。僕は疲れ果てて眠り込んでいたらしく、まったく気づかなかったのだ。今住んでいるところでも、すぐ近くでニュースになるような大火事があったのに、僕はその時間まさに火の車で資料作りをしていて、事態を知ったのは二日もたってからだった。