生野屋駅
(岩徳線・いくのや) 2011年5月
周防久保駅で寝て、始発の気動車に乗った。新鮮なオレンジの朝の光に包まれて気動車が走っていくのは、何か未来に向かって走っているようで、駅ばかり巡り歩いている僕の気持ちを新鮮なものにした。けれど予定ではひと駅しか乗らないのだ。 周囲に立派な国道や新幹線の高架が寄ってきて、なんだか騒々しそうであるが、店などはまだないところのようだった。いずれにせよ ― 時間帯のこともあってなんだか気が急く感じがする。 あっという間に生野屋に到着、降りてしまった。運転士も朗らかな感じだった。早朝の気分というものかもしれない。今から2本ぐらい後には、もう学生らでギュウギュウの列車になってしまうだろう。それに、よく考えたら始発ってあんまり乗らないものだ。なのに僕ときたらもう数え切れないくらい、いろんな駅で乗っている。
始発はできれば、夜明け前のものがいい。けれどこんなふうにどきつく明るくなってからのこともある。しかしいずれにせよ ― 始発に乗ると、乗務員たちも俺たちと同じように朝起きてきたんだな、そんなふうに思うのだ。
朝日を背負いつつ、後年に造られたホームだけの駅をとぼとぼと歩く。新幹線の高架が間近で、近くの幹線からの走行音も激しく、もうすぐ大都市なのかと思わせるところがある。スーパーやコンビニの看板もホームから見えてこれは気を付けた方がいいかもしれんなぁと。けれど僕の直観によると、ここはまだまた市街地じゃない…だから安心していいのか、早めに動いた方がいいのかわからないところがあった。
ホームだけの駅には駅らしい表象は無に等しかった。こんな駅は学生時代に何の記憶も彩りも添えないだろう、と僕は断罪する。駅舎ほど郷愁を誘うものもないであろうから。僕はどんなな些末に駅にもそこの人の思い出があると信じてきたけど、やっぱり駅舎はあったほうがい…しかしそういうところに生れ落ちるか否かは、自分の選べないところではある。僕はそういう町で生活することはついぞ一度もなかったので、こんなふうに永遠に駅をさまようことになってしまった ― のかもしれない。 集落側を歩いた。ゴミ出しする人にも出会わず、ちょっとほっとする。コンビニも静かで、スーパーは開店の準備中だ。我々が普段当たり前のように赴くスーパーも朝な朝なこんなふうに準備を進めてるんだなと思ったりする。経済的冷たく見ると、仕事があってよかったじゃないか、みたいな意見を申すことになるのだろう。
バイパス側を歩いて、徳山に急ぐ軽トラや車を見送る。毎朝毎朝、こうして人々は往来し、仕事をし、仕事を探し、仕事を受け…それは鳥の朝のように、ごく自然なことのように思われた。けれどその様相はおよそ鳥の自然と様相を異にする。脳科学者に言わせると、これは大脳新皮質の顕現である、ということになるのであろう。しかし神の視点からすると、どれをとっても自然由来のものに見えるかもしれぬ。都市部のビル群は、その実、山と大地の産物の形質を変えて組み上げたものでしかない。石灰岩、鉄鉱石、ケイ素… けれど僕にはいつでもそれらが廃墟化した姿しか思い浮かんでこない。鳥たちはそれぞれがその地域で音楽家である。僕の手からはビジネスが零れ落ちる。 バイバスをくぐる地下道を歩く、薄く黒いカバンをもって次の目的や顧客のことだけを思い浮かべながら闊歩し、地下道のデザイン、設計は、それがふさわしく設計されていることを当然のものであると認識し、設計者もまたビジネスであったことを感得する ― そんな歩き方を僕はできそうもないが、ただ、そんなふうにして人々は歩いているのだろうということは、想像することはできる。
スーツは戦闘服由来のものであり、しかしそんな歴史に思いを馳せることはなく、それがふさわしく設計されていることに、満足し、すべてはありうべく姿で設計され、出回り、改善点があれば、それはすぐに改善され、その点がまだビジネスとなり、動き出す… ジェネラルたる大企業の役職や役員と、現場の声を聞くという、その現場の兵卒たち、そして彼らが作るアスファルトの立派な道と、その周りの土地の農民たち…事態は何ら古代エジプトから変わっていない気がする。僕はたぶん方丈記の作者とか、夜中にいはゆる"凄う掻き鳴らし給ふ名人"といった、そんなキャラクターなのだろう。だったらそれはそれでいいではないか。僕は労働人口が減っているだなんて思わない。きっと戦闘の意思を持つ軍曹が不足しているのである。 しかし緩く仕事をしていては、他国から狙われる。けれど農民だって、最後の最後には、武装蜂起するのだから。あんなのはのどかな農民じゃなくて、なんか恐ろしい戦闘集団である。
駅へと戻って来た。客が溢れかえっているということはなかった。やはり僕の直感は正しかったようだ。この好天の中、ビジネスを進め、闊歩する人もいるだろう。僕はこれからはるか遠く広島駅に向かい、午前の終わりごろに着く予定だが ― このビジネスとは程遠い行動を、僕がどこまで自分で自分を受け入れることができるか、それはなんとなしよくわからなかった。