印南駅
(紀勢本線・いなみ) 2010年2月
列車に乗っていると下り勾配で、やがてぱあっと風景が広がり、光が満ちるのがわかった。海に近づいたんだと思ったが、同時に心の痛みも感じた。行きたかった地の端緒だった。
これまでと違って運転士もここで降りることはさもありなんというふうだ。いつしか時刻も鉄道の朝を過ぎている。列車内も静かに時間を送る人々だった。
印南駅はなかなか規格がいいようで、三線が気持ちよくカーブを描いている。構内としてはそっけないが、特急が停まってもおかしくないほどだ。やっと平野部に出たか、とのびのびした気分になり、無限の吸気たる海風が鼻孔に飽和しつづける。ときおり強く風は吹き、その冷たさには顔をしかめずにはいられない。街いまだ見えねども、すでに地開け、風光の予感はあり、しかれども海の見えぬことに、少しばかし安堵している、そういう自分。風のやむときは、ホームを歩いていく私の穏やかさを、柔らかい陽差しが愛撫する。やはり南の印象を印すという地の名のいうとおりなのだろうか。隠れるように蜜柑が生っていたり、椿が咲いているのを見つけた。あの血色のかえる大橋も、深く旅の始まる前としては、或る玩具、ないし雑貨だった。
駅務室では民間の爺さんたちが詰めていて、わいわい、がやがや騒がしい。町に来たな、としみじみする。待合室はさすがに広めで、数十人は待てる。窓も大きく感じられ、明るかった。ただ構内同様、古めかしさはほとんどなくて、すっきりした古さで、開業時のことを想った。
それにしても待合室はほんとに寒い。改札も外もドアが開け放しで、待合室内は外気温とまったく同じか、窓越しの日当たりのためさらに寒く感じられる。こういうところで待たされるのは北國の人は信じられなさそうだった。なんぼう南国だといって風は冷たく、せっかくの待合室だからドア閉めてストーブ入れようよ、と。しかし南国の文化的気負いを私はそこに見る。それは逞しさでもあろう。
朝は利用者も目立つのだろう、しかし今は中の人に用事のあるたまに来る人と、ただただ軽トラばかりである
よその者の私が来ると、しばらく静かになった。やがて出ると口々に、なんや、写真か!、なんや。なんやぁ。ほんでな! この前……苦笑した。けれどそういう孤独の旅だった。それゆえ忘却も早い。
印南市街は港の方でここにはない。街も回りたいが、それは別の機会にしよう。どうせ今回だけで紀州を味わい尽くすことなんてできないさ。近くでハウス栽培をやっていて、きれいなので覗くとブロッコリーだった。もうすぐ咲いてしまうんだ。固い蕾をあちこちにお団子のようにつけた菜の花の一糸乱れぬのは、それ自体が一つの街のように見えた。そしてその広がっていく畝も。
駅を出る道端の紀伊路を描いた半間余りの立て札を私はざっと見て黙殺する。駅からの私の旅があるのだと思っていた。