紀伊佐野駅
(紀勢本線・きいさの) 2010年2月
宇久井から乗った列車はもう立ち客はおらず、すっかり午前の自由な時間を運んでいた。それは陽光と車内の暖房、そして客層から明らかだった。それで新宮までの途中で降りるのはもうやめようかと思ったが、予定なので、と佐野というところで強引に降りた。風景が和歌山線かと思うほどだったので、たいそうびっくりした。空気の冷たさも少しだけましになって、のどかなことこの上なかったから、やっぱりこのいい時間にそのまま新宮まで行けばよかったか、と、ちょっと苦りきった。新宮とは全く違うが、風景からすると、どうもこの駅から新宮圏という感じがする。それもそのはずで、ここからはもう勝浦のような磯はしばらく現れないのだった。そしてこれだけの平野と、優しくも鋭い山が遠方に見られえるようになるのは、この旅の終わりの合図だった。細いホーム一本が線路に挟まれていて、特急も南紀とくろしおが通過するからけっこうおもしろい、そんな特異に小さな駅だった。
駅も名も優しく、こじんまりと平屋の駅舎が佇んでいる。乗り場から見れば、広い犬走りが荒れて、割れていた。無筋だろう。両手広げたような踏切はその幅、私はそのまま駅舎の中へ運ばれていく。山だから海をとなのかその色にぼんやり塗られていたその中は、仄暗く、小暗い。風はそのまま通り抜け、さっきの広々とした雄大な里山を背景にして、薄を揺らしている。駅を出て足が一瞬えっと止まる。野の中のような道が横付けにかよってきているだけだ。喧騒というものは何一つない。ただ佐野タクシーが排気を燻らせ、客待ちをしている。紀勢線にもこんな駅があるって多様だなと心を奪われた。なんというか構内と駅前が別世界で、野の中に迷いこんだかのようなのだ。
駅舎は道に沿うようにちょうど横長で、しんみりとセメント瓦を戴いている。ツバキやレモンがあたりに植えられ、ここではかわいらしさの代名詞になっているかのようだった。
紀勢線を旅の途中で、海ばかりでない、こういう駅にも降りられて、余計に旅らしくなった感じだった。派手な海沿いの駅が多いだけに。新宮に憧れる人はいても、紀伊佐野に降りんとする人はいまい。青年は広く知られぬものも有名なものも、見知らぬという観点で以って平等に考える良点があるというものさ。穏やかで心惹かれる野の木こりの番屋のような駅に思った。
新宮行きは十数分後にやって来た。