釧路駅
(根室本線・くしろ) 2010年9月
仄かに肌寒い曇りの或る夏、鉄錆びた釧路のホームに私の身は投げ込まれた。オホーツクの風が強まり、冷湿気が夏に暗い雲をつくっている。汽車が引けると信じられぬくらい人影が消えた。裏手は寒々とした土くれの敷地に、ぼんやり車が止まり、貧しげに単管柵が巡される。こんなところに来たのかという、啄木が降り立ったときの気分がわからないでもなかった。
いっこう構内に人は現れない。やがて掃除がはじまり、駅務室から人が転がり出て、しまいには改札口の電気も消えてしまう。その向こうにも人の姿はない。ダイヤホールだ。ひと気がなくなるのがここまでとは思わず、釧路の今後を案じる。しかしまだ外にも出てないじゃないか。そう自分をいなした。
釧路駅構内は何というか、民営化後のいろどりさえ無い、旧官営鉄道のそのままの駅だった。つまりは錆びたトタン葺きの木組上屋や、くしろと大書きされた吊り下げ灯に哀愁を感じている余裕がない。それだけ生々しい様相だった。
とうの昔に捨て去った荷捌き場の上屋や、乗り場の端のスペースは、いい屋根付き駐車場になっていて、中古車展示場のようだ。別に新しい駅ビルをなんていうつもりは毛頭ない。何かただただ私は心配になっていた。
その人のいない構内の虚空に、「お楽し気、新、お楽し気方面の列車が参ります」という放送が何度も流れて、シュールな光景だった。いったいどんなに楽しくて賑やかなところなのだろう、ここぞとばかりに乗る人も押し寄せるかと思ったが、大楽毛と書くと知り、およそわかった気がした。
地下通路や改札口は風が吹き込まないようにパネルが組まれているのは、いつもの北海道だ。札幌なんか真冬でも暑いくらいだ。それだけ当局がお金をかけている。
釧路ステーションデパートも今は昔、よそと同じように閉鎖されていた。最近まであったのは高岡くらいだろうか。
自動改札に近づくと、天井の照明がぱっと点いた。そして切符を取り出して離れると消灯。コンコースはさすがに露店や土産売り場が明るく、私も少し元気を取り戻す。人は何人かいる。ここって釧路駅やんな?と一瞬思うが、静かな真実は心地よかった。飲食店もあるが汽車が来ないのか閉めているところもある。昨晩入った店は昼に来てみると別の店のように見えた。
夜の地方の大駅というのは独特の湿度があるが、今はもう天気も良くなり、乾いた風の爽やかな、気前のいい臙脂色の景観が私の眼を包む。冬にはこういう赤系統がいいのだろう。銘板のサインも赤だ。
かつては人を集め、文化を放射した頼もしいところとしての駅が幸運にも今も君臨してくれている。午前十時とあってか、待ち合わせらしき人も、旅行者も本当に一人として見かけない。ただ私だけである。交差点一面に敷かれたゼブラゾーンに歓ぶも、雑踏はなく、動輪のオブジェを転がして示す威容も手持ちぶさたらしかった。
旅人を迎えるだけの気概のある立派さを全体から私は感受し、近くの教会の石段を上がって、少年のように俯瞰した。いや、そのころできなかったからこそ…だ。
釧路には釧路の個性ある文化があるのだろう。消失するのを眺めているには惜しいと思えると、熱いものがこみあげないでもなかった。端には緑の釉薬タイルの官署があり、業務的なスペースには鉄道輸送の汚れがある。そうやってこの氷雪の地に造り上げられてきたものなのだから。今から誰かが新たな極地に住んで市街を勃興する、そんなことがどうしてあろうか。
端には広大な舗装敷きに小さな屋根があり、阿寒湖行きのバスがぽつんと身を寄せていて、中国大陸の地方都市を彷彿とさせた。
駅裏の光景は夢に出てきたが、それがどこだか思い出せなかった。なんともいえぬ、実際に存在するのが信じられぬような光景だ。見果てぬ夢を仰ぐ駅裏敷地、そして向こうにはソビエト的なマンモスなビルが駅前として犇となっているが、私は気づくと、入りこんだら殺されそうな、迷路状の飲み屋街を彷徨っていた。もちろん人などいない。かつての労働者の憩いの場なのだった。よくもこれだけスナックの名前と看板の意匠を考え出したものだと感心する。それぞれの店に母や父代わりの店主を見出していた人々の姿が生々しく火影として路地裏に落ちているのを踏まないようにする。これは情念が宿っているというものだろう。かとおもえば晴れた桁外れな空き地がとつぜん広がる。そう、"あちらとこちらとでは棲む世界が違う"…。
風のよく通る陸橋からの紡錘形の鉄路は今も蝦夷地を張り巡らし汽車を疾駆せしめた夢をぼんやり追い、それを跨ぐ私の足は、すでにのけぞって光耀を放つあの夏の重い雲のように重い。
幣舞橋や港まで歩いていないからか、釧路はオホーツクの海霧のようにたゆとうこの世のものでないような不思議な街に思えた。
お午時になって、人も少し増えてきて、気温も上がってくる。私の頭もはっきりしてきた。そんなころにもうお別れである。むろん今度来たときは先まで歩こう。我々旅人は夢を見たり現実を見たりと変に忙しい。
知床斜里方面の汽車に跨った。人の集まり具合は緩やかだが、発車前には車内はちょっと混みはじめる。といっても一両だ。これから釧路湿原だがゆっくり楽しめる気分になった。孤独の旅は一時矛を収め、とろけるような自分の気持ちの諒解をあたりに求めた。