飯浦駅
(山陰本線・いいのうら) 2012年7月
涼が家で大げんかして飛びだして、六日目の朝がはじまろうとしていた。金がなくて、駅を寝て渡り歩いていた。飲み物も買えず、空いたボトルに水道水を汲んで飲んで、満足に食べられもせず、しじゅう苛々していた。
家を飛び出して最寄りの駅に着いたとき、ずっと前から雑誌でいいよ、いいよと聞いていた山陰線を、涼は迷うことなく選んだ。雑誌は美しいベタ絵を載せ、人に好悪を生まぬような解説文が付されていた。けれど涼の旅立ちはそこからはおよそ想像もつかぬような、汚辱に沈んだものだった。
切符はパチンコ屋の裏手にあるようなダフ屋から安く買い上げた。タバコと焼肉のにおいの充満する裏通りだ。時間がないから早く!と指をでトントン台を叩いて姐さんを焦らせたのを、涼ははっきり覚えている。
「そうだ、あいつ鳥取にいたよな!」
旧友と連絡を取って、大山(ダイセン)の麓の無人駅で会うには会ったが、旧友はとてつもなくそっけなく、顔を合わせたのはものの五分くらいだった。涼はそのことに対しても青白い怒りを抱いていた。
昨晩、戸田小浜という駅で涼は寝たが、室内が虫だらけで、玄関先で眠った。しかし何かされてもやり返そうとは考えなかった。もう体力がほとんど残っていなかったのだった。
松籟と潮風の縹緲とする、あたりがぼんやり明るくなるころ、涼はどうにか起きた。そして身支度を整えて始発に乗るころには、また彼らしい戦闘心がむき出しになりつつあった。
「とにかく自分に合ったところを見つけるんだ。ここだと思えるところが必ずあるはずなんだ!」
ちょっとキツネ目な涼は、見る人に腺病質な鋭さがあるように捉えられるかもしれない。体はそう大きくなかったが、動きが敏捷で、それが人を怖がらせることがあった。
けれど自分の目が涼は好きではなかった。それを見ると顔をいつもひっかきむしりたくなるのだった。
そういうのをこらえながら、この日最初、何としてでも降りてやろうと思っていたのが、飯浦(イイノウラ)という駅だった。緑の中をゆく一両きりの列車。冷房は涼の体を硬くし、戦闘心を無力化するか、むしろ体幹の中心に集まらせて高めるかのように作用した。
涼は「降りるぞ!」という気迫で運転台に向かうが、運転士はなんともなさそうに、「はい、ありがとうございまーす」と、彼なりに朝一番の客仕事を終えた気分であった。
曇っていた。どうも山の中腹にある無人駅のようで、いやというくらい草の匂いと虫の声だった。頭の中を草むらの中に突っ込んだかのようである。腕とふくらはぎに蚊が群がってきた。かすか遠く、木陰の隙間から、儚げに白い海が見渡せた。
「なんで曇ってんだよ。でもいいから見せろよ。」
好きになった女子の服を脱がしたように、冷静に、しかし確実にひとつひとつをこなして、涼は観察していく。自分に追手がかかったとき、過ごせるような場所を探していたのだ。
けれど、
「なんなんだここはいったい…」
涼ははじめ、こんなところは非常識だ、という目をしていた。けれどそうして駅の中を目の当たりにすると、刮目し、体が固まってしまった。
すべてが、あらゆるかつてのものが、夏の或る朝のしじまに眠っていた。弱々しく蝉は鳴きしぐって、何十年も前の木の板でできた窓口には、JRのロゴシールが貼ってあった。
涼はこれまで思い出しもしないことを、つとに思い出した。
幸せだったときがあったのだ。たしか、そう、まさにこんな駅で、自分は言ったのだ。
「いってきます」
無垢に笑みを振りまきながら、虫取り網をもってこんな駅まで祖母に送り出されたのだった。
長い間祖母の家にいた記憶がある。そこで精神的には何不自由なく暮らしていたのだ。けれど何かをきっかけに、母という人と一緒にどこかへ行くことになり、それ以来、涼はもう二度とその住処に戻ることはなかったのだ。
祖母からはたしか、当分一緒に虫取りしたり遊んだりしておいで、と送り出されたのだ。
「うそだ。そんなことがあるわけがない。」
ことわっておくと、その母は、涼の実母であることには間違いなかった。もうこんな歳になってそんな事実誤認があることはなかった。ただどうしてそんな経緯があったのか、涼にはわからない、しかし実のところ、涼の母はいっときノイローゼ気味になって、数年、涼は祖母に預け通しにされた時期があったのだった。
しかし涼はただその最後のときの輝かしい夏のイメージが今ありありと思い浮かぶばかりで、それ以上のことは詳しくわからないでいた。涼はそのとき着ていたシャツやズボンが、たいそうお気に入りだった。そしてそれは偶然、今着ている服、青の襟首と袖口の半袖シャツと、ベージュのハーフといういで立ちだったのだ。けれど大人に近くなった今は、何もしないのもかっこ悪いと、赤のラインの入ったベルトで落ちないようにもしていた。季節柄汗をかくと思って、わざわざキャンバス地を選んでもいる。飛び出したわりには考えていて、変なところで几帳面なのは、涼らしいところだった。
けれど涼は自分のそうした服装などいまは目にも留まらず、何もかもが嘘のように、あのときのままに眠っている駅の中の様子をただ凝然と見守らずにはいられなかった。
「…でもおかしくないか? たとえあそこがここだとして、あれ以来なんの変化もないっていうのか? そして誰もいなくなったと。それはどう考えてもおかしい。あの当時の明るさのままならともかく、まるであのときの一瞬で時が止まり、全ての人が消えて、そのまま、ものだけが今に存続しているようじゃないか」
いくらなんでもそれはあまりに自分本位な考えだと涼は思った。そんな主人公にはなりたくなかった。
しかし、いったいどんな顔してるんだこの駅は、と、涼は外に出て振り返ると、そのありえなさに現実のものとはついに思えなくなっていった。
何もかもがおかしいのだ。ただ瀟洒な建物が忘れ去られたように立っていて、なんにも名前を掲出していないのである。しかも出てすぐが生垣で、正面向いてこの顔は人から見られることが絶対にないのだ!
「なんなんだここはいったい」
…
「こんなふうにありつづけることもあるのか」と思うと、力なく無表情になり、恐ろしくも、胸が苦しくもあり、そして少しだけ潮の香りが漂ってきたのを鼻腔に感じた。
泣くように引きつりながら、
「なんで誰も非難しない?」
それは或る郷土の明治の廃校のようでもあり、また、避病院のようでもあった。
様々な事情から振り返られない歴史や、人に教えてはならないような場所のようにも、涼には思えた。
あの場所がここだったのかは、もう涼にはとっくにわからなくなっている。そんなような気もするが、逆に、あの場所はここだというのはすでに当たり前な状態になっているようにも感じられていた。
駅からの緑に囲まれた長い下り階段は、遠くはかなげに海と集落の眺望がいい。確かにあの夏の日、自分はここを登ってきたはずだ。
「ちがうんだよ。こんなところでも温かで元気なドラマがあるんだよ。自分がそうだったじゃないか。ほんとうなんだよ。信じて…」
でも違うかもしれない。何もかもすべてが、勝手な捏像(デツゾウ)かもしれない。
そう思い当たると涼はまた苛々してきた。何もかも納得できないものばかりに見えた。
駅からの道はほかは人が通れるくらいの草の道で、いったいどうやってあの駅を建てたんだろな! と涼はいまいましげに思う。
駅から歩いていると山手側に聖堂のような紡錘形のトンネルが現れ、道と川が同時に密かに通じていた。涼は強く鼻から息を吸って、川と緑のにおいをかぐと満足し、「よし」と、そのトンネルに近づいた。
暗闇の中、ユスリカの群れを掻き分けてトンネルから出ると、そこはデンデラ野が開けている。さっき高台から見渡した集落や儚げな海、そして駅、そんなものからは想像もできないような地区が広がっていた。ぽつぽつと家が近い。けれどどこも廃屋だ。
「こんなとこもう誰も住んでないんだろな」
半袖なのにも一枚服を着てるみたいな曇りの朝だった。小川の流れに耳を欹てつつ、涼は気楽に歩くつもりでいたその矢先、とつぜん仕事着の着物を召した或る婆さんが涼の目に飛び込んできた。
二人とも同時に目をむいて驚いた。
涼は怒鳴られると思った、「なぜ勝手に地区に入ったんだ!」と。
しかし婆さんはとてつもなくひどい方言で、あぶあぶと驚きつつも、つぎのように一気呵成にまくし立てた。
「びっくりした、ほんまにびっくりした、いったい誰かと思ったけど、これはまあ、もうほとんど見てないんよ、こんな若い人見たこともう何十年もないんよ、びっくりしたぁ、息子も子供もおったけど、もうみーんな出て行ってしもて、一回も戻ってこないんだわ、だからこんな若い人見たの久しぶりでほんとにひっくりした、おるんねほんまに…やぁ、ありがとう」
涼はあっけに取られて、
「あ、はい…」
とだけ返すのが精いっぱいで、そのまま踵を返した。
帰る道中、なんにも目に入らなかった。ただそわそわして、そうしてやり場のない怒りをこらえていた。
駅に戻ると真っ白な顔をした建物が、誰にも見られることなく、真っすぐをむいている。あっそ、と、そのまま中に涼は入ると、頭を抱え込んだ。それから
「おれにどうしろっていうんだよ! 何ができるんだよ!」
と、大声で叫び上げると、窓口側の木の壁を思い切り、回し蹴りした。
虚空に響く、物質的な音。後から裏で何かが崩れた音がした。
「何してんだ」
待合室に人がいたのだ! もう五十半ば、白と鼠の硬い髭を口まわりに生やして、チェックのネルシャツに釣り人が着そうな緑のベストの男性だった。体格がよく、涼よりも体幹は肉厚で、背も高かった。
涼はびっくりして目も口も純真に大きく開いて、哀願するように、
「あ、いや…」
男性は立ち上がり、涼に近づいていった。
「何してんだ」
と言うと、その男性は、恐ろしさのあまり醜く歪んだ形相の涼の胸倉を太い片腕でつかみあげ、ポケットからさっと取り出した折り畳みナイフを開く、その瞬間涼は哀願するように目を見開いて、父さんと漏らしたが、男性は一切を意に介せず、むきだしになっている涼の下腹部に、それを表情一つ変ず思いきり突き立てた。
腹や口からの生暖かいゾル。そのときだけ涼は真実を思い出した気がした。けれどそれはその男性の時間に換算するとほんの数秒間でしかなかった。
涼の体がなすすべもなく地面にずり落ちると、
「おれはこういう自分勝手な連中が嫌いなんだ。事情がなんなのだか知らないけど、ここはみんな場所だろう? そこが今はおれの場所なんだ。だから蹴ったりするのだけは許さない。おれだってだいぶんかかってて、ここを探し当てたんだからね。」
頭の中で涼は思い切り金切り声を上げた。
「ちがう、そんなんじゃない、これは!」
凄まじい力を振り絞って、悪夢から抜け出した。
「ちがうんだ、しっかりしろよ…何やってんだよこんなとこで」
心臓からの衝撃を受けて、ずるずる壁から落ちて尻もちついている自分。
男性の声は、耳を澄ますと、ただ蝉の声と、木材の反りかえる音だった。
服用していたクスリが、悪い方向に作用したのだった。食事も摂らずに飲んでいたからだろう。またこの夏の暑さのせいもあった。そして何よりもこの不思議な場所も。木立の葉末は、今もなおざわめきつづけている。
寒気を催しつつも、ただただ情けなかった。それから死ぬほど喉が渇いていた。しかし自販機は駅はおろか町にさえにない。
便所の手洗いの蛇口、はじめは水を飛び出させて口に入れていたが、やがて我を忘れ、蛇口をしゃぶりつくすように飲んだ。目玉が落ちそうなくらい目を見開いて。
長椅子にしゅんとして涼は座った。服も濡れて、入り込んでくる風が涼しい。
自分はただ山陰線を旅行してきて、この駅に逢着しただけに思えてきた。「豊かな風、緑、そして木のにおい、昔からの姿、驚きや発見…ただそれだけじゃないか。何も悪いことはなかったんだ。」
しかしそれらは物事の一面に過ぎないことを知ってしまったことを再び思い出すと、リアルに頭痛にさいなまされ、涼は頭を抱え込んだ。雑誌が気よくしか紹介しないのは仕方ないことだった。なぜならそれが雑誌の仕事だからだ。それくらいは涼もわかっていた。
帰ってからどうしようかとそればかり涼は考えはじめた。近畿地方から来て、もう山陰線もまもなく終わってしまう。
真実を追求するのはともかく、とりあえず頭をはっきりさせて、なんにでもまっすぐ向き合いたくなった。
すべての予定を変更して、しばらくここにいようかとも思った。体が襤褸屑のようで、動かなかった。
遠くからみどりを掻き分ける鉄道の音がしてくる。頭痛を抑え込んで、素直に立ち上がり、階段を登る。列車がいつもと何一つ表情を変えず、走り寄ってきて、うれしかった。もし運転士が窓から顔からを出して、怒鳴りつけたら、涼は素直に謝りつもりでいた。
(この物語はフィクションであり、実在する団体、組織、場所とは一切関係ありません。)