益田駅
(山陰本線・ますだ) 2012年7月
明日は友達と約束があるけえ、と前夜母に伝えておいたけど、だいぶ浮ついているのが伝わってしまったかの―
いかにも夏らしい自分の白い装いを直海(なおうみ)は外で見ると、そんなことも吹き飛んでしまった。小さな肩掛けポーチが歩くたびに揺れている。
急いで照れ隠しに、
「灼けるわ」
なぜこんな季節になると学校は休みになるんだろう? だって、休みになる日は決まっているのに、毎年申し合わせたように夏が来るではないか。まるで自分たちのためにすべがあるような感じ…
路面はぱあっと白光りしてまともに見られやしない。
「この町でこのかっこは浮くがね」
横にやたら長い立派な階段の上にある、翼のような駅舎に入って汽車を待つ。三保三隅駅だ。
―何ともいえない緊張感。これから街に行くのもあるが…
蝉の鳴き音が、どんどん自分をせかしてくる。
「はやくしないとお昼が終わるよ、はやくしないと夏が終わるよ」
けど!
「もう、そげなたくさんのことできるわけないがや!」
可能性の横溢という猛暑。
直海は、校内でも小さなグループで目立たないようにやっているだけだった。担任も、ただそういう名の子がいる、という認識だけだ。
だから夏が自分のために、なんて調子いいことを直接口にすることは絶えてなかった。親でさえも、直海のことはようわからん、といって憚らない。けれど本人は頭の中では休むことなく考えていたのである。
直海は貴重な友達だった一人が中学を前に街の方に移ってしまって、これから久しぶりに会いに行くのだった。とにかく大人になったような気分で、いつもより大きな切符はありがたみがあった。
「何しゃべったらいいんやろう。いや、いっぱいあるがや! ありすぎて無理かもしれん。」
会わずメッセージをやり取りするのは遠慮していた。向こうにも新しい学校生活があるし。それに自分だってうまくいっていないて思われてしまう。今回は、自分から声かけたんだ。でもそれは自分に余裕があるからかもしれない。向こうはどうだろう?
「かもちゃんならだいじょうぶだが」
変わった名だが、これから向かう市街のある町の名から取って親が付けたそうだ。
「あかん、つい しばってしまうわぁ」
学校じゃないし、家でもない、だからもっとはじけていいのに、なんか気持ちよくのびすらできない。
「街に出たら自然にできて、体が動くかのぅ」
汽車が着くとうれしいことにすいている。少しはずかしいが、海側に座った。
良く冷房の効いて汗が乾いた。車窓からはトンネルや山で遮られるたびに、めまいがするくらいきれいな海がショート・ムーヴィーのように再生された。
それは幾度も幾度もつづいた。なんで私はこんなところに生まれたんだろうか。こんなところに生まれて、ほかの人に悪くないだろうか。この感謝や感動をどこにぶつけたらいいだろう?
じーんとして思わず涙ぐんでしまう。「数年前までこげなことなかったが。何でこげな感じがするんやろう。」
お腹いっぱいになった直海はほっとして水筒に入れたお茶を飲む。うちのはいつも水出ししてるやつだ。そうした茶を飲むと、海に注ぎこむ川を育てる山のことが想われてきた。
「だれもしらんやろうなぁ」
こんなトロピカルな秘境があることを。こんな宝があることを。
でも、この先のまちを想うと、いなかなのかもしれない。しかしそれの何が悪いのかといわれると、わからない。でも直海は、あえてここを出てしまうかもしれんの、と、ゆくりない感傷にも溺れた。
やがて汽車がやたら開けた海浜を見せたら終わりの合図、汽車がだらしなく町中に這入りこむようになったら益田駅はもうまもなくだ。
なんでって思うくらい、ありえないくらい広い構内に、直海の汽車は侵入していく。車窓に映し出される数々の山型の屋根、特急ならこんな駅ばかりを結ぶんだろうけど、直海にとってはこうして益田に来るのが日常だ。
あっつい空気に囲まれながらますだ、ますだですと聞くとなぜか直海は駅弁の味を思い出してしまう。
別に思い入れがあるわけでもないのに、懐かしいにおい、けれどあらゆる分子のけんかする季節。「経験せんことでも記憶のDNAってあるのかの」。
構内は直海にとっては平常通りの都市感で、肌になじんだものだ。直海は熱い空気に錬鉄されながらも静かに満足が広がった。ここは自分のみやこなのだ。
いろんな種類の気動車が野っぱらのあこちに止めっ放ししになっていて、まるで野うさぎのようだ。これも我が主人公直海のちょっとしたほこりだ。
遠くから来たのだろうか、大きな荷物を持った人や足を出した少年のような人がいる。運転士から微笑まれて、タイフォンをもらったのは挨拶なのだろうか。こんな何気ないところでも旅行で来る人がいるんだと思うと、これからの友人との邂逅も、直海はなぜだか急に楽しみになった。
駅の建物の中はまったく冷房が効いてなくて直海はびっくりした。外に出るしかないなぁと、外に出ると、あり得ないくらい変わっていて目をきょきょろさせた。「こげな都会になっとったと…」
敷詰めの煉瓦は火砕流のように赤く熾り、空からは黄色な油が降り注ぐ。
待ち合わせは益田駅前にしていたのだが、「わかるかのう…」連絡を取ろうかと思ったそのとき、
「久しぶり!」
と、ドンと肩を叩くので、直海はおもわずぱあっと顔がほころんだ。今まで知らず知らず想像していた友人が、とつぜん肉体を伴って出来した感じなのだ。― 生きているという感じがした。私たちは生きて、今こうして出遭っているんだ ―
そんな叫びも一瞬で過ぎた。
かもしまは はやりの端末を片手にしていて、妙に大人びて見えた。直海のはまだ簡単なものだ。
「あ、めっちゃおとななっとんがや!」
「直海もめっちゃかわっとんの。その靴めっちゃかわいいがや」
白い細い線が足首を回り、少しかかとが高くなっていた。直海もほとんど履かない靴だ。
かもしまはチェックのゆるいギャザーの服を貫頭していた。それが元気らしいかもしまに似合っていた。
「ていうか、こげな がいなことにいつなったと?」
「最近だが。たのしいけぇ、わーもときどき来とる。ここしかないいうのもあるが。」
ひとしきりどっと笑って、かもしまが、
「いなかじゃけぇの」
「…えーのえーの」
「?」
直海が遠くを見つめるように、
「ここにしかない、宝があるけぇ」
「??」
かもしまはいじわるっぽい笑みを浮かべ、直海の脇をくすぐった。
「ちょっとやめんちゃい!」
二人だけの世界の、黄色な哄笑が駅前にあふれた。
「あっついの」
「これからどうする?」
二人はちょっと不安げに相談し合うが、とりあえず近くの喫茶店に入ることになった。テナント施設は2階建てで、そこからは駅前が見下ろせた。
ステップ気候の沙漠にぽつぽつとある、あの軽油気動車も…
建物には赤子を抱いた人も来ていて、整備したのか町も新しかった。
かもしまは慣れているのだろうか、直海はちょっとどきどきしながらも頭痛がするくらいよく冷房の効いた中に入る。周りは大人ばかりだ。
しかし自分の町だということになるとすぐに慣れてきて、塾のことや学校のことをしゃべりまくった。カフェオーレの氷がなかなか溶けそうもない。
「かもちゃんて部活は何しとったっけ」
「弓道部じゃ」
「なんでそげなにした?」
「なんかわーも変わりたい思うて。直海はなんじゃった?」
「ソフトボールじゃ…うちも変わらないかんおもて、そんなん選んでしもうた」
「あっはっは、考えてること同じだがや」
「もうやめようか思うとるけど、ユニフォームも買うてしもたし」
「それは…親に迷惑かかるがのう…」
悩んだり、笑ったり、コロコロ気分を変えてひとしきおしゃべりをせんどして喫茶店を出ると、そうしていろいろ迷いもあることが、直海には苦みのある快感のようにはじめて思われた。
これまでのせっかくの会話が、火炎放射器で一気に焼き尽くされる。
思わず、
「あっつ」
と、項垂れてマグネシウムを焚いた路面の照り返しに二人は目が糸になる。もう自分のファッションを客観視して楽しむなんて余裕はない。
モールへのバスにはまだ時間があり、ちょっとしゃべりながらこの辺を歩こうとかもは提案した。
「近うに親戚の人が昔やっとった果物屋があるけえ」
少し筋を違えるだけで、異様に古い店通りがあり、直海は驚いたが、
「なんか知っとる気がするの」
「きれいんなる前は、どこもこげな雰囲気じゃったと思う」
そこは数十年前まで活躍した山陰の行商人の姿が思い浮かんできそうなくらいの、道は広めでゆるやかでのんびりした店の並びだった。歩いているだけで山陰の梨や葡萄の匂いが香ってきそうであった。
かもはある果物屋におそるおそる近づく。そして覗いた、と思ったら、ぱあっと振り返って走り出した。
「なんじゃ、いったいなんじゃ」
と笑いつつ、追いついて足を止めたかもの背中をたたいた。
服を通してかもの汗が手に感じられた。触っただけなのに、においまで感じられてきそうで、かもはやはり生きているんだと思った。小学生のとき、ちょっと古い家にありそうなかものにおいが好きだったようなそうでなかったようなことも思い出した。
「話すと面倒くさいけえ、やめにしたっちゃ!」
直海は自分より少し背丈の低いかもがちょっとかわいく思えた。
「なんかくだものもらえばいいがに」
「いらんいらん!」
モールで服を見ていると二人はついつい雰囲気で買ってしまった。そこでご飯を食べて駅に戻るころにはもう夕暮れで、薄暗くなっていた。
歩いていると、かもは
「直海、蚊に食われとるがや」
そこには白い腕にふっくり赤く盛り上がった跡がある。
「そうなんじゃ、さっきからかゆうて、どこにおったっかのぉ」
と、こまりげにいうと、五分丈の裾から突き出した脚を反したりして、
そこにも食われた跡が見つかった。
かもは食われた跡をまじまじと見つめるので、
直海がいかにも不思議そうに、眼を点にして、
「何がそげに珍しいかの?」
というと、
かもは口を一文字に引いて、急いでポーチからかゆみ止めを出してぐりぐり塗りはじめた。
「冷たいが、くすぐったいが」
おもしろおかしくバタバタさせる脚 ― 今日のために選んだ、昼に輝いてみえた白い靴が一日で履きなれた靴になったかのように見えて、かもは急にせつなくなって、そして、その足の蒸泄が伝わってくるようだった。
照明の灯った重たい石の屋根の突き出す駅に近づくと、直海は久々に雲気を発散できて夏の季節とともにすっきりした気分になっていた。夏を朝から夕暮れまで退治したとも思っていた。八月には合宿もあるし、この時季にはじけらられるのは "わーらぐらいのもんじゃろ" と。
しかしそういいながら益田の暗い駅の建物の中に入ると、つとに不思議な、名状しがたい胸の苦しみを憶えた。
かもがあっけらかんとした中にも微かな哀しさをたたえて、
「また会わいや」
「そじゃな」
でもそれはよく考えるとだいぶ先のことだなと直海は思い至ると、どうしようもなく潤んできた。かもは間近にそれに気付いて息をのんだ。
とっさに「なくな」と冗談ぽくかもは直海の肩をたたいたが、つられるように直海がつい笑いながらも落涙したそのとき、かもはとっさにそのとき肩に伸ばしていた腕をゆっくり直海の背にまで回し、勇気を出して直海を抱擁してみた。やがて、ゆっくりと直海の腕が自分の背に回ってきた。自分の古家のようなのとは違う、直海の小児のような熱い体温と匂いが苦しいほどにかもの顔に迫ってきた。
おかしいやら、うれしいやらの直海は、
「なんやすっきりしたわ」
「わーも」
二人はまた連絡すると、あっさり別れ、直海も改札をくぐった。
すっかり暗くなった構内。特急のアナウンスが野生動物の到来を告げるようなおどろおどろしさで響いている。
車内に座り汽車が発つと、もう帰ったと思っていたのに、かもが柵越しにこっちを見ていた。気づくとかもは手を振った。居酒屋のネオンを背景にしたかもの姿を見て、元気で大人になってまたかもに会いたいと心から願った。
轟音とともに駆けっていく気動車は、信じられぬくらい深く黒い海ばかりを見せる。たまに安息所としての小駅がわずかばかりの蛍光灯に照らし出されるばかりだ。列車の駆ける中、すべての思い出が死者のようなタールと化したかのように、直海には思われた。自分をこの先待ち受けているものとしてこのような暗さのあることは、直海は心の底から恐ろしく思われた。
汽車に対して相対的に時間の停止した屋外はちーんと熱気が沈んでむっとしていた。草陰の見えないながらも夥しい鳴き音が、自分の胎動する肉体の時間をリアルにふちどる。
ホームの外灯には狂ったように虫が当たっていた。
きっぷの窓口は閉まっていて、すでにカーテンがかかっている。
「もうそんなに遅いかの」
とぼとぼ歩いて家に着くと流しにだけが電気が点いていた。とんでもなく古いだ。まだ二人とも仕事に出ているらしい。一人きりで、少し興奮するようなけれどさびしいような、しかし後からしだいに、遅くまで外にいる親に悪いような気も、直海はしてきた。
一人でタイル張りの風呂に入ってから、帰ってきた母と今日のことを話して、自分の部屋に戻る。母も気入っているのか、かもしまのことを知りたがっていたようだった。
明かりはデスクライトだけにしている。木枠の窓を開け放して、風を入れると、はやくもクビキリギスに混じってコオロギが鳴いている。にわかに、直海はまたかもとすぐ連絡を取りたくなった。けれど抱き合ったことを思い出して、
「いかんいかん、そこがわーの悪いところじゃ。」
しかし直海は今日のことをどうにか残したいと思った。そうして中学に上がってから作った日記帳を、久しぶりに広げた。そうしてそのまま、眠ってしまった。