今庄駅
(北陸本線・いまじょう) 2007年9月
再び今庄駅に降り立って
湯尾駅から列車に乗ると、車椅子と付き添いの人が車掌室の扉の前に占めていた。車掌はしばらく軟禁されてしまうようだ。放送を聞くと女の声だった。
夏の廃たる雪国は暑かったが、2時間車内の冷房に当たったおかげで少しましだったものの、さっそく疲れがぶり返して、去年もこの季節に降り立った隣の今庄駅に行き、そこで何か買って休憩して、そこで旅を終えることにした。
急斜面の山の杉の緑が濃くなった。そういう山々が道を塞ぐように重なりはじめて、一休止するによさげな平地がいつものように広がってくれた。今庄宿だ。 今回は今庄止まり出ないから、下車したのは地元の人だけだった。
今庄365スキー場の看板とラッセル車。
敦賀方。左手は焼尾山(520m)。湯尾の杣山同様、硅石の採掘場。今庄鉱山。
積雪標を兼ねた駅名標。
湯尾・武生方。鍋倉山(517m)の山塊。
いいカーブが出ている。このカーブを使って、湯尾峠をトンネルでくぐり、湯尾駅に出る。
駅構内の風景。
上り方。
名所案内。夜叉が池、とあるが、ここからむちゃくちゃに遠く、岐阜との県境にある。
登山口までバス20分、徒歩3時間とあるが、バスは今もあるのだろうか…。
隣のホームの1番線は工事中だった。ちなみにこの内照式駅名標は、この駅でただ一つのもの。
旧官舎らしきものなどの建物群。
風雪を避けるための場所。
下り方に見た4番線。
上り方。
階段上り口にはシャッターがある。これも雪国仕様だろう。
3・4番線ホーム。
跨線橋を越えて敦賀方。
跨線橋にて。武生方面。鉄路はあの山を右に回り込む。
1番線はきれいに剥がされている。
作業員用の構内通路。
バラストを運び撒く車両とレールを運ぶ車両が留置されていた。
今は保線基地。
給水塔。
跨線橋内の様子。
1・2番線ホームにて。
土地を売ったようだ。
はじめは駅舎を壊しているのかと思った。
2番線にて。
跨線橋から見た工事の様子。
左手。だいぶ山が深い。
いつみても、あの扉が「出口」に思える。
実際はこのように駅舎の屋根の上に出て危険だ。
売店タッピー。菓子飲み物のほかに、お土産を売っている。
旧国鉄ウォーキング大会というのがあるらしい。
今庄町の開催。
駅前広場。
白線の引き方がちょっと変わっている。
今庄駅駅舎。
今庄は少し変化していた。構内の一部が保育園に通じる道を拡幅するために削られ、そして駅を出てすぐ横のスーパーが、潰れていた。建物はある。だんだんさびしくなっいくのかなと思う。保育園への道だとすぐわかったのは、いつも車窓から見ていたからだった。ここにもちゃんと子供がいるんだと思ったものだ。
しかし、出札のおばさんは変わっていなかった。去年と明らかに同じ人で、びっくりして吹き出しそうなほどだ。売店も同じように開いているし、今庄宿の写真展や地の人の手工芸品などが飾られているのも変わっていない。椅子の座布団も敷かれているのも。
駅の中だけが、元気なままだった。
駅舎その2.
3.
今庄の特徴的な跨線橋と構内通路。
味を出した案内板。スキー場、サイクリングターミナル、
そば道場などが案内されている。
やはり雪が多いんだなと思う。
町並み。
そして駅の中にはちょくちょく人が入って来る。切符を求めに、そして売店で品物を買いに。スーパーがなくなった分、駅前ではここしかない。
その保育園への道を工事している人が入って来て、大量にアイスを買った。ちょうど私も買おうと思っていたところなので、その人に続いてカップ入りの氷を購入。駅の中に椅子に座って食す。
地の人が入って来て、娘が嫁いでいるという「川西池田っちゅうところまでほしいんや」と切符を頼む。「往復で?」「いやあ、ちょっと帰りはどうなるかわからんから、ええわ」。と、この人はかなり関西の言葉だった。一方出札の人は、とくにどこの訛りでもないと感じさせたが、人を寛がせる口調だった。
私が氷を砕いて必死に食べつづけていると、そこへ齢八十くらいの婆さんが入って来て、すでに座っていた川西池田行きの婆さんに向かい「おう、元気にしてるか、おい!」と、めちゃくちゃ乱暴な口を利きはじめた。思わず耳を疑う。何者なんだろうこの人は。しだいに川西池田の婆さんも、負けじと、乱暴に言い返しはじめたが、どうもそういう性分ではなさそうで無理をしているようだった。八十くらいのあの婆さんは、若いころ無頼で鳴らしたのかもしれない。
やがて、その婆がこちらをちょくちょく見るようになったため、体の位置を少し斜めにずらす。しかしもしかすると、あの調子で会話するにあたっては、地元でない私の存在が気にかかりはじめたのかもしれない。
結局最後は、ほかの人を気にすることは少なくなって、二人はしゃべっていた。粗暴な口調も変わらなかった。そこへ土産の紙袋を提げた三十くらいの男性が入って来た。他にも客が来る。ここは宿場とそばが有名だから、とても少ないが鉄道での観光客もいるのだ。
私は改札をくぐり、ホームに下りず跨線橋の中に佇んだ。ここだけが日陰だったからだ。しばらくして、私の後ろを何人かの客が通って、ホームへと下りて行った。先の三十台の紙袋の男は、通らなかった。
列車の時刻が近づいたころ、出札のおばさんが跨線橋に上がって来て、「次の列車は3番線からでーす、いい? (掛け変えるの忘れちゃってたから…) ほかにもう (言い伝える) お客さんいなかったかな…」と言いつつ、1・2番線ホームに軽く下りて見まわすと、駅舎の方へと戻っていった。この駅では乗り場がいつもと違うことがあるので、改札口に次の列車の乗り場案内の札を掛けるのだが、それが一本前の列車のままだった、ということなのだろう。
あの人は、ほかにもうお客さんいなかったかな、と言った。つまり、私がアイスを買って待合室で食べ、この列車を待っていたということを覚えていのだ。私がアイスを食べているとき、あの出札の人は少しも、待合室の方を見るそぶりはなく、忙しそうに、出札内で事務をしていた。にもかかわらず、と思うと、なんという気遣いだろうか、と心を打たれた。そしてお客さんという意味は、旅客というより、売店でのお客さんの意味にも捉えられ、たったアイス一個でも、そんなふうに呼んでくれるのかと思うと、また今庄に来て、あの人の元気でやっている姿を見たいと思うようになった。一度降りた駅だが、また来てよかったと思えた。
ところで、ホームに下りてみると、例の三十台の紙袋の人がいた。私はあの人よりも先に改札内に入り、跨線橋にずっといたが、あの人の姿は跨線橋で一度も見ていない。いったいどうやってホームに来たんだ。この駅は跨線橋以外では線路内を歩くしかホームに来られなかった。
列車に乗り、敦賀で乗り換えると、その人は携帯で電話しながら私のいる車両に来た。私がその姿に気付くと、彼も私の姿を見た。彼は電話しながら別の車両へと移っていった。相当嫌われている感じがするが、これまでの経験から、これは全部、偶然なのではないかと思う。
例えばこんなことがあった。ある冬の夜、柘植駅のホームで列車を待とうと、私は待合室内に入ろうとした。待合室は灯りがついていて、多くの人が静かに待っていた。しかし待合室に近づいたとき、やっぱり外で待ちたいなと私は気が変わりはじめた。けれどもとりあえず、そのまま待合室に入り座ったのだ。すると、待合室のあるのを知らなかったという様相である男性が、私の後ろをかなり間(あいだ)を空け、ついてくるようにして、待合室に入って来た。しかし私はやっぱり今からでもすぐ、外の空気を浴びつつ待ちたくなったので、その男性が入って来て少しと経たず、私は待合室から出たのだ。私の想像通り、その男性は、おれが入ったとたん、あの人は出た、嫌ってるのか? という不思議そうな視線で、待合室内から私を見つめた。
たぶん紙袋三十台の彼が車両に来たのは、座席探しだったのだろう。そのときたまたま、今庄から乗ったお互いの姿を見つけたが、彼はその車両が空いていそうにないのを見るや、引き返したのだ。
「またあの人がいる」というのは、引き返す理由だったというより、空き座席を見つけにこちらの車両にやって来たときの、副産物しての発見に過ぎなかったのだろう。
と、解釈しているのだが、本気で嫌われていたりしてと思うのは、私のいる跨線橋を通過せずにホームに入っていたことが引っかかっているからのようだ。
私は敦賀駅の端の方に停まっている新快速の車内に腰を下ろすと、ハットを被った爺さんがやって来て、隣いいですか、と一言訊いて、座った。そして通路を挟んだ座席には、三十前後の、内省的な表情の、体毛の濃そうで大柄な、登山の格好をした人が座っていた。
爺さんは、
「どこへ行って来られたんですか?」
と訊く。たぶん、この人も登山をするので、ああいう姿を見ると、訊かずにはおれなかったのだろう。ハイカーはややあって、
「北アルプスの方に。…。」
と、初めの方だけはっきりと話した。爺さんは、北アルプス、と雲を掴むような言われ方をして、訊かれたくないのかな、と、軽く思案するようだった。大柄ハイカーは、詮索を撒いたつもりらしかった。具体的に、どこどこ山が目当てであった、と言うのが気恥ずかしかったのかもしれないし、もしくは克己的な縦走だったからかもしれない。
爺さんは、
「私、この前、立山に登ったんだけど、天気が悪かったですわ。今週なんかはよく晴れて、よかったでしょ。」
ハイカーは、にこりともせず静かに、「よかったです」とだけ答えた。爺さんは、北アって、立山でしょ、と言ってでもやりたかったのかもしれない。
その辺で会話は途切れた。この日は、連休前だった。わざわざ晴天の恩恵を享けに行ったような単行ハイカーに、爺さんは、探りたい気持と、羨ましさと、けれども山での好天への共感とがあって、それらが綯い交ぜだったようだった。
9月で、大人の旅行者が多かった。夕日が車内に差し、しつこく女性車掌が検札した。 行きしな、列車に乗った私は疋田からころころと坂を下り、曲線の遠心力で敦賀に抛り出されつつ青空を拝んだ、そのときは、やっと糸魚川から直江津までの輝きの区間に行ける、と思った。そしてその南頸城を訪れた日の最後に、筒石に行った。行きたかったところはみな行けた。今はほほが焼けて硬化したように感じている。列車はトンネルの一瞬切れたところで森の風景を見せつつ、旅を忘却させる渦のような、鳩原ループを廻っていく。往路では通らないものだった。ほとんどがトンネルで、自分の姿が映る。そこにあるはずの山清水の滴りに、しだいに興奮の醒めてゆくように、火照りが冷やされていった。
第2回北陸海岸紀行 : おわり