川棚温泉駅

(山陰本線・かわたなおんせん) 2010年7月

豊浦コミュニティ情報プラザという名前が付されていた。
駅舎内にて。観光案内?
鉄道に乗るにはこの通路を進みます。
すばらしい長椅子。
駅から出て。
明るい町とは程遠い。
こちらで買い物。
こういう通路は落ち着く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 蚊がしつこくまとわりつき、背中に蓄熱された炎を抱えながら、僕は小串という電気の灯った小駅の片隅でちょうど遠足のとき隅の方で独りでそうしている子がいるように、静かに弁当を空け終えた。なおもつづくこの暑さとこの塩っ気さえなくなればどれだけ快適だろう? けれど今は冷たい物を飲んで弁当を空けることしかできない。異常なほど不快な旅を僕はしていた。

 小串は海の近い乗り換え駅のはずだが、南の島のような日の落ち方をした夜になると誰もいなくなった。そもそもここから角島と油谷といった鄙びた方に行くような人はほとんどいない。
 ここから一歩南へ下れば、そこはもう下関郊外だ。風景は関係ない。時刻表がそういっている。

 僕はちょっとでも終着、下関に着いてしまうのを遅らせるべく、一つだけ駅を戻ってそこで泊まることにした。ずっと遅らせて、逃げている気もする。しかし心を調えているともいえる。

 逆向きの列車に乗っていると、神にそむいたような気分だった。けれど本当は逆行も順行もないというのがしかるべき世界なのではないか? というかその世界の住人のくせに、どうしてこんな疑問を投げかけるのだろう。
 間違ってて逆向き乗ると、我々は「逆だ!」と大慌てする。中には非常ボタンを押して新幹線から降りようとした人もいるくらいだ。そこにはあり得ない時の進み方が現れたときに我々が示すであろう拒絶がはっきりと表れている気がする。だから我々は時間そのものなんて一度も見たこととがない。

 僕のこの今の逆が、もっと無意識的なものであればいのにと思った。そう考えれば、生きやすくなるはずだ。終着が近くなり過ぎていた。

 川棚温泉駅はその名の通り、土蔵ふうの新しい建物だった。真っ暗の中、タクシーが待機している。直感的に、自分にぴったりな施設がすぐ近くにあるような感じがした。けれどどれだけあたりを探してもそんなものはなかった。温泉はかなり遠く、ちゃんとした旅館である。
 僕は荷物を抱えてうろうろしながら、
 「おかしいな。なぜなんだ。この風景の中のどれか一つの家が、自分を歓迎してくれてもいいんじゃないか? どこか、ごめんくださーい、といって、すっと入ってみようか」 という安倍公房的世界を直に体験した。
 あるいはあの空調の利いたタクシーの車内が自分の部屋ということもあり得る。僕はじっとリヤガラスを見つめてた。そうすると本当にそうなるような気がした。運転手が珍しくたじろいだ。強盗と思われたかもしれない。

 結局自分の家はなかった。
 自分はやはり旅をちゃんと終え、そして都市に吸い込まれ、その中で、海の藻屑として消えていくしかないのかもしれない。
 
 現実の風景と現実は違っていることが多い。しかしそれもあの時間の話のように、僕の脳が誤作動を繰り返しているだけなのかもしれない。ただその誤作動が、僕はほかの人と同期していないだけだ。何という自己弁護なんだろう…

 とりあえず近くにドラッグストアがあったのでそこで安い飲み物と塩気のせんべいを手にした。旅人はこういう乾き物しかない店は敬遠気味だ。
 駅の建物の表口は自動ドアで、中のJAはもう蛇腹のシャッターが引き伸ばされていた。僕は遠慮して券売機の横の申し訳程度に椅子を選んだ。
 ホームへの出入り口はぽっかり開いている。
 なんとなし僕は疑いはじめた。
 「まさかこの駅、全部の出入口が閉まるんじゃないだろうな」
 「でもJAはちゃんとシャッター下ろして支度してるやん。隙間だらけの蛇腹のやつだけど」

 旅行9日目あって疲れ果ていた。僕は考えるのをやめにして、せんべいをバリボリ食いながら終電を見送ると、シュラフを室内の長椅子に敷いた。
 化繊シュラフが暑く、狭いホームへの間口から入り込んでくる涼風を頼りにシュラフをはだけて脚を出した。ホームのある構内は古いままで、向かいには使われていない石垣のホームが闇夜に浮かんでいた。
 当然蚊に食われまくったが、やがて僕は砂時計の砂が落ちるように眠った。まるで自分の体が暗闇に吸い込まれて、消えてなくなってしまうかのように。
 
 僕はこわくなって、消えまい消えまいとしていた。けれども眠りたくもあった。
 横になって1時間以上もしてからだろうか。「カードを入れないでください」という放送が響きはじめた。僕は夢の中で、カード? そんなもん誰が入れるんだ? 僕は入れてないぞ! と苛立った。カードってなんぞや? 職員用のIDカードだろか?
 シャッターし下りていない。
 僕は、うるさい奴だな、と思いながら過ごしていると、音声が響いているのとはまったく反対、ホーム側の間口にゆっくりとシャッターが下りていて、もう半ばまで来ているのに気が付いた。
 出ようかとも思うが体が動かない。下手に挟まれたら一大事でもある。
 そうこうしているうちに、僕は完全に閉じ込められた。電気も非常灯だけだ。天井でセンサーが張っているのがわかる。
 
 とりあえず僕は大人しく寝ようと思った。どうせ朝になったら開くわけだ。
 けれど急速に室温は上がっていった。鞄の中から手探りでペットボトルを出す。
 不安の昂じた僕は、どこからか出られないか、と、匍匐前進のようにして進み、表口の自動ドアまで近づいた、そのとき、
 「カードを入れないでください」
 どうもここに近づいたら自動的にこのメッセージが鳴るようだ。相変わらず意味は分からないけど。
 「別に入れてないんだけどな」と、僕が床にしゃがみながらつぶやくと、
 次のような返答があった。
 「あなたがカードを入れること自体、拒否しているんです」
 僕は体がカチコチに固まった。恐ろしい勢いで理性が走った。遠隔システムで誰かが向こうにいるんだろうか? 最近は駅の改札をこれでやることも多いし、珍しいものではない。でもだとしたらすぐにでもこんな状況の僕を解放するはずだ。
 しばらく口を固く閉ざし、横目で鋭く睨みつけながら僕は、
 「カードってなんですかね。」
 湿度と暑さの稠密ないっとき。室内は、最新の分厚い自動ドアガラスとシャッターに遮られて、外の音は全く聞こえなかった。
 返答はなかった。けれどだいぶ経ってから、こんな不気味な音声が響いた。
 「あなたがどこへでも行けるカードです」
 僕はセンサーを足で思い切り蹴って割って潰して唾を吐きかけてやる、そうしようかと思った。
 「カードってなんだ? 何のつもりなんだ!」
 だいぶ経ってから、
 「カードとは、あなたが自由にどこへでも行け、なんにでもなれるカードです」
 あれ、これはもしかしてどこかの銀行の自動営業か何かかなと思った。デビットカードとか、なんかこんなセールストークで持たせようとしそうだった。たぶんAIなんだろうと思い当たると、急に僕は穏やかになれて、
 「そんなカードはないよ。」
 「あります。あなたの手元に。」
 「じゃあなんで閉じ込めるんだよ」
 「カードを入れないでくださいといったでしょう」
 「おれが駅で休んで何か悪いんだよ」
 センサーが悲しそうな顔をした。
 「わかっててここに入りましたよね。まともな人になろう、まともな都市に入ろう、その前にちょっと台本をやってみようと思って、こんなことをしたんですよね。しかし言っておきますが、もうあなたのカードはもうカードのていを成していません。あなたが手放したくなくて、自分の体の細胞一つ一つに分解して保存してしまったのだから…」
 「いいやそれは違う。おれは何も知らなかった。まさかシャッターが閉まるとは思いもしなかった。こんな駅はほとんどない!」
 「とぼければとぼけるほど、カードは手元に帰って来ません。多くの人はそのカードを意識して持っています。残酷なことですが、あなたは物質的欲求を埋めることでは決して満たされることのない人です。人はパンだけに拠らず、というあれです。あなたはうっかり近代化し損なわれた、忘れ去られた存在なんです。貨幣経済も契約社会も、あなたは何も信じていません。それどころか、毀そうとさえしているじゃないありませんか。壊れもしない、人類の知性が築き上げたシステムなのに…」
 僕は我を忘れたように、
 「ばかいうな、じゃあ、おれにどうしろいうんだ! おれが駅で寝ることとそのこととどう繋がるんだ!」
 自分の人生がとうに終わっているようなことを言われ怒り狂って立ち上がったその瞬間、あっ、と思って気付いた、すると細かい破片が一気に集まってカードが形を現し、黒い磁気ラインが浮かび上がるが見えた気がした。この現象を認めさえすれば、カードが掴めるのだ! けれどそうしようとしたときには、もう、ありとあらゆるセンサーが反応して花火大会みたいになり、僕は一人そのネオンのただ中に佇立していた。カードはもう影も形もなくなっていた。けれど何の音も鳴らなかった。ただ静かに静かに、種々多様なセンサーが光回っていた。

 僕は緑や赤の光線の中、呼吸を荒げつつあたりを見回して、まるでそこらじゅうが剣山にでもなっているみたいにして恐る恐るしゃがんで、
 「落ち着け、落ち着けよ! おれが何したっていう? 殴りも壊しもしてないじゃないか。どうせおれにはそんなことなんてできやしないんだ。そんなことできる奴ほど意外にカ―ドを現物化して持っているんだ。おれはただ駅で寝てただけじゃないか」
 どう考えても安牌だった。他者からはそう見えるはずだった。「そう見える」。その証拠にシュラフも持っている。

 五分後、バイクが到着した。僕はしょんぼりして椅子に掛けていた。
 意外なことに警備員はまっ先にJAの事務室の方に入って明かりをつけ、金庫が開けられていないか確認し、錠が壊されていないかすべてチェックし、それからキーボックスを確認し、あらゆるところを点検し終えた後、やっとこちら、旅客側のエリアに入ってきた。彼はもう六十前後で、体格のある人だった。
 
 「すいません寝ていまして…」
 とシュラフをひらひらさせた。
 警備員はまったく怒りもせず、
 「そんなことだろうと思ったよ。」
 よく考えればそうだった。もしかしたら強盗かも知れない、そう思いながら彼は飛んできたわけだ。もしそうなら、命を盗られるかもしれないのだ。けれど案の定、若い旅人が寝ていてウッカリ閉じ込められていた、という案件で、被害は何一つとしてなかった、これほど泣いて喜ばしいことがほかにあるだろうか?

 「いまからいちおうこういう事情でって報告するから。それで向こうから折り返し連絡がきて警報の解除ができるまで5分か10分くらいかかるから。」
 無線での連絡が終わった。
 「すみませんでした」
 彼は、
 「いや、いい、いい」
 と手を振って、僕の横に腰を下ろした。それから、
 「こういうのがほとんどなんだよ。駅の中でうっかり寝ちゃって閉じ込められたっていう」
 「そうなんですか」
 本当にそうらしかった。僕もある意味ではうっかりしていた。
 「まさか閉まるとは思ってませんでした。表口の方はまだしも、ホームの方まで…寝てたとき、カードを入れないでくださいっていうメッセージがずっと流れてました。けれどまったく意味が分からず…」
 警備員は首を縦に振りながら、
 「とにかくそんなメッセージが流れたら閉まるんだよ。でも君もそういうカード持ってないでしょ。ほとんどの人は持ってはするけど、だいぶ早いうちに使えなくなっちゃうんだ。なんていうか、そのカードがあったことだけは覚えているし、手元にもあるけど、もう使えないっていう。有効期限の切れたクレジットカードで、記念に取ってあるようなものかな。」
 「僕はその音声とやり取りしましたよ! ひどいことを言われました。近代人じゃないとかなんとか…」
 「それは寝ぼけてたんだよ!」
 警備員は軽蔑するように顎をしゃくって、僕を嗤った。だったらなんでカードの説明をするんだと思った。
 けれど僕も寝ほけてたのかなと思った。あんなことがあっただなんて認めるわけにはいかない。けれど言われたことはうすぼんやりと心に刺さっている。
 もう面倒なので話を切り替えた。
 「僕はずっとこんな旅を京都からしていまして。下関で終わりなんです。いや、門司港かな?」
 彼は別に関心も驚きもしなかった。たぶん同じことをしている人はいるのだろう。話を変えよう。
 「警備員の人って、警察から出向した人が多いって聞きますけど、本当なんですか。」
 「確かにそういう人もいるけれど、おれは違うんだ。この近くに住んでて、こういう仕事をつづけてる。」
 「君はどこだっけ。あ、大津か、そこにね、君と同い年の倅がいるよ。今はそこで勤めてる。」
 そういって彼は問い詰めるように僕を見つめた。
 僕はだから何だとも思った。人生はいろいろなはずだ。そうに違いないないはずだ。けれどさっきのカードの一件からしても、どうもそういうわけでもないらしい。別に労働を知らないわけではない。はっきりいうけど、人類はそのたいていがピラミッドを造った太古の昔から労働というものが大好きなのだ。そうでなくていったいどうして今のような世があろうか。僕はただ延々と奉職するというのはイメージできたことがなかった。イメージできないことは、たいがいできない。協働ということからも程遠かった。そもそもドラマツルギーという概念が僕にはないのかもしれない。それは近代の裏方の権化みたいなものだ。人が複数の人格を使い分けるといったような……それは薄気味悪い浅薄な欺瞞であるいっぽう、「その人がその人でない」というまさにそのことによって、他者は金銭を喜んで払うようなのであった。もしかしたらその人そのものには、何の価値もないのかもしれない。何の価値もない!…その砂漠を乗り越える方法はほかにあるのか?

 警備員の無線に連絡が入った。これですべては終わりだ。たぶんそういうこととして了解しましたとか何とかいって、セキュリティを元に戻すのだろう。
 「もうこっちは開けとくから」
 そういって彼はホームのシャッターを開け放し、足早に僕の元を去ってバイクを走らせた。

 まだ彼がどこかにいるんじゃないかとも思えて仕方なかった。自分のためだけに今開かれているシャッター。向かいの古いホームの、城郭のような石積みが浮かび上がっている。きっと昔はもっといかめしい建物が立っていたのだろう。そう、旅人を引き付ける、今にも崩れそうな…
 
 シャッターは開いているけど、この時間にこうして開いていること自体、閉ざされていることと同義だった。眠られるわけもなかった。それでも、シャッターは再びこうして開いたわけだ! 僕は一生閉ざれるところだった。そして警備員はしょっぱいセンサーを黙らせてくれた。
 開いているのか開いていないのかわからないこの間口は、何か消せない過去を語っているようでもある。夜の帳がなおのことこの出来事を汚辱たらしめた。

 やがて薄縹に夜は開け、シャッターの開く時間と一致すると僕は完全に開放された。すべては元に戻ったのだ! この世は元に戻らないことが多い。だからこれはその中でも希少なことだ。パラレルな人生が収斂されたのだ!
 僕は再び一般人になった。夏の朝の冷たい空気の気持ちよいこと! 裏手は田んぼが広がっていた。

 この最新の駅は自己というものをうまく現代に摺り寄よせて生きている。たしかにこうした方が温泉に入りに来た客が列車を待っているときも快適だし、JAもきれいになるし、トイレも新しくなる。何が問題なんだろう?

 人々は一軒家を買いローンを組み、毎日働く。何が問題なのか。すべてがうまくいってるじゃないか! 借金が怖い? 死ぬまでの間、快適な家に住みたいと願って、何が悪い?
 けれどこの考え方は、私の想定する或る私という存在を吸収してはいない。このやり方では吸収できないものがあるんだ。そうできないものはその辺で死んでもいいかもしれない。別に私はそれでもまったくかまわない。それの何が問題なのか? 僕はほかの人が落穂拾いがまだできるかどうか、どこでそれができるのか、それを、こうして一つ一つ確認して回っているだけなんだ。

 僕は下関の方を眺めた。確かにすべてはいったん元に戻り、僕は永久に閉じ込められるところから脱出することとができた。けれどカードは粉々になって、僕の細胞一つ一つに吸収されてしまっている。僕はそのカードをなくしたくないがあまり、そうしてしまったのだ。ただ一つだけほかの人と共通しているのは、そのカードとやらを大事に持っているということだけである。その思いだけを胸しまって…そして…
 
 (終)