北豊津駅
(函館本線・きたとよつ) 2010年9月
朝の爽やかな空気の中、北豊津に降り立つが、まだ9月中旬のため、日差しは強かった。困ってしまうくらい何もないとこで、ただ一大草原に緑の薄がなびいているありさまだった。思いっきり声を出そうとも、ヴァイオリンやグランド・ピアノをしなやかに力強く弾こうとも、誰も何も感知できないくらいに、ただ私は独りというところだった。あらゆる音が鳴りそうな気がする。それはただただ悲しい音の群れである。
その自由の代わり、苦しみ出しても、死んでも、誰も何も、気づかない。ここには人類の歴史そのものが詰まっているような気がした。
哀しい思いを胸にその真ん中を突っ切る未舗装の道を歩く。人とのつながりすらそんなに密でない感じがする。家族でさえも散り散りになりそうな…。だいたい一家離散なんてここじゃそんな珍しい話じゃないじゃないか。この道を迎えに来てくれる車あるのは感謝というより、来ないなら来ないでただ一人放っておかれる、来ないんだ、で片付ける、悲しいという感触が、ただ風のように流れ去ってしまう。そんな感じが漂っている。
逆に家庭を持ち子ができて、送り迎えをする、それもまたあくまで人生の一刹那といったような…。
自己を守ることや自己中心な思いからではなく、芯から孤独を感じていれば無意識に人と繋がることもできよう、しかし、その孤独を愛してしまってはどうにもならない。自分で自分を抱きしめて死ぬしかない。
迎えがないときに、ネットだけで知り合った人の車にふいと乗ってしまう。そんなことができればと思う。無事帰ってこられればそれはそれでいい…。
北海道といえば道北や道東だけど、この森―長万部の雄渾極む噴火湾沿いの風景も指折りだ。哀しさ、寂しさの点で。何とも言えない旅路を彷彿とするし、これが北海道の感情の根っこという気がする。
文化を据えたい歌碑を建てたいとすら思わない。何もかもが風のように去っていく。私もそんな風に消え去ってしまいたいと願っている。
消えてなくなれ! なにもかも! 大勢の人々がそうであったように! 残るのは一本の犬釘、焼杉板そしてもの悲しい青空と薄原で十分だ。