紀伊田辺駅
(紀勢本線・きいたなべ) 2010年2月
コートダジュールの南部に降りたころは暖かったが、いくら南紀とはいえ、夕方にもなると真冬だった。そういう中、ホームの花壇に花のあるのはさすが街の駅だと思わせるところがあった。まだなんとかお昼の雰囲気は残っている。南紀の日ながのせいかもしれない。
始発に乗ったのは道成寺だ。それから小さな駅一つずつ降りてここに来ると、ほんとに大きな駅だと思わされた。今日一日とても大きな旅をした気分だった。昔はそんな感じで、小さなことにも感動の係数は高かったのだろう。
陸橋に上がるとしんとして、少し和風の廊下のようだった。
ようこそ紀伊田辺へ、といわれると、ほんとうに感慨深い。
決まり文句だが、改めて呼びかけると、また意味が変わってくる。
そういう身近な旅における心の動きが街の風景を作っていった、というのが、さきの時代なのかもしれない。
しかしここは南紀。今もなお巨大な辺境の半島ゆえ、なくてはならない経済と文化の中心地であるのが、この紀伊田辺なのだった。それで街も昔のままのやり方が続いているような一景が見られた。もちろん鉄道のダイヤや保線の要衝でもある。
特急が入って来るときは一番線も人がたわわで助役もせわしげなのは汽車時代だと思った。逆に行ってしまえば、こんな静かな感じで、改札の向うこうにさえ人影は乏しく、みんなは待合室でみかん食ったり、キヨスクで買いものしている。
改札から離れた一番線ホームの端に、中が細やかに飾り付けられた待合室がしつらえられていて驚くた。こんないいところがあるのかと。暖房がすごく利いていたのだ。それほどに一日中外にいた私の体は冷え切っていたのだった。
周参見行きが止まっている。嫉妬することはない。どうせ数日後に三重まで抜けるのだから。
改札から離れた一番線ホームの端に、中が細やかに飾り付けられた待合室がしつらえられていてびっくりした。こんないいところがあるのかと。暖房がすごく利いていたのだ。それほどに一日中外にいた私の体は冷え切っていた。
周参見行きが止まっている。嫉妬することもない。どうせ数日後に三重まで抜けるんだから。
「これはまだコンビニも携帯もなかったころの街だな。」
ホテル入口に数えるも面倒なくらいの自販機が並んでいたのだった。
歩けば歩くほど、これこそが遺産なんじゃないかと思う。懐かしいというより、少し怖いほどだった。
自然と昔のことを思い出す。おもちゃ屋は何でもあるわけでなく、その中から選んだり、柄杓ひとつでも金物屋にいかないとない。しかしそれはそれで楽だったのだろう。どこが安いか探し回ることもないし、何百種から好みのものを探す時代になるとISDNの営業で来た怪しい香具師が言っていたけど、それは大変やなと思った。今捌く情報の量はそのころと桁違いだが、そうしない人もいるように、必ずしもそうでなければうまくやっていけないともいえない。
かつては大阪はおろか和歌山にも出にくく、ここが都会としての求心力をいっそう持っていたのだろう。小さ小路にも商店街が展開していた。これから続く旅ではそういう諸都市に出遭うことになる。
夕方になっていて、駅前に立つ人はなくならない。女子高生が自転車で駅前に乗り付け、タクシーもよく出ていく。駅舎は市街の誇り高くも朱の三角屋根を戴いて、足回りには梅や葉牡丹でおしゃれしている。台風の通過時、夜更けによく人っ子一人いないこの駅が映し出され、特急の運休などを伝え、深刻さをアピールするので、全国的にすっかり有名な駅である。そのせいか私も紀伊半島にいたときは紀伊田辺まで出れば何とかなると思っている節もある。
今は温暖を売りにした静かな冬の季節を送っている。
旅行者はまったく見なかった。背中は冷え切り、手は冷たく動かず、垢じみた襟巻に硬くした首をうずめる。出張者はよく見かけ、黒いコート纏って、腕時計ばかり見ている。会社側の迎えがあるようだ。
駅舎内では、客が鞄の中を整理したり、本を読みながら西行き、東行き、とりわけ優等を待ち侘びていた。併設の喫茶店から不意に姿を現す人もいる。駅員は常時立ち、入るものには厳格に改札し、特急到着時は二人でラッチに詰めて捌く。この僻地の半島ではずっとこんなことが続けられていたのかと思う。
私は、それは私においても、それでいいんだと思わされるところがあった。
私という僻地に訪れる人もいなくとも、そのやり方で続けていくことは、悪いことではないし、またそうしてやっていくことが不可能でもない。結局どんな時代に変わっても、紀伊田辺のような要素が人々において必要とされるのではないかと思われたのだった。