岩代駅
(紀勢本線・いわしろ) 2010年2月
いくらでも海を映す車窓はちらちらと窺った。じっと見つめながら、次で降りるというのはできなかった。車窓にしがみつくのは降りないときだけだと思った。
鉄道で南紀に来たことをどんな人にも教え込みそうなその風景は、まだ南紀の奥深くには来ていないことが窺えるものだった。紀伊半島の奥深く海原に突き出すのは、こんなものでないだ、と、知った風な口を心の中で利く。
岩代です、との女性の放送が流れる。前後は覚えていない。次で降りたらどんなふうに思われるだろうか。ここは趣味や旅行なら降りることはできませんよ、あるいは、切符を見ながら、こいつ海を見に来たな。いずれも気恥ずかしかった。
駅から海は見えず、ほっとする。暖房の利いた車内からは向こうのホームに竹林が見え、しわいろ、との縦の駅名表示が見えていた。
たぶんあの向うに隠れているんだな。
私は実に何げなく装って、運転台まで歩く。周りの者は私が地の人かどうかを判断しようとしている。運転士に了承をもらうが、やはりこんな駅何でもなさそうに降りた。降りたらまた天気がいいのに風がひときわ冷たい。駅舎の腰板の青色で目が覚めるようだった。観念的膝下の遊泳だった。
不似合いに二階建てのコンクリート造りがあり、変電所のようだ。お昼前の外にも点検の車が数台停まっていて、観洋というより保守上は重要な駅かもしれなかった。しかしそういう現実的な要素は、私が旅情に溺れるのを救ってくれる。冷たい光の風をしのぎながら跨線橋に昇ると、松の頭越しに海が仄見え、どよめくようなさざなみが聞こえる。
「ここまで見えるのは上ってもこんなか。」
しかし胸捕まれずにはいられなかった。そこにもうあるんだよ! 飛び出したい気持ちになった。
そうして海側のホームに降り立ってみるとやはりこちらの方が近いとあって、波の音が耳について離れなくなった。灌木が茂り、何も見えないが、よく視ると、踏み跡がうかがえる。なるほど! やはり我慢できない輩がいるんだ! しかし今は草生して、通る気も起きなかった。
こちらのホームにも紀ノ國によくある三面囲いの待合所がある。北國なら必ず戸付き壁付きにするところだ。さすがにこれだけ冬に天気がいいだけはあった。ところで、長椅子は二つあるが、三人掛けにするように脇息がついている。こんなところにあたっては、せせこましさを禁じ得ない表象物だった。
それは駅舎の中にもある。この先の私の旅の夜を想わないではいられない。
青の腰板で鮮やかだが、待合は廃じみていた。もう長いこと無人のようだ。海辺にはよくあることだった。
駅から出てもやはり海の駅という感じはない。温室栽培と梅林が裾野に広がっている。集落はなぜか山手だった。紀勢本線らしくないけど、やはり振り返ってあの白亜の駅舎を見ると、南紀に眼を見開く。
すぐそばに稲荷神社がある。妙な感じはなく、海への願いを想う。海辺だけにか、いろいろなものが鮮やかだった。
しかしあたりはすっかり山の駅という風情なので、ひととき観洋の渇望を忘れるほどだ。
「いや、違うんだ。おれは知ってるんだ。あの踏切を回り込んでみな。絶対あるから。」
自分だけが知っている気がした。だってもし何も知らずホームに降りて駅舎から出たら、海が近いことなど気付かず、行こうとも思わないからだ。私は得意になっていた。
踏切を過ぎて、禁漁の警告を過ぎると、誰一人としていない砂浜というその人が、無生物的に私の視界を抱きかかえた。何とも言えぬ海鳴りをさせながら。それは私の鼓動というより、すべての生命の鼓動で、ひいては私の死後の鼓動だった。
私が抱き込まれるかのよう汀は遠い。そんなに助走の距離を取って迎え込まれるとは思っていなかった。海と久しぶりに向き合うときには、そういった恐ろしさがあるが、やがて、昨夜の出発から12時間後に出会った南紀の海だ、やっとやるべきことの一つ終えた、と思う。歓喜は肩の荷物の重さを感じさせないが、むしろここに来て、どっと荷重くなった。それで砂浜に置いて、汀まで長々と歩く。冬雲は千切れ、洋上に流され、そこだけいまだ夏でありながら、いずこかを夏にしている。濃紺のうねるグラデーションは、それは本物の海で芸術品だった。汀に屈み、手袋を外すと手がちぎれそうなほど寒いが、海水に浸すと温かった。暖流黒潮に触れて、心が縮み切る。手前を雲が遮り、ときに遠くの海面だけがきらめく。そういうところがあったら、何を賭してもあそこに行くのだ、と思うが、それがこの旅そのもののようだった。この地の気候に会いに来たのだ。その人に会いに来た。
岩代川が浜を砂城を削るように海に流れ着いているのを見ると哀しくなった。ここまでは真水なのに、と思うのだ。しかしとどまることなど知らぬかのように、次々と流され、たちまち波に飲み込まれてあっという間に、海水となっていく。嗚呼、再び真水になるには、どれだけの旅をしなければならないだろうか。海は青いが、真水は透明で、私はそれをいたく惜しんだ。
川は合唱のようなものだが、海はもし人が笑うならその顔を映して応じるだけだ。川の真水のように汚れながらも人のためにと心を砕いても、いつしか軽蔑し、怜悧狡猾で、孤高を保ち、ときにとんでもなく横暴で、それでいて美しくって人をひきつけ……我々は川に帰れぬのである。川が荒れ狂っても、その悲しみが海に飛び込む人々の歓声に掻き消えることはなく、合唱で哀歌を歌うこともできるではないか。
再び荷物を持って、こんもりした杜に上がると、祠があった。岩代王子だという。
有間皇子を思い出す。その青春の海原にそっと隠れるよう、ひっそりとあるのは、いたずらに私の腎を掴み血漿を絞り出そうとした。熊野詣の有間皇子は牟婁の湯を称揚したが、それは紀伊半島のすばらしさそのものだろう。皇子は二十を前にして処刑されてしまった。
白波の立ち来る浜の盤代のとこよにもがな皇子の御跡我が旅の跡
私の旅の跡だって残ればと思った。多くの人のそれが残らないからこそ、伝説があり、その足跡を代替物とするのであろう。しかし鉄道だって、これは百年来の道だ。遊子も立ち寄る駅や近辺は社や宿坊に思えるのだった。
むろんこんなものは私の遊びで感傷だ。誰もそんなことは思いやしない。しかし九十九王子の批定があるのなら、廃された道の復興もあろう。現今の道ですら思惟の蓄積がないなら、まずはそこだと思うのだった。救い出さねばならない。過去の細々としたあるい大味な虚漠の歴史があったなら、今現在に潰えそうなそれがあるわけで、よく鉄道旅といわれるが、それはまさにその一例だろう。
皇子は、たったいま海に流れ着かんとする川のような存在ではないかしら。そこに残ってほしいという思いはない。川であるうちに海を見なば、いかでか楽しからん。
帰りに踏切を通ると、特急くろしおがゆっくり通過していく。多くの人の夏の思い出だ。駅前に戻ると陽射しに山の春を感じる。南部は梅が特産だ。
もう見回りの車もない。仕事だから別のところへ行ったんだろう。駅は日陰で、そのずっと背後にはまだ風の強い浜が控えている。座面の冷たさが気かがりながら、青の腰板の、埃っぽい待合室に腰かけた。動かなくなったら寒くて、脚をさすった。飲み物を買おうと思うが、次は南部か。南部は街だよな。孤独の私には、ちょうどよさそうだった。