鱒浦駅
(釧網本線・ますうら) 2010年9月
しだいに色を失っていくオホーツク海を見下ろしながら、汽車は走っていた。女子高校生らはこんなところでも快活にしゃべっていて、どこも同じだった。その景色のまま、或る駅に停車する。うらびれた番屋風の駅舎が物のように置かれ、海の眺めこそよけれ、旅行者が降りるような感じは少しもない…それゆえ、私は固唾をのんでいるところもあった。そこで降りる。ここが最後になる。
運転台付近には女子高校生らが詰まっていたが、降りたのは男子一人。彼女らは降りんとする私を不思議そうに見ていた。いっしょに降りた彼は私をときどき振り返る。けれど、よその人だとわかると、もう二度と振り返ることもなかった。
こうして海辺にあって魚の名が入っている駅名はいろんなイメージを喚起してくれるから、かなり好きだ。当然こんなふうに忘れ去られた木造舎もだ。
しかし駅舎に入る前の横にやたら長い二三の石段は、ほとんど風化して危ないくらいに崩れている。それは駅舎も同様で、近づくと板壁は浮き、罅割れて、蹴りを入れればすぐ穴が開いてしまいそうだ。
最後の延命としての、待合室内の白塗り。なにかしら尿のにおいがするのは、犬のものだろうか。もはやレストラン併設のこれまでの見てきたような駅の可能性はみじんも想像できなかったが、もし手を入れられ生まれ変わったら、とてもうれしい気持ちになっただろう。なんども屋内を見回しながらイメージしたが、それはかなり厳しかった。
押しボタン式の信号が赤色でこちらを睨み、私と海との邂逅を台無しにする。車は次々そっけなく通過していく中であっても、やはり緑がふさわしい気がする。私の心の中がそうなのだろう。
国道への石段はピラミッドのように立派で、鉄道というかつてのステータスを感じさせるが、もはや地震か高波に襲われたのかと思えるくらいガッタガタ。ただそんなとこにこれまで立ってきただけでも偉い、と思えた。
夕刻のオフショア。鱒浦のコーストを眺めながら、けっきょくきょう一日は雨か曇りだったな、と。それでもこうして無事に旅程終えられ、目的を達せられたので、まぁいいかな、と思える。よくやり通した方だ。どこかで燻っていると、ろくなことにならない。さて明日は…旭川市街なので、天候にさして左右されなさそうだ。
草生して荒れ果てたホームを端から端まで歩き、思索する。かつては立派な駅だったのだろう。当時からそれほど多くの人でにぎわったわけではなかろうが、どんなふうにして、こんなにまでうらびれるようになったのだろうか、と。無人化が早いので、当てが外れたというのはあるかもしれない。だって藻琴、北浜、止別と現況ぜんぜん違うもの。一つの駅からかつての社会の流れを類推する駅文化史のようなものは可能だろう。しかし―それはもっとほかの人に任せるよ。
竟にすることもなくなり、白塗りの寂しい待合室でぽつんと待つ。信号機盤のランプを見つめながら。この駅はまだ生きているんだな…かろうじて。信号手に代わり、そしていろんな文物を有限な線で波動的に生かす電気へと変わり、物が生きている実感をもたらしてくれるものは、より高次な技術が担うようになってきている。