河佐駅
(福塩線・かわさ) 2011年5月
下川辺から山を縫って、縮尺五百米の地図上で指先ほどの内陸盆地にたどり着く。気動車はしばしの安息を見出したかのように、あるいは、ここなら停車してもいいでしょ、それだけの十分な理由があるでしょ、とでも言いたげに駅名を告げながら速力を落とす。もっと先のことを言えば、こんな風にして僕はン部府のヘちわ見出して、それをつないでいくんだ、とでも言っているかのようだった。
そう、暗い山影を切り抜けたここは、ぱあっと明るく、くっきりした朝日に彩られた、夏の三峡だったのだった。遠くはブロッケン現象で中国山地の割には鋭鋒の山影が何か神々しかった。緑の水田が眩しかった。
エア音ともに開いた折戸からホームに降り立つ。どんな思いで、人々はこれまでこのホームに降り立ってきただろうか? 外は空気がまだ冷涼で、これから昇温していくその落差の想像で、僕はすでに頭と体が疲れた。どんな建材でも、日較差には悩まされ、劣化していくのだ。そう考えると、体というのはほんとによく調整していくれていると思う。そうした調整を味わうのが、生きているという実感の一つなのだとも思う。
僕はまだどんな日較差にも耐えられそうな気がしているけど、それは四割方、旅に対する凄まじい意欲に支えられていることが多いのだろう。
かつて可部線の末端区間に遭ったよなモルタル塗りの駅舎には"河佐峡"と書かれていて、広島の山間部に来たなぁと。老年期山地の内部には人々は概して点在して住み、川と自然の織り成す恵みと、ときとして暴力を受け取る。東北にはその典型的な田舎があるように、中国にもその典型的な相貌があり、ここは、間違いなくそのうちの一つだろう。
いくら蒐集しても飽きないような駅と集落が、今、僕の眼前にある。僕はこれらを一つ一つ慎重にコレクションし、心の中に長きにわたって沈殿させるつもりだ。
さて実は河佐駅は"大きい"。かつての鉄道用地も広く、側線も複数あったようだ。貨物側線も付随している。かつては中継地点として重要だったのだろう。
信号中継室、トイレ、駅舎
これからは一億総農作時代が来るかもしれない
駅舎の中に入ると、軽い黴臭が鼻腔をくすぐる。埃かもしれない。中は広々とした方形だが、出札口などの駅務部がまったくなかった。そして柿渋色の塗料で塗りたくられた桟椅子長く回しつけられ、豪気だった。日差しを避けるにはいいが、まだそんな時間でも、人生でもない。
ちなみに当サイトでは小生という一人称は用いません…
駅庭の立派な河佐駅は駅舎横の樹木がなくてはならないもののようにアイテム化していて、河佐駅といえば"これ"だった。周囲は中国山地深くの山々と延々と続く水田で頭痛を催すくらい典型的ないなかだったけど、駅前商店や自販機もあり、重要な村だったことが窺われた。
一山超えてきたところなので…
ナニコレ珍百景に応募してもいいかも
駅前にはためく幟に、ため息が出た。車はたまに軽トラが忙し気にぶっ飛ばすくらいだ。それまでは完全に、静の世界。ただプラットホームにいることだけが、僕の癒しになった。いろんな駅を見たいというのは、それだけ自分を恃んでいるということなのだろう。けれど中国山地を故郷とする人には、帰りつくところとして、無上の癒しとなるところなのだろう。
朝の一刹那に降り立った河佐駅を僕は後にした。なんて贅沢なんだと思う。僕にはどこかで根を下ろしてまっとうに生活する意思なんて無に等しいのだきっと。数多くの学生や乗客たちの最後に、僕は乗る。座ることもない。どうせすぐ近くの駅で降りるのだから…
鉄道に乗って、いろんな集落を見下ろす。気動車のエンジン音にはらわたを揺すられ、車体は森の梢をさわり、人々は広島の嫋やかな言葉でおしゃべりする。欲の強い自己表現の見えないそこはでは、何か自分が大きな業を背負っているかのようだった。