糸崎駅

(いとざき・山陽本線) 2011年5月

 尾道水道がすーっと目の前を流れていく。僕は下車しなかったことを後ろ暗く思った。そこを嫌いな人などどこを探してもいないように思えた。
 おいしいところばかり下車していてはだめだと思って、いつも予定に些末な駅もたくさん入れていた。けれどそうして僕は人生の時間を無駄にしていたのかもしれない。名所だけめぐるという旅を否定していた。けれどなんのことはない、そうした効率化は、旅なんていう趣味はさっさと飽きるに限るという意味だったのだ。人生の時間が余ったら、そういう生活感を探求すれのもいい。
 けれど下車旅には僕には抗えないような魅力があった。理由はわからない。何かに支配されて、動かされているかのようだった。

 しかし夕刻、糸崎に降りると、僕は自然と旅情に包まれ、安堵した。限りないヤードとコンビナートが、山陽に来た実感を持たせてくれる。大ぶりな青屋根の木造舎も…それにしても、重工業てなんだろうな。数々の公害と荒廃をもたらしたのに、今となっては懐かしさくらいしかない。というのも、そこまでは正しかったように思う節が僕にはある。たぶんそれは天然の資源にまだ近い時代だったからで、鉄は錆びるがステンレスは錆びない。一度やり替えられると代り映えのしない、劣化のない世界が出現するが、人の死と老化はなくならない。そのアンヴィバレントな空間が僕を混乱させる。現代では死はたいてい覆い隠されるか、流されていく。人の死から遠くなった。

 金がないといいながら各停に乗って、乗り継ぎ待ちをする。その感覚を捨ててしまうと、ずっと金ばかり追いかけそうで、老いても永らえる身近な歴史の証人を探し求めながら、僕は自分の時間の流れで駅旅をしていた。

3・4番線ホーム

がらんとしてる…
懐かしい旧塗装とともに。
意外と山が近い
こんなとこでぼーっと次の列車を待つのもよい
経費節減で単一色にしやがった
しばらくうみやまの間を縫って尾道へとたどり着きます
かつてはブルトレなんかもいたのだろうか
たいていの列車は糸崎止まりです
岡山支社と広島支社の境界
なんともおおぶりな駅舎!
保線関係の事務所もあります

 糸崎は、鉄道の旅人にとっては思い入れのある駅だ。鉄道ではここが岡山と広島の境になる。そのせいだけではないけど、三原から大門の街は広島色が強すぎないように思え、また二つの文化が入り混じる海の街のようで、僕はたいそう思いを寄せている。
 乗務員がよくホームの端の方まで歩いていって駅舎や運転区に帰っていく光景は、旅をしていても区切りなんだなと思わせるところがある。列車はたいてい糸崎までだ。
 ホームも何もかも広くて古ぼけてはいながらも大きいのに、この人の少なさに首をかしぐのは、山陽新幹線の開通かあまりに昔過ぎたから。今なら並行在来線として手打ちにされた「かつて賑わった大駅」。山陽本線はそうした残酷な処置を受けずに済み、その当時ありうべく発展と成長とともにあって、正しく降格された本線として、美しくその衰微をたたええつづけている。
 僕らには、気づけば山間部を名も知らぬ高規格道が開通しているような飽き飽きする痛ましい「経済成長」には興味がない。そんなだったら仕事なんてむしろしない方がましだなんて思えるほどだ。飽食と狂乱の90年代に僕らが子供のころ抱いた「無駄を排したい」という内なる思潮の形成は、その世代が大人になってからようやく形になりはじめたけれど、それもご覧の通り妨害されつづけているわけだ。

1・2番線ホーム

どっちかというとさっきのホームの方がメインぽい
あそこも鉄道用地だったのかもね
なんだかやっばり夏…
中腹に国道2号のバイパスが走ってます
岩国ってまたえらく遠いな
なんとなし瀬戸内海が感じられる
プログラム終了
糸崎駅に来たなぁと思う
かつての貨物連絡通路のようです
すごい古そうなトイレ
山陽地方…

 高さ5メーターはあるような大ぶりな軒下を歩くと抱きかかえられるような感覚で、まるで自分が子供になったかのようだった。ただ純真に鉄道が好きで旅しにきたような…大人たちは嘘をつかず真面目に重労働に就き、文字通り国を造っている…昭和だから見るからに悪い奴はわんさといるが、そんなときも大人たちは「大人のやり方」で解決してくれる…子供の時分はほんとにわからなかったものだ。夜に大人たちが深刻にひそひそ話をしているのは本当に怖いものだった。昔、大人のふりかけ、なるCMがあったけど、まさにそれそのものである。深刻な雰囲気にたまりかねて、起き上がって出ていくと、すぐにあやすような声で、たいした話じゃない、大丈夫、と言われる…
 僕が大人の世界なるものをようやく理解したのは25くらいになってからだろうか。ああ、なんだそういうことか、と。そして、はっきりと言われなくても相手の持っている答えや考えがわからなくもなくなった。それからは、よくこれまでだましていやがったな、そう思った。

 大きさという点でこの威厳のあるこの駅は、まさに「大人たち」がそれに適った事業をしていたことを如実に物語っているような気がした。嘘をついているものはたいていキラキラしていて、災害とか補助金とかうまいこと理由付けして造ったものさ。
 とりあえず僕は駅員にどうしたのぼく、と言われるような気分で、その軒下を歩いていた。

とにかく九州新幹線の宣伝がすごい
かつての改札口
無人駅扱いのようです
この辺ではしまなみ信金はメジャーなんだろうか
新幹線の切符もネットで買えるとはいえ、なんとなしめんどくさい

 駅の窓口は硬くブラインドが下ろされていた。それでいないのだと思ったが、降りてきた客が窓をどんどん叩いた。すると出入口のドアが開いて、駅員たちが姿を現した。男女みんなで集まってそこで弁当を食べていたところだった。客は切符の処理をしてほしいらしい。ブラインドのすぐ向こうがあんな世界だったなんて知れてなんだか愉快だった。

さっそく濃すぎる風景

 駅を出た瞬間、その圧倒的な雰囲気には呑まれた。それは夢にまで描いたような、理想的な山陽の駅前だった。駅は静かに古びた巨体を横たえ、向うには国道2号がダンプやトレーラーが走行音を轟かす。広場ではしぱしぱ車が出入りする。けれど人の姿はなく、それが工業地帯ぼかった。街の建物はどれも60年代の意匠が濃い。
 「こんなところに来てみたかった…」
 僕はタイムスリップしたんじゃないかと思ったくらいだった。
 駅舎は胸が苦しくなるような剥げかけた青屋根で、瀟洒な柱に支えられながら糸崎駅の文字列を排ガスの中で掲げ続けている。そう…昭和とは力強かった。結局、大和の民族としての興隆期がその時代であったともいえそうだ。体罰も毒物も何でもありだ。バイタリティーだけはある、けれどいっぽうで湿度を少しまとっている…そんな感じだろうか。断っておくけど、僕はそうした傾向を礼賛している訳じゃない。むしろ苦手であるし、忌避さえしている。けれど、僕の生まれがもしそうだとするなら、僕もまた同じような空気の中に図らずもたたずんだわけだ。僕は僕に合った教育や社会的環境の恩恵を受け損ねた、そんな気もする。おかげで内省的なのに、変に自罰的、他罰的になって、なんかアンバランスなのだ。

その1.
駅は防犯性も高いのでATM置き場にはいいのでしょう
かつての駅前通りの面影があります
糸崎駅駅舎その2.
沿道の建物も60年代風のものが散見される
トモテツと記されたバス停

 ドロドロと内燃機関を響かせる山陽道は、広島人的な性格に似つかわしい気がした。もげ落ちそうにさびた旧型の信号機が静脈血のような赤色を自動的に燈すと、ダンプはぷすぷすいってクラッチを外され、停止線を少し過ぎて軽く停車する。こんな駅が乗り換え駅で下車できるだなんて、なかなかよくできているものだと思った。
 ちなみにこの駅に乗り換え時間に降りてどこか近くの店に向かおうとすると、乗り継ぎの人や乗務員と同一の行動になることが珍しくない。一緒に信号待ちして、弁当買って、みたいな…なんせみんなやることといったら限られてるので仕方ない。いずれにせよ、いい思い出になる。

国道2号といえばカーブ
ほんとトラックは多かった
糸崎駅駅舎その3.
その4.
かつてはここが街道だったのだろうか
鉄道関係の倉庫左はかつての運転区?
トトロ感
かつてはバスやタクシーが転回したかもしれない
屋根のないのがつらいところ
外からトイレは利用できなくなってます。以前は違ったのではないかと。
旧小手荷物受取所
なんとなし国道開通前の様子がよみがえります
糸崎駅駅舎その5.
少し歩きましょうか
山陽の夢
その6.
ミハラスーパーよく乗務員が買い物してます先輩方の弁当もまとめて買わされてたり…まぁそんなお使いも入ってしばらくのころは楽しいものです
沿道の建物は国道開通以来変わってないんじゃないか説
その7.

 駅前の旅を終えて、僕は赤光の構内を眺めた。街と無言の対話をすませた気がした。そして僕が山陽を旅して、糸崎というところまでやってきたという事実だけが心に残った―少なくとも、遠い将来そうなる気がした。
 出合いたいと思っていたものと出合えて旅できる…一見、人と出会うよりも簡単そうだけど、これだって実は十分貴重なことなんだということを、僕は知ってる。なぜか? それは…僕が行きたいと思ったときに、その行動を起こした結果だからだ。