特牛駅
(山陰本線・こっとい) 2012年7月
汽車はもう海なんか見せず、山の中を縫っている。海岸本線が終わろうとしているのだが、六百キロも辿って旅行してきたのに、境汰は少しも哀惜の念を抱いていなかった。ただ哀しさの中に、微かな微笑みをたたえてずっと車窓を眺めていた。それは余命を知らされ、激情を経て、諦観の境地に達した人に似ていた。けれど境汰にはその激情はただの一度もなかった。
青春とは活力に包み隠されたそうした激情の一種かも知れない。死に対する無意識の最大の抵抗である、というような…
境汰は思い余って別れを告げられても、ちょうどいまみたいな表情で、そう、といってすぐに相手を手放した。けれどあんまりに境汰がその後も自然に振る舞うので、たいていの彼女は不審がり、けれども、元に戻ることもあった。今の境汰もメールは読みもしても、返していなかった。
車内では、こっとい、とかなんとか流してる。けれど境汰が平板なアルミぶちの汚れた窓を窺っても、それらしい駅名はまったく表示されていなかった。どこからどう見てもそんなふうに読める表記ではないので、きっと自動の放送がずれてるんだ、と思った。車内は地元の人が少数いるだけだし、みんなわかっているのだろう、と。
しかし、ということは、この駅は自分には何駅かわからないということになる。どれ降りてみるか、と、何の気なしに境汰は降りていった。しかしなんとなし、他人の墓地に参墓する妙な気持ちになった。
山の中だが、この列車を待っている待ち客がいた。二人連れの男で、何か考えがあってここに降りていたらしかった。境汰は何も気にせず降りて、うんざりするようなむわあとした空気に取り巻かれ、一斉に草が刈られたばかりのあの独特の匂いに鼻腔を翻弄されていた。
またこんなふうにちょっと不思議な感じの停車場で、なんで自分はこんなに土地ばかりに嗅覚が働くのだろうと境汰は思った。駅出てすぐの桜の木に蝉が群がっているのか、駅舎の中に入ると別世界のようにむっとするほど暑く、やかましかった。
そこは実に奇妙な駅だった。時を止めた思い出の写真の数々、古めかしい木の壁、窓口の向うは農産物用の二十キロのカゴが積まれ、放置された玉ねぎ、そしてしまいには自転車をどさんと投げ込んであって、暑苦しい胎児のように何もかもが干からびていた。
個人宅にかかるような時計がチッチッチと時を刻む。
けれどそれは実際に時を刻んでいるの定かではなかった。電気時計のようないっせいのものではなく、誰かの思惟が、合わせるのだ。その時計はもしかしたら、それ以降、勝手に時を刻むかもしれない。今ここに流れている時間は、いったいどんなものなのだろう? 境汰は椅子に取り囲まれた待合室の中でぼうっと一人佇立した。
思い出…どうもこの駅には数々のその思い出が、いっぱいにつまって、そして坂下の集落の人たちによって語られるものがあるらしい。なのにどうして、こんなふうに時が停止しているのだろうか。それとも決まったに日時には人が集まって朝市でも行われるのだろうか。そうかもしれない。しかしそのとき以外は ― こうして時が停まるらしかった。
つい数時間前までは、なんやかやと賑わったのかもしれない。
しかしいまここには脳は境汰の脳一つしかない。
駅前には今にも崩れかかりそうな商店一つきりで、あとは緑だった。けれどガスや自販機を置いているので、もしかしたら誰かいるのかもしれない、と境汰は覗いたが、どうも今の時間はおいででないようだった。
境汰は不思議な心持ちがした。おかしいな、と。
駅から出ていく坂もおかしかった。きれいな下り道で、実に均等間隔で葉桜が植わっているのだ。それはなにかベルサイユ調といいたくなるくらい、頭がおかしくなるくらいの人工的なものだった。近くには本来のとはまったく違う駅名を表示した作り物の駅名標まであった。
誰一人として人は歩いてこない。自販機だけが背後五十メートルで唸っている。境汰は自分がどこにいるのかわからなくなって、急いで坂を登り返し、おそるおそる、その朽ち果てかけた建物の前の自販機に、硬貨をゆっくりと確認するように入れていった。古い筐体だった。そういうのは、急いで入れると、カウントされないことがあるのだった。
百円、十円、十円、十円
無事境汰はコーラを手にした。(傍点)だれかが補充したんだ。一口飲むと目が覚めた。自分が存在していることは諒解したが、それでも真っ緑な葉桜の並木坂は、どうもしっくりこなかった。
こんな駅を支える集落はどんなだと思った。しかしそこは、あらゆる法面と土地の草が適切に刈られた、家がほんとにぽつぽつしかない、実に静かで、美しい村だった。その草の刈り方や山の整え方は、ほとんど西洋の感覚に近いものだった。
「もし彼らが太古の昔に流れついていたのだとしたら、こんなふうなところにそのDNAは息づいているのかもしれないね。」
自分が観ているものが本当かどうか認識できず、境汰はずっと集落をぼんやりと眺めていた。
駅へ登り返すと、時計がさっきより息づいている気がした。人々はあんなにあちこち草を刈って、整えて、耕作し、そして人としての思い出も作り…けれど、けれど、いまこの時は、なんの音もない、なんの鼓動も聞こえてこない。その風景は出来上がるまでに多くの音を必要としたはずだ。
それは自分が今ここに立っていること、そのことには、それまでの多くの死者の群れがあったのと、相似であると、境汰はふと気がついた。
そうしていま、蝉の鳴き声は遠くなり、ただ自分の鼓動だけが聞こえている。
しーとんして、体が痺れた。そして体内に潮水がじんわり浸透していった。そうして草の一片一片でさえも、抱きしめたくなった。
思いは生きているも死んでいるもない。みんな死んでいるものなのだ。だから、それは、引き継ぐことしかできないものなのだ。そして多くの人は本当は生きてさえいないのかもしれない、そう思えもした。
ふとバスが桜の坂道を上がって来た。それは非現実の緑ばかりの空間に、実態を装った非現実がまた陥入してくるようだった。行先は聞いたこともない島の名前を挙げている。
運転手は出ていた境汰を目に留めると、奥まで行って転回して、まったく違う名前を出した例の駅名標のまえにぴたりと止まった。
しかし境汰が乗らないとわかると、運転手は実に不快そうな怪訝な表情をたたえ、ぷすぷすいいながら胴体をひとゆすりふたゆすりして1速で坂を転げていった。
ほどなくしてふっとセダンが坂を駆け上がってきた。それはなにかバック・トゥ・ザ・フューチャーのようでさえある。そしてそれはこの夏の午睡のしじまには明らかに不釣り合いなものだった。
境汰と同い年くらいのデニムのハーフパンツの男子は、なにかドラ息子のようでさえある。
彼はちょいと写真を撮ると、どうしてここにいるの、と境汰に尋ねた。
「たまたま降りただけです」
「そう? ここは珍しい駅だし、それで降りたのかと思った」
そのときはじめてここが特牛と書いてこっといと読むのを境汰ははじめて認識したし、それでやっとはじめて、自分が珍しいところにいるのだと思えた。
「もしかして角島大橋にも行いかないの?」
「なんですかそれ」
カイは珍しい奴だなと思った。ふと境汰は思い出し、
「もしかしてさっきのバスの…」
「バス? ああ、そう。それだよ。」
カイは、古い駅の中のしじまに立ち尽くして、
「なら、行かないんだね。送ってあげてもよかったんだけど。」
カイはなんとなしその恰好から碧海の別荘から父の車を借りてちょっとこの駅に様子見に来た感じもしたし、次の汽車で彼女が乗ってくるようでもあった。
「別に僕はいいと思うんだけど、そういうの、ね。なんにも知らないというのも。でも、たまに変なこという人もいるから、ちょっとは扉を開けてもいいかもね。」
カイは去った。境汰は駅ノートを開いた。そこには角島大橋の簡単な絵が描いてあり、多くの思い出が簡明かつ叙述的に綴られていた。それは消えてもいいと、或いは消え去ることを諒解しているような書き方だった。
Low速なネットワークとしての書き置きは、縦い消えたせよ、広汎な脳と脳のネットワークの表れだ。境汰はいまそこに初めてアクセスした気がした。
夏の太陽はますます烈しくなり、いっそう蝉は唸りあげた。木組みの屋根がパチパチ音を立てて、木の匂いがしたたかに鼻を突いた。車寄せから出て見上げると、こっとい、と青緑の板が掛かっている。