玖波駅
(山陽本線・くば) 2011年5月
午前の忙しい時間をやり過ごすため、いったん岩国を越し、玖波へ向かった。通勤列車として目される最後のスジで到着したから、玖波には早くも午前の気だるい空気が漂っている。冷え込んだ初夏の空気は温まりはじめたばかりで、三線の構内や三角屋根の木造舎は明るいうちにまだ寝ぼけているような感じだった。
大気が安定しはじめてきたので跨線橋から今日の天気を占う。ギリギリ青いぐらいに薄雲がかかっていて、新緑の季節にはよくある空模様だ。こうなるとこのまま薄雲が濃くなって曇りになるか、しだいに晴れてくるかのどちらかだ。微妙に寒気が差したりして、天気予報士すら、外すことがある。
けれど大気が暖かかったから、大丈夫に思えた。
薄雲のせいで空と海の区別がつかないが、民家の途切れているフチが、自由曲線で向こうまでつながっている。それで海が近いとわかった。
あたりは住宅地で、痩せた行者山が土を見せながら緑を頂いている。老年期を迎えた中国山地のある広島にはよくある山貌で、雨季に問題を引き起こす。先史修験者時代にはこの山もまた神聖視され登られたのかもしれない。
ホームで撮っていると、向うにある駅舎の中からおっさんがこちらを「いったいなにをやってるんだぁ?」ともいいたげに睨んできた。確かに、こんな平日の午前中だ。しかし、いま山陽に一人で来て駅巡りをやっているわけだから、それに集中するしかないわけだ。それに…自分にとっても、この午前の自由な時間は貴重なものなのだからね。およそ道楽者の感じしかしないけど、いや、仕事をしていたって、みんななんやかや、いろいろとお楽しみ事はそれなりにあるというものだよ。こんなことをせず、社会に国に奉仕すべし、という考えはわかる。しかし善を成せば図らずとも悪ともなり、善意は凶器でもある。仕事なんてたぶんその程度のことでしかない。
よくいままで立ってくれていたなと
海は逆側ですが…
修験者時代はには修行で登られたのかもしれない
情緒が凝縮する
玖波駅から出ると、細道がやって来てここで膨らんでいるという様相。山陽本線によくある懐かし気な構図だ。その細道はなんかわくわく感があり、きっと古い国道につながっている。駅舎は高台で、木柱の哨立するするよく言えばギリシア神殿風だ。花壇や立て看板、歪んだ家などでなんとなくわちゃわちゃした駅前広場を見下ろすと、故郷に帰って来たなぁという感じがする。
こんな駅前のせせこましく木造家屋の立て込む町のどこかに何気那ない古い家があり、それは実家というほどの規模でもないようなもので、しかしステテコと肌着姿の父と前掛けの母がむかしのやり方を変えられぬまま、ずっと同じような暮らしをしている。そこに土産を持って久々に帰ってくる…何かそんな絵にかいたようなドラマがありありと浮かんで気さえする。
けれどそういう光景は意外にないものだ。だいたいに家というのは特殊の悩みを抱えているものである。
故郷に帰ってくるというのはいいものだ。だってその間は、故郷のことを知らずに済み、まったく違う土地でほかのことに力を注いでいるのだもの。そして何もかもがいとおしく懐かしく思え、自分が一丁前になった気がするというものである。これは故郷を離れずに済んでしまったものには体験できない実はある種の贅沢ですらある。けれどそんなふうに人の肩に手を置く多少の傲岸さくらいは、その人に許されるべきことなのかもしれない。
降りたばかりの時はまだ朝日らしい感じで緊張感が漂ってたけど、しだいにそれも収まってきた。通勤時間帯が過ぎ去った後でも、駅を利用しに来る人は、少しして二人、少しして三人、そうして途切れることはなく、駅は古いけど、やはり広島都市圏なんだなぁと。
ギリシア神殿のよう?
僕はこうして山陽の人々の里帰りをつまみ食いしている。ここまではっきりと故郷感のある所でもなければ、出ようもしないというものさ。いや、離れたい!という思いこそが大切なのである。それこそが旅立ちの合図なのだから…その時点で、貴殿は故郷を出る資格があり、やっていく資質を持っている。
古い食堂なんかがある国道2号を見終えて駅へ帰る。駅旅はほんとはハードな行程なんだけど、ぜんたいからすれば、だいぶんに悠長な旅なのだろう。僕はずっと鉄道を推している。まとまった距離をトラックで輸送するのは美しくないとも思っている。一つの動力で一気に遠くまで運ぶ、あとは三々五々、トラックで細かい輸送をする…
個人の移動もそのほうが美しいと思っていた。自ら乗り物を動かすのでなくて、すでに運行されている動力に乗っかるのは、エネルギーの無駄を省く最大の方法だからだ。駅旅はそれを最大限に活した旅である。
玖波駅駅舎その8.
駅に戻りついて僕は午前の"優雅"で、しか肩身の狭い時間を過ごした。けれどあれこれ考えることはない。こちらもお金と時間を費やしてきているのだから、いちいち悩んでいる暇なんてないのだ。予定はギチギチに組んである。旅程はそう組むのがよい。やること、やること、を見つけていくのもまた、人生の処世術だろう。