岩国駅
(山陽本線・いわくに) 2011年5月
夜の岩国駅へ
廿日市から岩国まで約1時間だった。地元の湖国や例えば岡山からなら気が遠くなるような距離だが、広島もわりあい西に詰めた廿日市からなら、そんなにしんどい距離でもなかった。が、九州島上陸を目指している人にとっては、岩国から下関がまた長いんだな…
そういうわけで、広島の人のようになった気分で列車に乗っていた。列車は古く、座席で茶飲み話でもされているような和気あいあいとした雰囲気だった。広島にはまだこんな情景が残っているのだと感慨深くなった。
岩国の手前で和木という駅が案内してびっくりした。というか、車体が古いせいで走行音がうるさすぎ、なんていっているか聞き取れなかった。最近できた新駅とのことだ。名前がまるで昔からあった駅みたいな感じで、それはそれでよかった。
岩国に近づくにつれて人は少なくなった。いい席を求めて車輛を移動したら、そこでは米国軍人がやりたい放題。両手でつり革につかまって懸垂したり、連れてきた子供もそこらじゅうの席をゴム鞠のように駆けずり回っている。なんか1950年代の懐かしささえ感じるし、もはや岩国という街の郷土らしさですらある。
けれど、こういう光景に直面して、憤りの片鱗すら心に抱くことのない"日本人"は、一人もいないだろう。
どんどん西に向かう窓の外を見ていると、西の方にかすかに群青色が残る程度になってきていた。5月で日は長くなっていて、ずっと薄明るいままなんじゃないかと思えたが、やはり旅行前に予想していた通り、きちんと岩国の手前で落日した。
岩国駅
はじめて岩国に降りた。とんでもなく西の方まで来た感じだった。それは高速バスで九州に行ったときに抱く感慨よりもいっそう強かった。西であることは、西であることを実感しつつ移動することそのものにあるのだ!
改札は込み合い、そこだけが蛍光灯でぼうっとしている。向かっている中、偶然定期券を拾った。有人通路で渡していると、ラッチ越しにしている女子高生のたわいもない談笑が聞こえてきた。もう汽車が出るという。この時間はもう何本もない行先の列車だった。
ひところはいろんな民衆駅で見た気がする
東日本大震災のための自粛と節電で、岩国の街は異様に暗かった。だいぶ西の方まで落ちのびたのだが、ここにも大きな影を落としていた。
これからカラオケにでも行きそうな、たむろしている若人らを避け、いったん大通りまで出る。とりあえず…一見して、岩国が結構大きな街だというのはわかった。とくに不自由はないのではなかろうか。印刷してきた地図を頼りに銭湯を探しはじめる。けれど、照明を切っているものだからとにかく暗く、何もわからなくてイライラした。明かりを前提とした街から明かりを消したら、街以外のほかのすべての、何かである。
岩国の銭湯「岩国温泉」
目印になるローソンを見つけて、ようやく「岩国温泉」が見つかった。岩国駅前には3件も入浴施設があるので、安心してここ岩国で下車したのだった。鉄道旅の人はみんなそう思っているんだろうな思っていた。
夜にどことも知らぬ街に降りて、昔からやってる銭湯に入る…抵抗感はない。なぜなら、今日入らないと不快でたまらないから! 脚も鉄パイプのようになっていて、運動靴に包まれし足蹠も痛くてしょうがない。それで思う存分に体に湯を流して、湯舟には入ったり出たりした。地の人が「どこのもんやぁ」という目線をくれても気にならない。もうそれでころではないのだ…
それにしても、荷物の整理にはなんで頭を使うんだろ。これが本当に手間で疲れる。大量のエネループは鉛の銃弾みたいに重い。それだけ必要なのは、撮って残すを繰り返すから。なぜかって、何日も旅行していると、記憶の風化が早いのだ。昭和のころに精細な旅行記が少ないのは、それができなかったという事情もある。記録に関する概念もだいぶ違う。
謎の飲食店の「ママ」
風呂から上がって、岩国の街の裏通りを歩く。仕事終わりの人がたまに歩いているが、節電で暗いせいで警戒してしまう。この後はまた列車に乗り、岩徳線のとどこかの無人駅で寝る予定なので、食事もここで済ませておかざるをえない。けれど気楽に入れるチェーン店を探す気力がなく、何を思ったか、裏通りのとあるビルに入居しているよくわからない飲食店に入ってしまったのだ! 入る前、もうここでいいやん、どうせチェーン店なんてないって…そうなだめすかす自分がいた。
階段を上り、おもむろに扉を引くと、「ママ」が少し驚いたようなうれしいような顔で「いらっしゃい」と。ぱっと見、ラウンジを飲食店に改装したような雰囲気だった。客は老夫婦が一組だけ。店内はこれまた薄暗い。どこもかしこも暗くてもう目が悪くなりそうである。
老夫婦はホールのテーブル席に着いているが、カウンターにいる「ママ」と談笑している。どうも知り合いらしい。自分は今にも逃げ出しそうなテイで扉の近くに座った。なんとなれば注文前にこっそり出ようかと思ったほどだ。でもそんな臆病な自分を許すことなどできるわけがない。やがてママは注文を取りに来てくれ、カレイのトマトの煮つけを選択。というのもも、それくらいしかハズレのないメニューがなかったのだ。すると、「それ、小鉢をつけて、定食みたいにしてもいい?」と。断りようもない。
しばらくはうれしいことに老夫婦もママも自分を放っておいてくれていたが、爺さんから旅行できたことなどを聞かれて、
「でもさあ、なんでこんなことに来たの? よりによって遠くからきてさあ、こんなまずい店に入って」
みたいな感じで笑われた。そんなこと言っていいのか? と思っていると、
「いや不味いでしょ、もっとほかにうまい店あるもん」と畳みかける。ママは苦笑するばかりだ。
実際、運ばれてきた料理はトマトの酸味が強すぎて旨味も乏しく、味は絶望的だった。小鉢が和食だったので、そういうトマト煮込みを目指したのかもしれないけど。魚も骨ばかりで、食べていくうちになんか残飯のような様相を呈した。
「やっぱ個人店を適当に選んで入るのはだめなんだな」と思い、だいぶ苦しい思いをしつつメインは片づけ、会計した。千円だった。
がっくり肩を落としながら駅へ向かう。これならコンビニのパンを齧っていた方がましだった。まずいものを食うと旅は余計つらくなる。金も失った…けれど、なぜああいう店があるのかわかった。誰も知り合いのいないこの街に赴任したとしよう。さすれば、その地の「ママ」というものが欲しくなるものなのだ。料理を出してくれて、話し相手になってくれるママが。どうせ本当のママだって、家に金を入れろというのだから、だったらもう他人であっても一緒ではないか。スナックというのは、だから存在しているんだなとしみじみ思った。
ちなみに、いまではこれがどこの店なのかまったく特定できない…
岩徳線、最終列車
岩国駅に戻ると、ただただ蛍光管で病人のように白いだけで、人々は散り絶えていた。窓口では構内放送をしたり、たまに訪れる旅客に鋏を入れている。よくあることだけど、放送していると、それを聞いて旅客が来るので、鋏を入れたり、放送したりというふうにてんてこまいになる。
ガラガラやかましい音を立てて待機している最終の岩徳線の車内に入った。また肌寒い夜を無人駅で過ごすのかと思うと少々憂鬱になった。もっとお金があれば、とか思わない。ホテルに泊まったって、夜遅くにインして始発に乗るのじゃ割に合わないんだから。
だからこそ、カプセルホテルやネットカフェなどといったように多様な業態があるわけだ。ただ、今から向かうようなエリアには絶えてないんだけど…
運転士が入ってきて、車内を一瞥する。爺さんや、部活帰りのような格好の子がいる。自営業風の人も見かける。今はほとんどの人が車を持っているし、無理を言えば迎えに来てもらえるかもしれないが、少なくとも、いまこのスジがなくなったら困る人ばかりである。運転士は特にそんなことは考えないかもしれない。自家用車で通勤する人もいるだろうから。まぁ、とにかく、この些細なスジが今の自分には途轍もなく重大なものに思えるわけさ…
いよいよ気動車は粘るようにして岩国駅を離れはじめた。ものすごい轟音だ。こうして岩国駅からは僕という一人の姿が消え去った。けれど、僕はいま、徳山行の気動車に乗っている。死んだわけではない。