小串駅
(山陰本線・おぐし) 2012年7月
「事業の不振から、私は地元での仕事を突然失い、残された道は三重か北九州の、或る危険な化学工場の寮に入って身一つで働くほかは選択肢がなくなりました。
三重の方が近かったのでそちらを志望していましたが、そこはもう特別な資格がなければ空きはないとのことで、北九州に決まりました。
まさに鞄ひとつで、働きにやってくる、そんなところでしょうか、列車の中で靴のつま先から腰あたりまで自分のいで立ちを見て、今の時代でもこんなことがあるんだと思い、頭がどわんとしました。けれどお祝い金や、片道きりの交通費は出て、斡旋会社の人も、決まってよかったですね、と、歓んでくれました。それはうわべではなく、本当に困っていた人の助けになれた、という担当の人の思いからのようでした。
しかし私には新幹線で新下関で降りて、という機械的なのは恐ろしく、また最後の自由の晩餐を味わいたく、まったく裏側の山陰線を通って北九州に向かうことにしました。
お金なんかないですし、とにかく先を急ぎたくなるといった目的地ではないので、各停だけを使うことにし時刻表で調べてみると、本数は少なく、何日かは泊まらないといけないことがわかりました。さすがにホテル代は出せないので、いろいろと調べて駅で寝泊まりすることにしました。
駅で眠ったり、途中でいろいろな町を見ていますと、気分がらぎ、この先の不安を忘れられました。中には取り立てて町も駅もおもしろくないけれど、海がきれいで落ち着くようなところがありました。できれば北九州なぞに行かず、こういう小さなところで、とも思いましたが、それとて、また浮草のように彷徨うことになるのかもしれませんね。鉄や化学製品の需要は変わりませんでしたし、例えば鉄なら、いろんな地方で新幹線を造ることで、その方面の需要の捻出はうまくいっているようです。
ずっとずっと工場のことは忘れていました。けれど阿川でしょうか。山陰線がきゅっと向きを変えるところですね、そこでちょっと違和感があったのを覚えています。
そうしていつしか、小串というところに着きました。すべての窓からまぶしい金色の光をいっぱいに浴びた客室内はがらんとしていて、自分以外ほかに乗っておりませんでした。
もうこの先は下関の近郊のようなものです。ここから先を進むと、もうあの山陰らしさには絶えてまみえぬかもしれません。
車内に流れる女の人の、小串、小串です、との放送は、私が京都から辿ってきたことなんて、知りもしないようでした。或いは、まるきり知っていて、そういう人もいる、と、非人称の声が受け流しているようでもありました。
私はどさんと開いたドアから、項垂れて降りました。最後の自由な空気だと思いました。焼けつくような日はだいぶ落ちかかって、あたりそこら中、切断砥石から飛び散る火花のように、光が落ち零れて、深い日陰のところはどういうわけか冷たいほど涼しくありました。
跨線橋に上がって乗ってきた列車を見ますと、大変疲れているように見え、しばらくここで停車するとのことでぷすぷす燻っておりました。
ホームにはこれから北九に向かう年配の仕事人や職人が煙草を吸いながら列車を待っていました。それはどこか落ち着く光景でした。
駅から出ると階段で、私はちょっと立ち止まって誰も歩いていない広い十字路を見下ろしました。これが小串の町だそうです。そのずっと遠く向うは堤防らしきが見えて、私はそこまで歩いて、最後に海を観ることにしました。駅はびっくりしたことに、北海道にありそうなマンサード屋根で、立派な白亜の木造舎でした。そうそう、こんな町のほうが今の私には落ち着きます。そうして私はさっき見かけた職人さんや所謂労働者という人を思い出しました。その人も本当は北九で仕事があるけれども、ここに住んでいるのかもしれません。駅前をのんびりと犬の散歩している五十終わりくらいの男性がいました。スナックや山手には弁当を売るコンビニもあって、ここでならやっていけそうでした。しかし私は入寮が決まっています。
不思議に道だけが広い静かな小串の町を過ぎて海まで出ました。こんなとこはもう近郊区間で、九州も近く海も狭いから、たいして風景もきれいじゃないだろうと思っていました。けれど、どうでしょう、見事な大海原に、竹のような節理構造が伸びている、とてもおもしろいところで、ちょっと感動して泣けてきました。こんなのはてっきり和歌山の串本や高知の竜串にでも行かなければ見られないものだとばかり思っていました。けれどいまここで見られて…
小串は本当にいいところでした。
私は観念して駅に戻りました。マンサード屋根にレリーフの腰壁、その建物を見ると、自分はまだ旅をしているんだと思えました。けれどこれから先のああいうところで働く運命も旅だとは思えませんでした。その工場では何回か事故で、人が亡くなっているそうです。もう自分の体は自分の物ではないんだと思いました。いろんな税金や保険料も溜まっています。こんなふうにすこしでもと事態を遅らせて、逃げて、就職口に向かうのにさえ途中で旅行までして、きっとそうした姿勢に対する勘定書きが回ってきたのでしょう。
寮に入ったらまたなにかドラマに出会えるかもしれません。どんなささいなことでもいい、私はそのことをちょっと楽しみにしておきます。」
小串海岸ではたったいま合コンのバーべーキュー大会が終わったところで、吉平やアンナたち約20人は山側のコンビニでビールやらつまみ、弁当、お菓子を買い漁り、この後は再び海岸に戻ってめいめい親交を深める段取りになっていた。男性は全員、判で押したようにエグザイル風で側頭部に剃りこみ、口ひげを生やし、二の腕にはシール式のタトゥーを入れ、女性もまた判で押したように浜崎あゆみにフィチャーされたかのごとき薄茶の髪の毛、長い睫毛のエクステ、胸の谷間を見せ広げ、革やデニムのミニ・スカートに香水といういで立ちだった。
きれいにペアリングもできたのだが、さすがに会って間もないので、男性らは珍しいくらいにおとなしかった。けれどその服装から一瞬でわかるように、感性が一致していることはお互い見抜きあっていて、それで安心していた。例えばホストでもないのにホスト風の格好を男性がするのは、自分はこういう人ですから、こういうのが好きな女性は安心してやって来てください、という一つの記号なのであった。
彼らはいつも器用だった。エグザイルが好きというより、こういうのが好きな人、来てください、という単なる記号としてファッションをしていて、吉平もそうしたこだわりのないその一人だった。だから全員が似たような服装でも、彼らはいっこうに気にならなかった。
吉平やアンナらが小串海岸にもどって尻もちついて酒を開けていたところ、吉平はスマアト・フオンで小串のことを調べはじめた。竹のような海岸にいて聞かれて、気になったのもあった。そのときたまたま上のようなことを書き連ねたサイトを見つけて、つい読み込んでしまった。というのも、吉平も実は北九州のある工場に勤めていたのだ。まさかこんな人がやって来ているとはあまり考えもしなくて、なんともいえず吉平は不憫な感じがした。
深い桔梗色の空に砂金が散らばりはじめた。夕暮れの最後の赤さは水平線にどっしりと滲み出し、そこはなにか巨大な宇宙に浮かぶ島のとある町のようだった。
ほんのりと酔いも回ると、二人は北九州にある吉平の部屋に行くため、駅へと向かった。はじめて駅の建物を認識したのは吉平はそのときが初めてだった。ここだけ大工が腕を鳴らして建てたのだろうかと考えた。
蛍光灯の灯る駅舎の中は蓄熱してむわっと熱く、歩くたびに吉平の二の腕に蚊がぶつかった。
中をざっと見回すと、時刻表を見て
「あと10分で来るよ」とアンナに言った。
こんな不快な駅舎の中に、気になる人物が一人だけ椅子に掛けている。大きなかばんを横に置いて、放心して座っていた。こんな時間はたいてい萎びた使えない爺さんくらいしか座っていないから、座っている彼がだいたい同じ年代なのは吉平には不思議だった。そしてその服装はまるで自分のものとは違っていて、同い年だとしたら吉平の方がずっと年かさにみえた。アンナが吉平に汗ばんだ腕を絡ませるともなく絡ませていたが、吉平が涼をときどき見ているのにつられて、アンナも見つめはじめた。
なんとなし無人になった改札口からホームを覗いたり、時刻表を見たりしていたが、吉平はおもむろに涼に近づいた。ぐわんとする頭を感じつつ、袋から缶を取り出して、
「これ、飲みなよ!」
涼は驚いて、
「どうしてです?!」
「いいから。余ってんだ。」
そうして二人は今度はしっかり支え合いながら連れ立って、真っ暗なホームの方へと出て行った。
「ねぇ、どうして上げたの」
脚をぶらつかせながらアンナが訊いた。
「困ってんじゃないの? それに、袋が重いよ。」
吉平は荷物が減った分、アンナとより絡みやすくなった。
涼はふざけやがって、と思って、しばらくその缶を椅子脇の台に置いたままにした。涼は家出してきていて、クスリのせいで飯井という無人駅で幻覚を見たことを今も恥じていた。けれどそのことは自分の姿を見ただけでは誰もわかりもしないはずだった。
「論理的に考えて、そうだろ」
けれど今、そのこと関してもまた、自信がなくなってきた。もしかしたら自分はその姿がすべてを物語っているのかもしれない。あるいはあの男が、意外に透視能力があるのかもしれない。思い切って聞いてみたとしても、「誰だって見たらわかるよ」なんて言われそうで、涼はしょんぼりとした。
「自分は誰なんだろうか。誰に見えたんだろう。どうしたらもっとこう…うまくいくんだろうか」
彼らは二度とこちらにやって来なかった。缶が汗をかくのを見ていると、涼は静かにそれを取り上げ、立ち上がって小高い駅の出入口から濃紺の空を見上げると首に当てると、冷たい心地良さが直に伝わってきて、自然と優しく瞼がおりた。