北豊津駅

(函館本線・きたとよつ) 2010年9月

森・函館方。
 
長万部―森間には確かにこんな車窓風景がよくある。
 
どうもあの先が駅前になるらしい。
防風柵の設置された駅構内。
 
 
 
間知石積みのホーム。
路盤はきれいに整えられている。高速列車も通過するので…。
こんなところに置いていかれたらどうしようもない。
 
雑草もきれいに見える北海道。
こんなところを晴れの日に疾走するのは快感だろう。
長万部方面ホームから見た駅前。
信号所らしくホームは短い。
 
 
 
 
 
 
 
北豊津駅駅舎。
枕木で覆われた階段。
その2.
3.
 
 
 
 
砂鉄で繁栄したそうだ。
 
保線時の休憩所として利用されている。
 
4.
さあ駅からの旅を始めるか。
 
期待に胸高鳴った。
小転回場にて。
 
 
 
 
 
 
 
 
結構遠かった。
 
三等水準点だそう。
 
 
この時点でパーキングとして機能しそう。
駅の方を眺めて。
 
絶対見落とすでしょうね。
 
駅へ。
 
5.
 
 
 

 朝の爽やかな空気の中、北豊津に降り立つが、まだ9月中旬のため、日差しは強かった。困ってしまうくらい何もないとこで、ただ一大草原に緑の薄がなびいているありさまだった。思いっきり声を出そうとも、ヴァイオリンやグランド・ピアノをしなやかに力強く弾こうとも、誰も何も感知できないくらいに、ただ私は独りというところだった。あらゆる音が鳴りそうな気がする。それはただただ悲しい音の群れである。
 その自由の代わり、苦しみ出しても、死んでも、誰も何も、気づかない。ここには人類の歴史そのものが詰まっているような気がした。
 哀しい思いを胸にその真ん中を突っ切る未舗装の道を歩く。人とのつながりすらそんなに密でない感じがする。家族でさえも散り散りになりそうな…。だいたい一家離散なんてここじゃそんな珍しい話じゃないじゃないか。この道を迎えに来てくれる車あるのは感謝というより、来ないなら来ないでただ一人放っておかれる、来ないんだ、で片付ける、悲しいという感触が、ただ風のように流れ去ってしまう。そんな感じが漂っている。
 逆に家庭を持ち子ができて、送り迎えをする、それもまたあくまで人生の一刹那といったような…。

 自己を守ることや自己中心な思いからではなく、芯から孤独を感じていれば無意識に人と繋がることもできよう、しかし、その孤独を愛してしまってはどうにもならない。自分で自分を抱きしめて死ぬしかない。
 迎えがないときに、ネットだけで知り合った人の車にふいと乗ってしまう。そんなことができればと思う。無事帰ってこられればそれはそれでいい…。

 北海道といえば道北や道東だけど、この森―長万部の雄渾極む噴火湾沿いの風景も指折りだ。哀しさ、寂しさの点で。何とも言えない旅路を彷彿とするし、これが北海道の感情の根っこという気がする。
 文化を据えたい歌碑を建てたいとすら思わない。何もかもが風のように去っていく。私もそんな風に消え去ってしまいたいと願っている。
 消えてなくなれ! なにもかも! 大勢の人々がそうであったように! 残るのは一本の犬釘、焼杉板そしてもの悲しい青空と薄原で十分だ。