木与駅
(山陰本線・きよ) 2012年7月
重たい黄金色の茫洋、その路傍で忘れ去られていた宇田郷の駅でひとりぽっちになった私は、ひと駅だけ西に進んでみた。気動車はひどく古くにおいの立つもので、よくこんなものが走っているなとびっくりさせられる。揺れが激しくガッタピシいうもので、何かここはもう、本当に忘れ去られた国のようだった。
トンネルに幾度も集中力を切らされながらも、鉄で汚れたガラスは昏い硫黄の落ちていくのを見せてくれている。
私は木与で降りる。そしてここもまたとんでもなく放置され切った駅だった。
いったいなぜ鉄の跨線橋はこんなに穴ぼこだらけなのか、どうして屋根が取っぱらわれて蔦だらけなのか、なんでそこもかしこもこんな雑草だらけなのか…
ここを廃駅といったって、決して修辞的で、おもしろがったオーバーな表現ではないと思う。
「え、なんでなん? どうしたん? さっきの駅だって… ここの工務区は支社長と喧嘩して冷遇されてるのか? 広島支社長は何やってんの?」
「おかしい。なんかおかしい。」
じつは、ちょっと腹も立ってた。こんなので営業するっておかしいんじゃないの。しかも向こうのホームも使うから、あの跨線橋は現役だよ。
けれど、私はこんな出逢いをもたらしてくれたこのエリアに感謝してもいたんだ。こんな驚きが素直にすごくうれしかった。
だって、考えてもみてよ。どこもかしこも安全を謳って、やってるフリな経費落としの工事が多いじゃないの。列車をぶっつける前の意識改革としての施策でもあろう。けれど私はそうした手法は、その目的の根幹を相対化するような気もしていてさ。そしてそれが我々を神のような客に仕立て上げ、スポイルされる、いや! 我々を軽視した上役の連中は悪の鉄槌を受けてもしかるべきなんだ!
結局!…なんなんだ。そう、私は、突然の出会いのあいだでたゆたっているだけなんだ。
この出会いから向かいうる目的地はそれだけだ。
ひでえ駅だ。だかしかし列車をぶっつけたり、客を引きずらないでくれよな。もうそれだけでいい!
日が水平線に近くなって、すっかり涼しくなっていた。うれしいことに、雰囲気は宇田郷と変わらない。ただ、あそこよりもここのほうがちょっと静かで、けれど、惜しいことになんとなし駅は陳腐である。
「こんな駅がずっとつづくといいねぇ」
わが国の地形は変化に富むから、雰囲気は似ていても違うところがある。そう、ね、この駅ほど雰囲気ということばを使いたくなる駅もないね。なんというか、山陰線の旅の、とある一コマ、そんな感じがしている。たまには陳腐っていうのもいいものさ。その辺の橋上駅とかね。一般性の話なんだな。
練りコンの塊のような駅舎は、なぜか間口を煉瓦で縁取っておしゃれしている。なのになんでこんな放置され切ったのだろう。久しぶりにおしゃれした人は、こんなふうになるのかもしれない。待合室に入ったら顔が蜘蛛の巣だらけになって、蜘蛛がひっついてきた。そしてそんな駅に一人、しゃがんでいる女人がいた。
なにかぶつくさ言っていて、仕事の愚痴らしかった。内心、これは…ストーリーの題材にならないなぁ、と、一人勝手に困る。こんなタイプの人を私は何度か旅道中、見たことがあるけど、どうも肯定感に悩んでいるようだった。心理学や自己啓発ははやるのもわかる気がする。おてんばが似合う気質の人は得だ。石ころもってこの駅にぶつけても、さまになるから。
近づいたとき、その人は私を見上げた。表情は、少し怯えつつ疑問を抱いているようなものだった。
私はシーサイドまで夕日を見に行った。静かな国道沿いの集落で、屹立せる山が迫っている。煙草屋が自販機に休みの張り紙を出している。
こうして自分の旅も終わっていくのかと思ったが、私は自分の時間の無限を信じた。ネーバー・エンディング・ストーリー、なんていわれるけど、要はそうしたドラマの方向を取るかとらぬかで、先はだいぶ違ったものになる気がする。この道を取らぬ者は現実的で賢明だ。しかしこの道を取ることに対し、私は一般性を見出してしまった。なぜなら生命体が永続することをぼんやり意識しているからのようだった。グラフも上から見ればピークもなければ落ち目もない。私は死んでもいいが、こんな旅の感覚が引き継がれればそれでいいと思っているところがあった。われわれはね、こう、いつも何か良いものも悪いものも持って生まれているんだな。それを一度キャンセルする、旅はそういういい機会なんだ。ただ何も考えず、髪の毛すべてが猫の触覚になったような明敏な気分なんだ。こうした真空放電をつづける時間が、もう少し私には必要なもののようだった。