石見川越駅
(三江線・いわみかわごえ) 2011年7月

川戸から6時半の始発に乗った。車内にはもう学生たちが乗っている。次はお昼のスジしかないのだ。このあたりの江の川は余り広くない。どちらかといえは狭窄部で、そのせいかあまりよく見えなかった。堆積平野に出て落ちつくと田津、そしてほどなくして石見川越だった。予定を立てているとき、田津から川越なら2.9キロでギリ歩けるなと思っていたが、幸い本数が確保できて、その必要がなかったところだった。
こんな朝に学校も何もないところで降りる人はいない。車内の学生たちも不思議そうに見てくる。気動車からは転げ落ちるように下車したが、なんか山辺の小さな木造駅に降ろされた感じだった。山清水の駅で、日陰だ。けれど谷の空は霧が晴れそうで神々しく明るくて、丹波地方を訪れた時のことをちらっと思い出した。ここでは時間が40分くらいあるけど、朝の時間帯だから、ゆっくりはしていられないだろう。







この駅は苔と木で構成された庭のようで、そこに小さめの駅舎がマッチして、和的な雰囲気を全体に醸していた。けれども意図的なものでなく、粗くて、自然体だ。兼好法師が来栖野を過ぎたところで見た閼伽棚は、こんな雰囲気だったか、なんて思う。あとは新しめの郵便局が見えるくらいで、こじんまりとまとまっている感じがした。きっとかつては郵便の荷物も鉄道で託送したに違いない。







かつては向うにもホームがあったようです



緑青色の庇波板を目に入れながら脇に笹の生えた短い階段を下ると、緑と土の匂いが鼻腔を突いた。児童期の懐かしい匂いだ。駅舎はすすけ、苔が犬走に侵入する。しかしそれが悪いわけではなく、自然体であるだけだ。もちろん、或る時になったら一気に清掃する必要はあろう。しかしむやみにその労力を払う必要もない。ただあるがままにそれは佇み、湿っぽい改札口は開け放しで、僕を迎え入れる。遠くから来た、この駅を目当てに来た珍客にも、飾ることなく、そのままの姿で ―







駅舎の中は狭かったが、出札口がちゃんとあって少し驚く。こんな駅でも有人駅だったとは…もちろん開業時の駅舎が残っているのだから、そうだったのは間違いないんだが…あと、山迫るギリギリのところにもホームがかつてはあったみたいで、引き込み線まであったという。となると、ここは因原~川本間の交換駅だったということになろう。というか戦前の駅は、たいてい交換駅である。そのころは隣の鹿賀も田津駅もなかったから、わりと広域の需要を担っていたのだろう。













改装はされています







病院にありそうな椅子があるのみでした



駅前はほんと手狭で、片側に青田豊かなる街道が遠くまでうねっていた。線形そのものがクラシカルっていうのは、どういうことなんだろう? 線ほど、時代性を宿すものもないのかもしれない。近くの郵便局は集配局みたいで、広めの敷地内駐車場に赤車がぽつんと止まっている。中山間地域の郵便局は、そこで配達までやってしまう、独立性の高い局であることが多々あるようだ。なんかそういうのは頼もしい感じがする。










長閑だなぁ



酒屋さんです

ちょっと歩いたところに駅前商店があり、瓶のコーラやジンジャーエールを自販機で売っているのを発見! マジかぁ~と。こんなん飲みながらこんなしっとりした街道を田んぼ見ながら道を歩くなんて、夏以外の何物でもないだろう。
しかしこのクラシカルな道はここで終わり、そっからは広いいい道になっていた。川越大橋があるが、車一台分の長い変わった橋である。




でも、夏の暑さでたぶん倒れると思う

山方には渡田の集落が奥まっていて、その前に立派な広い踏切があった。そう、一日数本の列車を走らせるのでも、車がほとんど通らなくても、こういうのを維持していかないといけないんだよなぁと思うと、大変だなと。しかしだからこそ偉大だろう。利益が出なければだめだというが、ではなぜそれに邁進しているのに国全体は衰えるのか、と。こういうことがわかってもらえるようになるには、あと何年もかかるだろうなとちらっと思うと、愈々水色に萌える夏空の元で日差しを手で遮った。
駅へ戻ろう。もうあの山清水のしっとりした空気感がなくなりはじめている。蝉は加勢しはじめ、どんな日陰な深谷の集落にまでも浸潤していくようだった。朝7時ごろとあって、たまに人や車も見かける。僕はこの駅前がある時間には忙しくなるのを想像した。ここだってそういうこともあるかもしれない。










汽車の僅か数分前に高校生らが集まってきた。こういう地域の人々は本当に時間を読むのがうまい。列車が姿を現し、山裾の構内のしめやかな空気を截った。待っている人々はそれと意識せずとも自然と心の中で感謝しているように見えた。車内も多くの学生やご老齢の方が乗り合わせている。こんなところをこうして旅できることは、何よりも貴重なことだった。
