石見簗瀬駅

(三江線・いわみやなぜ) 2011年7月

 乙原から三次行へ。こうして川本から浜原の区間をリズムよく乗り降りしていると、この辺は本数多いんじゃないかと錯覚する。うまく始点を取れば、1時間ヘッドでの乗降も可能だ。乙原から梁瀬まで歩くと3.1km, 夏場この距離を歩くことを考えたらやっぱ乗ったほうが断然よかった。お客さんは結構乗っていたが、こんなふうに乗り降りしている人はいなかった。にしても、珍しい駅から乗ると、どうせマニヤだろうと思われるが、それももう慣れてしまった、というか、暑くてそんなこと考えられなかった。
 一駅、梁瀬で降りる。枯淡な木造舎が僕を待ってくれていた。今日川本へ行く途中、この駅を見て、すぐにでも降りたくなった。しかしそんなことをしたら予定が総崩れになる。ちゃんと予定に入っているのか? 慌てて確認した。やっぱりそのとき勢いで降りたら、その後は全然列車もバスもないのだった。ともかく、それくらい人を惹きつける、かわいらしいセットのような、古い駅と町なのだった。
 さっきは飛ばして悪かったなぁ、と思いつつ、梁瀬の空気を味わう。列車はもう遠くへ行ってしまった。乗り鉄はたぶん三次まで一気に乗るのだろう。

浜原方
なんと枯淡な駅舎!
構内踏切
一線スルー化されてるのでただの通路になってます
かつては重要な駅として目されていたのでしょう

 狭い島式ホームに木造舎という組み合わせはローカル線中堅駅の王道みたいなものだが、線路に沿って通路を歩いたりしていると、ほんとこの駅、紀伊浦神と似ているよなと。周りの自然の感じかとか、形式とか、さびれ具合とか。いや ― こんな駅はいくつあったっていいんだ。ちょうど同じ形式で音楽がかつて星の数ほど書かれたように ― 遠くを直視したくても、眩しすぎてできないくらい光は激しく、あたりは蒸しあがっていた。しかしそんなことがいっとき気にならないくらい、この駅が気に入った。いわみやなぜ、と、濁音化するのも個性的でよい。石見でイワ、もあるから、ダブルで凝っている。ちなみに本家の梁瀬駅は山陰本線にある。

濁音注意
漢字が直してある
まるで模型のような…
かわいらしい駅

 両隣りの明塚も乙原も、そして乙原の隣の木路原もホームのみの駅で、かつては粕淵から石見川本までで交換可能な駅はここだけになる。けれど梁瀬は別に市街ではない、なので、小さな村に中堅駅が来たような感じになっていて、愛らしいことこの上ないものなのとなっていた。おまけに貨物側線のエリアはきれいに草生しているが複数線あったみたいで、駅でごじゃいって感じがしている。

川本方
貨物側線跡
この辺は後年の延長でしょう
全通に合わせたのかもしれません
電信柱って感じですね
貨物側線跡には枕木が埋まったままでした
左手は主要道、県道40号です

 けれどこうして上屋から出てホームの端まで歩いていると、蝉の声が赤化した刃のように頬を切りつけてくる。汗はそれを冷やし、太陽に背を向けてやっとはじめて、視界が利く。駅裏は土手で、何かと思いきや地図を見ると県道40号だそうだ。たまにしか車が通らないので主要道があるとは思わなかった。自然に囲まれた駅であるかのようだ。

戦前の造りですね
今は自由に歩けます
90年代に交換設備は撤去されたようです
90年代はあれでもまだ日本は元気な方だった…
そういえこの駅はトタン葺きですね
真っすぐです
もういつ度農村人口が増え、交換駅となることはあるのだろうか
あちらの方で合流していたのでしょう
あそこからも出られるようです

 構内踏切を渡る。もう踏切じゃない。片方の線路ははがされ枕木の跡だけがバラストに波打っていた。それはなんとなしさみしい光景だが、またいつでも復活できる感じもした。今なら何ならここに入って砂利遊びすることも可能だ。子供ならその背の高いホームゆえ、列車の幻影を見るかもしれない。

右手は信号機室ですね
もう信号ないけど
絵になる

 沈痛せる熱い空気のもと、準木造駅舎へと一歩一歩近づいていく。立てかけてある赤い雪用モッコは、なんとなく怖い。なんか無人化後ずっとそこで憩っているかのようだ。ちょっと動かしてみる。蜘蛛の巣が切れ、ガコンと錆びた乾いた音がする。この音をこの子が最後に聞いたのはいつだろうか。
 それでもこの駅は、一応順調にいっぱしの駅としての歴史を歩んできたんだよなぁと。どこの古い駅でも見かける、激しい縫い目のようなコのジブロック。信号ケーブルだ。茶色く乾燥しきった柱は、汽車の煤煙を吸い込んでいるだろう。
 「なんでこんなことになったのか…」 
 電気自動車は、意図的に動力音を流している。煤煙は排除すべきでも、そのときくっついていたそれ以外のさまざまな意匠は、我々が今のように必要ではない存在として扱われなかった時代を想起させるに欠くべからざるものとして、どこか心が求めているところのものがある。

鉄道電話

 駅務室はどこも同じように、出札前の小上がりや抽斗、そして小上がりの宿直室などを備えているが、どれも当時は大工さんが苦労して仕上げた造作物だろう。或いは家具職人、建具職人かもしれない。しかし今となっては虫と埃まみれになって、いらないものとして打ち棄てられていた。
 一般には、んなことどうでもよいのかもしれない。こういうタイプの様々な駅が生きていた時代を見ておきたかったものだが、こうして無人化されているから、こうして自由に見学できるのだろう。これは見事な二律背反だ。
 無人化された方がよくイメージできる、よく見えるとは、どういうことだろう。これが芭蕉の、つわものどもが…的な旅か。

信号操作室
昔はご乗車有難うございましたなんて言わなかったという
やはりが紀伊浦神駅、紀伊田原に似てる
かつての出札口
ええ加減このポスターやめぇ

 苦しくなるくらいに暑い。まさか三江線にもこんな枯淡でスタンダードな駅があったかという思いを抱いてると、多くの人が旅に出はじめる18のとき、それぞれのかつての鉄道の旅人は何を見て、何を想っただろう? と。僕が繋げたいと思うのはそこだが、残念ながら、そういう継承はほとんどされていない。
 もし親を連れてきたら、「まだこんなん残ってるんやな!」と静かにけれども好奇心で目を丸くしたかもしれない、なんて想う。
 親世代は何を見たのだろうか?
 
 永遠に分かり合えないところがあるなぁと。わからないならわからないなりに、そのまま途切れて、継承せずに忘れ去られるのもありだ。上の世代の記憶が、そのときの時代性や粗雑な世代的一般認識で丸められると、継承がしづらい。通底するものはなかっただろうか。

洪水被害にもかかわらず耐えたってこと?
石見簗瀬駅駅舎その1.
石見簗瀬駅駅舎その2.

 駅の間口は瀟洒で、"石見簗瀬駅"の表示は大がかりの樹脂製で厚みがあった。でもその看板はカパッと?嵌めるような感じで、中は空洞っぽかった。指先の肉と爪で叩くとカンカンカンと、やはり空洞の音がする。だってこれを見に来たようなものなのだもの。この付近では珍しくトタン葺きで、経費節減したようにみえた。洪水被害の線がかなり上に表示されてるが、この駅はどうなったのだろうか? それにつけても ― 駅名の表札は駅の命だな、と。その重要性は、小学生のときに付けてたアクリル板の名札みたいなものかもしれない。

なんか郵便局っぽい
石見簗瀬駅駅舎その3.
ヤシが西国であることを表している
駅前商店
石見簗瀬駅駅舎その4.
美的調和
浜原方
石見簗瀬駅駅舎その5.
こいつの運命はどうなるんだろうな
朱や紅が似合う町

 外に出ると、旅の記憶の継承のことなんか忘れた。そんなこと考えてられないくらい暑く、ただ自分という存在がそこにあるだけだった。もともと旅というものはそういうものなのだろう。それくらい人というのは、ふだんから人との様々な関係に絡めとられているものさ。 
 街道はスッと真っすぐ通っていて、あたかも馬車でも走っていきそうだった。1.5車線ぐらいなのも、昔の尺寸法みたいで、そのサイズ感そのものがレトロだ。
 あたりは戦前の建物が見られた。たばこ、の文字が右書きだ。江津から浜原までは1937の開業なので、三江線も実は由緒正しき路線なのである。

昔の街道の面影がよく残っています
川本方
たばこ屋さん
昔の街道はほんとクラシカルできれいだ
ちょっと独特の山容です
手前はかつては果樹畑か桑畑だったのでしょうか
まるで鉄道の路盤みたい
ガソスタがあるので、主要集落です
ガタンゴトン…
珍しくアパートのようなものがありました
植栽がきれい
昔は左手のような建物ばかりだったなぁ
石見簗瀬駅駅舎その6.
平成4年に作られたそうです
浜原方
右手も戦前の建築でしょう
柴木楽してまたこの町もついえます

 街道を浜原方に歩いていくと、まるで蠟燭の灯が消えるみたいに町は緑の中へと消えていった。またこうして次の集落への旅がはじまるわけだ。フワッと紡錘形のように町が膨らんでまた消えていく…こうした繰り返しは、何か一人一人の人生のようでもあった。一度は人が目指す都市というものも、いつでも最強というわけでもない。ここでは脳をハックされなくてよいし、都会の一室で縮こまって最後まで生きていく必要もない。さまざまな町の形態があるから貴重なのであって、いつかしそうしたものも、行政による過大な延命がなくともその命脈を自然と保つときがまた来よう。

石見簗瀬駅駅舎その7.
石見簗瀬駅駅舎その8.

 紅色のトタンの駅舎を最後に観て、駅へと入った。屋根を越えてはるかにのっぽなヤシは何を想うのだろうか。かつては背丈が低かったその子は、何か忘れ去られ、かつ、自分がどういう自分なのかも掴めなくなった成長した息子のようにも見えた。そういえば ― 庭や植栽も含めて建築だという概念は、僕にももうないなと。
 この当時の建築は室内に居ながらにして自然の気候をそのまま受ける。暮らせるように暮らせばよいではないか、そんなふうに思われていたのかもしれない。
 何年経っても劣化しない素材は助かるし、手間のかかる植栽もない方がよいが、時間的概念を取りはぐられた建築は、あんなに新しいのに、未来が見えない。クラシカルであることは、未来への余白を残すための善意だったのかもしれない。

年代物のトイレ
厠って感じですね
360度写真が撮れないので…
外からはトイレ利用できないようになってました
石見簗瀬駅駅舎その9.
昔は寒かったでしょう

 しかしこんなに暑い中、うっすいガラス戸の駅務室を見ると、こんなところに今の人も住めだなんて考える自分は随分と横暴だなぁ、と。でも僕はホームに向かって歩きながら、
 「いやいいんだよ! 雨露凌げるだけでありがたいだろ! 中はモコモコにして住めよ!」
 と頭の中で呟くと、なんか苦笑せざるを得なかった。あまりにアーティスティックだ。それに旅人である僕にとっては、それは当意即妙なわけだ。家に帰ったってまともな部屋もないのだし。

石見簗瀬駅駅舎その10.
よく考えると大きな掲示板です
信号機のあった柱ですね
貨物側線跡
かつては酒瓶なんかも輸送したんでしょうか
降りて遊べます

 夕方になって来て暑さが少しだけ和らぎ、熱が体にこもっているのがわかる。
 一線剝がされたかつてのこの中堅駅を見ていると、もう山陰本線も遠くなさそうに思え、旅の終わる失望がかすかに胸に去来した。