河内駅―山陰海岸紀行
(こうち・山陽本線) 2012年7月
河内駅の不思議な一夜
山陰海岸紀行は終わった。明るい夕方、門司港から延々と普通列車を乗り継いで、広島までは、とりあえず戻ってきた。旅行九日目だから、何度も車掌が歩いていた気がするが、泥のように眠り果てていた。
とりあえず広島駅までは寝て、どこで降りて寝るかはそれから考えよう、そういう心づもりだった。有人駅は眠りづらいので、無人駅になる。そうすると山間部の入野か河内しかなかった気がした。
列車が築堤を走り、真っ暗な車窓をこんな明るい車内から見せつづけているころ、僕は立ち上がって、寝ぼけた頭を叩きながら、ドア付近まで赴いて立った。下手に大きな駅で終電を迎えるとほんとに困ることになる。
もううまく寝られる自信はないけど、勇気を出して河内で降りた。もう秋が迫っていて、虫の音が寂しかった。
降りた人は数人いて、みなタッチするか、切符を箱にねじ込んでそのまま駅舎を素通りし、すでに待っている車などに乗って帰っていった。僕はすっかり車内では寝ぼけていたが、こうして駅に降り立つと強烈な現実感に襲われて、目が冴えた。あの人たちは家に帰ったら、遅いながらも用意されていた食事なんかをとって、また朝早くに出るのかもしれない。いや、意外とアットホームな感じはなくて、こんなに懸命に生きているのに、家に帰ったら、いろいろと文句や小言を家の者に言われて、たいして大事にもされず、不満を抱えながらも布団に入るのかもしれない…そんなことを想う。僕がそんな「厳しさ」みたいなものを思い描いたのは、ここが本当に昔の小町だったからかもしれない。
さて、駅舎の中は…と、窺うと、一人掛け椅子ばかりで、やっぱり、と… 一つだけ据え付け長椅子があってここにしようかと思ったけど、駅舎内が明るすぎるのと、出入口に近いので落ち着かない。外に出て周辺を探すと、駅舎の隣の建物の前に、長椅子二脚を発見! ところが人通りはないものの駅舎前なので、こちらも落ち着かない感じである。寝るのはこのどちらかになりそうだ。
運の悪い男
さて、この駅で終電の行くのを待っていると、不思議なことがあった。
最後の一本前になったとき、僕はこれさえやり過ごせば寝られる! そう思いながら精も根も尽き果てた様相で長椅子に座り果てていた。するとどうだろう、道の方からJRのロゴのある車がヘッドライト灯してやってきた。派手なエンジン音が闇夜を破って、一気ににぎやかになった。がやがやとしゃべりながら出てきた彼らを見て、僕は愕然とした。紀勢線の道成寺駅でのことを思い出していた。あのときは線路の方から保線員がやってきて、そして駅舎の中に入って休憩したのだ。ということは…今回は外の長椅子で寝なくてはならないことになる。
そのうちの一人、水色の服に黄色いヘルメットで、髭が濃いのが駅舎の中に入ってきた。様子をうかがうような目で、あたりを見回した。僕は終電に乗るんですよ、何か? みたいな感じで取り繕った。すると、彼はほどなくして踵を返した。僕はこのとき、単に異常がないか確認しただけだろうと思った。けれどそうではなかったのだった。
外にいる彼らのうち一人の太っちょが、「終電まだ行ってないの?」と同じく外にいる仲間に聞いた。濃い髭が外に出て行って「まだある」と言った。つづけて、その青髭が終列車の時間を告げると、
「じゅあそれからにしようか」太っちょがそういう。
青髭は無言で、当然だろ、といった態度を取った。
僕は、そりゃ保線作業なんだから終列車がいってからだろ? と思ったが、わざわざ太っちょがそんなことを言ったのが引っ掛かった。青髭もそのことを暗に咎めたのだと知ったのは、のちになってからである。
二人の闖入者
やがて、外にいる仲間たちの声はどこかへと吸い込まれていった。そう遠くない保線の持ち場に就いたのだろう。けれど、ほどなくすると彼らの声がまた聞こえて、なんとも不思議だった。いすれにせよ、車が来たときと比べると、もう静けさをすっかり取り戻していた。
その静かになった駅舎の中で、僕は、あぁ、ついてないなぁ、と、つぶやきつつ膝小僧を抱えるように座っていた。するとどうだろう、今度は突然、郵便局員が入り込んできたのだ! もう時刻は0時前である! 緑の制服で、それは見まごう事なき、郵便局員の制服だった! 彼は時刻表を見ながら、ぶつくさ言った。するとどこからともなく、さっきの青髭が現れた! いったいどこにいたのか、と内心怖くなった。
郵便局員は青髭に、
「あ、どうもこんばんは、今日、もしかしたら間に合わないかもしれないんで、もしよかったら、またご一緒させていただけないかと…」
最後は消え入りそうな言い方だった。青髭の方は超然としていて、
「間に合わない? 終電に?」
「ええ…たぶん、無理だと思うんですけど…」
青髭は黙って、首を浅く縦に振った。
「ありがとうございます! そしたら、後ほど」
そういうと郵便局員はずくに表口から消えていった。青髭は別の出入口から、ふらりと出て行った。保線仲間の消えていった方向に最も近い出入口だ。
僕は、
「こいつら何か企んでるな。」
どうしようか、突き止めようか。しかしもう体が思うように動かなかった。煌々と明かりの灯る開放型の駅舎の中で、ただ僕は阿呆のように座りつづけている。あまりに疲労が蓄積し、もう誰彼構わず遠慮なくで今すぐに寝袋敷いて寝ようかと思ったほどだった。
やがて終電を迎える。意外なことに、保線員も郵便局員ももう久しく姿を消していて、まるでさっきのことが嘘のようだ。僕は、あの保線員たちが保線作業に就いていることを願い、郵便局員は何か恐ろしい量の残業が今日もあって、この時間に現れたのだ、そう考えるようにした。でも、じゃあ、なんであの局員はこの駅から列車に乗って家に帰りたいのに、わざわざ終電前に駅までやって来て、またどこかへ行ってしまったんだろう? たぶん終電は無理だと思うって、どういう意味なんだ? まるであの人は終電に乗って帰りたくなくて、保線作業員の何か特別な乗り物で帰りたがっていたかのようじゃないか!
青髭と局員は、地元絡みの旧来からの友達同士みたいな話し方では、決してなかった。それにどちらかというと、青髭の方は、そんなに局員とは「また一緒になりたい」というわけではない感じだった。局員の方だって、どうしてたいして顔見知りでもない作業員たちと一緒に過ごしたいのだろうか? 影キャラでありながらも本当は寂しがりやで、誰彼構わず一緒に時間を過ごしたいのだろうか?
アジト
終電後しばらくすると、外の保線用ワンボックスカーで動きがあった。誰かが荷物を取りに来たらしい。駅舎は西日本風だから扉なんかなく、開け放しだ。しかも出入口は二か所もある。僕はできれば、このまま駅舎の中の長椅子で寝たいし、動く気力もない。小さい子が寝る前に体温が上がるように、僕の体も熱を帯びてきている。
しかしこんな怪しさの中ではろくろく寝られないと思い、僕はさっと駅舎から出て、さっき目をつけていた、保線作業員たちがいるのとは反対側の、駅の隣の建物の前の長椅子に移動した。そこは真っ暗で、停車場線沿いで、ただ静かに自販機が並んでいる。なんとも落ち着かないが、青髭や局員が出入りすることを考えたら、こっちの方が断然眠れそうだった。けれど貴重品を考えると、やはりなんとも言えないものがある。
僕がそのプラスティックの長いすでしばらく休んでいると、保線員たちさっきよりかは言葉少なにふたたび車に集まってきていて、次々と物を運び出しはじめた。そこに郵便局員が現れた。そして、
「あ、今晩もよろしくお願いします。お手伝いしましょうか?」
保線員たちは、まぁいいよ、という感じだった。
僕は思わず目を凝らしはじめる。見るとどうだろう、台車に缶ビールパックやつまみやらを載せて次々と運びはじめたではないか! いったいどこで何がはじまるというんだ?! 少なくとも駅務室などではない。彼らの歩いていく方向が逆である。
運びきった彼らは、もう姿を現すことはなかった。
いったいどこへ消えたんだろう? こんな田舎町のこんな時間に、そんな楽しいことがあるというのだろうか? 深夜というのは不思議だ。確かにみんな寝静まっているのだが、一人で好きなものを食べて賑やかだったり、どこかの部屋では集まって酒を飲んでいたりする。そういうのは見えないものだ。この世には見えない賑やかさというものがある。
「あいつらまさか保線作業サボって酒盛りしてんじゃねーだろーな」
しかし僕の方も寝たくて仕方ない。屋外の長椅子にシュラフを敷すい、中に入って寝る体制に入っていたが、椅子がプラスティックだしシュラフが滑って滑って適わなかった。おまけにいつものように脚は全部乗らないから中空に投げ出された感じになるし…
僕は日常の夜空を仰ぎながら、
「それにしてもなんなんだろな、あの郵便局員…」
このころはまだ緑の制服で、ボタンには郵便のロゴが入り、一目で郵便局員と分かる制服だったのだ。あんなに個性的な制服もない。
「この町の昔からの友達というのでもなさそうだし…」
僕は気になって仕方なく、再び起きて駅構内に入り、意を決して彼らが消えていった方へと、近づいて行った。まずは線路のずっと先の方を見る。やはり保線しているような気配は全くない。しかし西寄りに進んだところにコンクリート小屋があり、そこからときたま歓声が聞こえていた。換気扇も回っている。
「ここで酒盛りしてるのか」
僕が息を殺して外にたたずんでいると、ぴたりと歓声がやんだ。建物の全面が壁になっているところに立っているので、向うからは気配すら感じないはずだ。すると突然、話し声が止まった。
僕は一目散に踵を返した。
シュラフを顔まですっぽり覆った。まるでわからなかった。とりあえずあの局員がわざと終電を逃して、なぜか保線員たちと飲みたがっていたということだけが頭に残った。そもそも「今晩もよろしくお願いしますって、なんだ? わざと終電を逃して…」
こんな田舎だから飲み屋も飲み友達もいなくて、保線員と飲んでいるのだろうか。みんなで飲んで、保線員たちの車で家まで帰るのだろうか。そもそもこんな遅くまで郵便局の制服を着る事情はどこにあるんだろう。夜勤? こんなところで? 宿直? 話が合わない。
けれど彼らがいて、いいこともあった。1時過ぎごろ、歩きながら大声でしゃべる輩どもが通りがかり、肝を冷やした。たぶん見つかってしまい、彼らはしばらく駅前で立ちながら、あれ寝てんの? みたいなことを話していたようだが、数分後には立ち去った。その数分というのがどれだけ長いことか…こういうときはたいがい、僕はただ顔までスッポリとシュラフをかぶってやり過ごす。理由はわからないけど、この方法がいちばんいいと経験で知っている。顔が見えていると、人間というのは覗き込みたくなる習性があるらしい。しかし見えていないと、職務上声をかけなければならないでもない限り、寝てるんだな、ということになる。そう、寝てるの。目的は、寝ること。寝ないと、明日に差し障るから。目的が明確だと、たいがい良い結果を生む。だから寝袋はそれを表す記号として絶対必要なのだ。
シュラフが滑るせいで、寝てる間ずっとバランスを取らないといけなくて、なかなか眠れなかった。けれど、2時間弱は眠れたと思う。
例の保線員たちは、始発のまさに1時間前、4時過ぎにわらわらと出てきて、ワンボックスカーで帰っていった。こんなとこじゃ飲み屋もないし、ああいう楽しみ方しかないのかもしれない。けれど、いい思い出になるのだろう。郵便局員のことはわからない。僕は彼が影キャラで、だけども根は人との交流を欲して、知らない人のところの間に入ってでも飲むような人なんだ、そんな子供っぽい解釈がいちばんいいような気がした。