神志山駅
(紀勢本線・こうしやま) 2010年2月
もう夕刻も深く、ばあちゃんの頭みたいな入り母屋の駅舎も明るい暗さだった。しみじみとして、夕光や夕冷えもその木材に油のように染み込んでいく。ここで日暮れ、そして最終が往くまで待つことになる。これまでのどの日よりも西日が強かったので、端の方に来た感触があった。里山が遠巻き、その峰が少し鋭い感じなのは、東紀州に入り、その山間も遠くないことを想わせる。やはり同じ紀南でも和歌山とはまったく違うなと。しかしまだ九鬼の方を見ておらず、あそここそはと期待していた。それにしても、三重もこんな果てのない領地を有していたなんて、奥が深いことだ。
山側の集落も、四年前ちょうど同じ季節の同じ時刻ごろ、この路線の山間の栃原という村の駅に降り立ったことを思い出させた。三重というのは、その属性は山かなと思う。やはり神宮が強いのだろうか。国道地先にはうどん屋があった。
駅付近は海浜丘陵のような雑木林、灌木類が顕著で、叢が鬱勃としていて、手入れもされていないようだ。それで国道渡って海を見に行くこともしなかった。さきほど堤防といい、やはり津波に古来より備えているのだろう。地勢のせいもあるけど、ところ変われば、海というのも捉え方が違っているように見えるんだなと思う。
すぐ近くのオークワで今晩の食糧を徴発し、ワインやらパンやら冷肉などで鞄をいっぱいにする。来たとき駅舎にひとり二十代の女人が坐っていたが、携帯で迎えを呼びつけたのに、遅いとばかりに歩いて帰っていった。たしかにまだ明るい時分だ。
駅舎内には相変わらず「JR東海をよろしく」とペンキの花の絵とともに描いてある。叢越しに国道の走行音を聞きながら、見るものと言えばそれしかなく、私に忘れられない光景となった。「よろしくねぇ…」 あのときはまだよかったのかもしれないな。いまの東海がよろしくなんていうわけもない。この絵を見ると、JRCのスタートは、ローカル線の保持に窮するようなもので、この精一杯描かれたペンキ絵のように、ささやかで美しいものだったかのように思える。もっとも、乱暴で強引だともとらえられるけど。しかし本来はそういう不安さを抱えた門出であったのだろう。この絵にはその当時の感慨が詰まっているようで、いとおしく思われた。
純木造で、きちんと屋根はその会社らしく噴き直されている。ここで寝るのだが、やはり扉はないし、停車場線から丸見えで、やはり入口寄りの死角に陣取ることになった。ときどきホームに出て、向かいのホームを眺めるが、開放式の待合所は荒れていて、少し治安を不安に思う。
その後突然、四十代の男性が入ってきて、「どうした?」。 その人は鳥打帽なヘッドギアをつけ、スパッツ姿、自転車を従えていた。少し普通でない感じで、私は紀伊井田で出会ったあの男児と、そのときなされていたやりとりをすぐ思い出した。それでも、「紀勢本線を回っているんですよ! 和歌山の方からずっと。もう三日目か四日目ですね。」「ほう。」 その人も同様らしかった。どうも厳冬期の紀伊半島をめぐるのは、知っている人は知っているっている大きな愉楽のようだ。何歳か聞かれて答えると、おもしろいことに「いや、おれの方が若いよ!うん!」とだけ言って、自転車ですぐ去ってしまった。それで私はふと、虚を突かれたようになったり、精神的な意味かと思ったりした。しかし私はその人の周りを軽やかに突っぱねるような感じとは裏腹に、同じように厳冬の紀南を楽しむ人に出会えてよかった、と味わい返していた。寡照な冬こそ、太陽溢れる南紀へ。それは精神的病相を克己する特効薬ともなるものだ。だから、岩代駅で有間皇子が熊野詣のことをすばらしいところだったと天皇に慫慂する気持ちがわからなくもなく、また挽いていかれるこの旅の道中も、その意味ではひの大海に見るものがありえたのではないかと思われるのだった。「これは自分に必要な旅だ。」 心の中に太陽の記憶すらなくなるような日々は、継続できないものだ。私はこの冬の日々を世々に渡るまで思い返せるように、終日屋外に居し、膚に刻み付けている。
列車到着の際は、やはり外に出歩いた。すると降りた人がA4サイズの厚い封筒を出札口の下に立てかけ、駅を去った。なんだ? と思うが、その後駅の近くまで戻ってくるや、原付が乗りつけ、その封筒をかっさらっていた。凝然として、「なんのやり取りなんだろうか…。」
こんな中央から離れたところでは妙な画策もありそうで、そんなことに関するやり取りがこんな駅で行われているとしたら、と考えると、今夜のことも不安に感じないではなかった。
出歩いたついでに見たオークワはもう仕舞支度をしていた。食おうと思っていたうどん屋ももう閉まっていて、おしいことしたな、と。