三保三隅駅
(山陰本線・みほみすみ) 2012年7月
九時過ぎの列車はぼうず頭の地元の子供らや旅行者が多く乗っている列車だった。運転士もこれではやりがいが出そうといった感じで、気動車も重たそう。
そんな列車をひと駅だけ乗って降りてしまう。三保三隅だ。
ここもまた海から離れてしまっていて、イメージが覆ってしまう。なぜに私は浜田から益田は黄金区間だと思っていたのだろう…? それにしてもほんとにかわいらしい駅名で、ずっと気になっていたところだ。湊や岬のあるところにミホの地名は多く見受けられる。ミスミといえば天草湾に突き出す三角が思いも浮かぶ。
まさしく午前の気だるい自由な時間のはじまりかけたころで、静かで、暑い眠気が沈滞していた。
辺りは山尾根に囲われた広がりを見渡す感じで、駅裏にはマヨイガがあった。
それを除いては、
「まぁここまでふつうっぽいところだとは」
遠くに緑に積まれた団地。
真夏だが、あたりは初夏のようでもあった。
ガンガンに熱せられた屋根なし跨線橋を脚を痙攣させながら渡って駅舎へ入ると、丸っこい感じの眼鏡の女性駅員が奥のデスクに突っ伏して居眠りしている。…なんとまぁ…
まぁいいよ。これだけ暇ともなったら仕方ないではないか。
私に気づくと、むくりと起きて窓口に向かってみるのだが、客じゃないのかとわかると、また奥のデスクに行っておっきなあくびをして突っ伏す。
あな、アーバンの駅員とはかくまでたがはむや。都市部のウィメンズなら、そんなのいなかの駅でしょ!とさげすみそうなものだし、私だってどうせ仕事するなら忙しいエリアの方がやりがいがあると思っていたさ。けれど、それもこれも、自分の持てあましたパワーを仕事で放散させたいだけなのだった。
いなかってなんだろな、と。それは―或る"いくつかの"考え方との出会いだな、と。
私はここに或る駅員が左遷されてきて、売り上げ目標や独自の改札、休む間もなく掃除して、経理もする、そしてこの眠っている三隅三保という駅員に苛立ちながら日々を過ごす、そんなストーリーをでっちあげはじめる。
「うち戻れるんやろか? あぁ、ほんま人の流れの絶えへん三都の駅に戻りたい。出会い?ここにはそもそも人がおらんやん。同じ職でもここではコネかなんかしらん体のいいあてがいの職でしかないんやわ!」
酒缶を傾けつつそう内情を吐露する大都みや。
オフには社員割引を効かせて未練がましく特急で大阪に出、かつての同僚や友人に会う。
「みやはさぁ、でも、そっちの方が向いてるよ?」
そう言われたことにますます苛立ちつつ、翌朝からまた退屈で一人相撲な勤務をはじめる。三保との会話でも端々に、うちは都会の方にいたから、と、つい差し挟んでしまう。
さて、なぜに"こげないなかの駅"に二人も詰めているかを、私は説明しなければならない。
それまで三隅三保は契約社員としてここの全権を任せられているにもかかわらず、日々ねむって過ごしていた。けれど三保はシルバーセンターの受付と、この駅ではじまる物産館の係員として新しい仕事を引き受けることになって、欠員が出たのであった。
けれど三保とて、駅員になるまでにはけっこうやっかいな試験をパスしたのだ。が、もうそんなことには三保は何の魅力も感じていなかった。いくぶんふくよかな体躯の三保はデスクに腕枕しつつ思い出す。「なんやあっちのほうではタッチパネルつこうてどんだけ速く切符を出すかを競っとって、あのしもやったことあるいうとったの。そげなこというても、めったに客なんてここには来んが。まぁ、わーがいつも寝とるから、まちの人も愛想つかしたのかもしれんがの」
みやといえば赴任以来は切れた定期の摘発などに精を出して過ごしていたわけだが、もっとも苦労したのは、車いすの介助だった。なるべく事前連絡でこっちのホームに付けてもらうよう連絡したが、なんやかやで言うことを聞いてくれず、三保とみやの二人がかりで持ち上げることがほとんどだった。三保のことがいやもへもなかった。
けれど掃除は三保まかせだった。三保は寝てはいたものの、掃除に関しては自然に体が動くように、隙のないくらいにプラットホームの待合室から駅舎の中まで掃ききるのが常だ。しかしみやはそんなことには少しも気づいていなかったし、町の人にとっても当たり前すぎることだった。
駅舎は白いホワイトケーキのようで両翼を広げた鴎ように美しく、コバルトブルーの甍を戴いている。それがあまりに立派な横に長い階段の上に鎮座しているこの駅は、庭や植え込みもあり、あまりに誇り高い姿なものの、何をどうするにも、必ず人の手のかかる駅だった。
みやは、住まいはどこか決めたら会社が契約すると云われていた。しかしアパートといえば木造2階建てトイレ共同の古いものばかりで、借家にしたのだった。それでも築五十年越え、石ころを埋めた玄関たたきのある、キッチンは流し台に給湯器というありさまの家だ。
自由を謳歌なんてことからは程遠かった。暑くなるにつれて現れる害虫と格闘することになったし、家の柱の木目一つとして、不満で気に入らなかった。ひょっとこみたいな顔で私をばかにしている、と、もはや譫妄症だ。
うまい魚が安くで手に入るのに自分は捌けないし、そんなことはいなかの人のやることのような気もしてやろうとも思わず、買い物でさえもみやは気晴らしにならない。
けれど三保はおっとりした顔してあっさり捌き上げてしまう。物産館では真空のおみやげ品の開発が行われていて、駅務室の水場の一角を使っていたのだが、三保を知っている地の人が釣果を駅務室に持ち込んだ際に三保が見事に捌くのを、みやは知ってしまった。
みやは顔のパーツそれぞれすべてを少しずつついらえばかわいくなるはずの風貌で、かち気だった。けれど、みや自身かわいさなど必要なかったし、だからこそ都市部で男まさりに駅務をこなしていたのだ。そもそもそうして対等に働けることに魅力を感じていたのに、なんでそんな私がこんな三保三隅みたいな娘と働かなくてはならないのか、みやはそう悶々としてやまない。けれどみやは尊敬できる男性でタイプであるなら平気でしなを作って厭わない、そんな自分の露骨なふつうっぽさも自分で愛おしんでいた。
この駅で新幹線の切符を求めていく同い年くらいで、少し地位のありそうな男性も、やはりこの郷土にしっかりと根を下ろした名士の一族なのだろう。みやはそういう人物にあまり魅力を感じなかった。大都会の中で紡ぎ出される平準化された立場でのとある出会い―出会いというからにはそんなものに胸を焦がしていたのだった。
三保とみやはたった一度だけ飲んだことがある。
いったい仕事に対してどう考えていたのだ、と。
酔っぱらって、
「あんたの考え方はわかるわ。でも旧制中学を出て、しょせん切符売り、改札なんて大したことないと思ってるんやろう? ことわっとくけど、私は別に都会にいたとき、こんな私にも活躍できる場が与えられて会社に感謝してる、みたいな卑下た考えは捨てるようにしてたわ。なぁ…私のこと笑ってるんやろ?」
三保は顔を上げて酒に酔って気持ちよさそうにほほ笑んだだけだった。みやは はたくのなら今だと思った。けれど顔を上げたときに鷹揚に眼鏡をはずして現れたその顔貌は不敵にかわいらしく、みやは目を黒々とさせた。
そうしているうちに三保としては、はじめてはっきりと自らの考えを述べ立てた。
「わーはこだわっても仕方ない思うとる。べつにたいした仕事やないなんて思っとらんし、そげなこと考えること自体が無駄やと思うとる。」
「どんな気持ちでお金もらってるん」
「うーん。わーが今そこに存しているということについてのみ、支払われているんだわ」
「なんか水商売の女みたいやな」
「みやさんはまだ人間の存在の価値を知らんのよ」
みやは、こんなコミュニストの議論は唾棄すべきものだし、それよりも何よりも、この三保の田舎名士っぽい知的な語り口に堪忍袋の緒が切れそうになった。
「たいした仕事と違うかもしれん、けど肝心なのはささいな仕事でも責任を売ってる、いうことやろ? わかる?」
「みやさんは、数字を上げて戻りたいんやろ?」
「だからあなたも丸でわかってないん。」
「わーも責任持たんとお客さん相手することなんかなか」
爾来呑んだことはない。
駅での業績はおもしろいくらい上がり、そこそこ地元の人にも、いいようにも悪いようにもみやは覚えてもらえるようになって、みやは身体がこの土地になじんでいくのを感じた。気候は日本海特有の曇りが多いが、そのぶん夏はいかにも夏らしかった。
心の底では誰か目に留まって、ヘッドハンティングされることをみやは夢見ていた。しかし実際には基幹駅では数字はなかったことにされ、よもやこんな煙たい自称やり手を、管理駅に呼ぶだなんて願い下げなのだった。
生活がつまらなさ過ぎて、魚を捌くこともみやはやってみた。勇気をもって、三保が駅の制服にゴムエプロンして背を向けてさばいているとき、せっつくように、教えて!と。決して媚びを売らずに。三保が優越とも不思議とも取れる表情をするので、仕事だから!と返したのも、みやらしいところだった (もっとも仕事でもなんでもなかった)。けれど三保も自分の立場をおびやかされるだなんて考えず、ちょっとくらい混ぜっ返しながらも丁寧に教えてやった。三保の腕という肉体にみやが触れたのは、そのときがはじめてだ。
三保はまったくみやに妬かなかった。でもそれはみやは、三保がこの郷土と根強いつながりがあるからだろうと片付けていた。
いつしか浮き輪の子らを見て自然な気持ちでやってみたいと思った海水浴の案内や自作促販マップの作製などにみやは精を出していると、はじめて三保が職場で話に乗ってきた。車を出してくれて、情報収集に行ったり、気づけばアイディアを出し合っていた。
そのころにはもう摘発ごっこはほどほどにしかしていなかった。
けれどいろいろいろと新しく仕事を作ってみても、どこかいいようのない不安と虚しさがふいにみやの頭にもたげることがあった。
みやは駅から出歩いて十分ほどの田の浦海岸で、一人で酒缶を開けていた。初夏で、何もかもが爽やかだ。
しかし別にたそがれていたわけでもないし、海が好きなわけでもない。「これはうちの故郷じゃないし」。この海の向こうに帰るところがあるどころか拉致の話くらいしか思い浮かばない。「私、拉致されたんかな。ばかばかしい! 感傷的にもほどがあるか…」 かつて受験に落ちたことも思い出した。そして駅係員の試験に合格してうれしかったことも。それから、三保のことが思い浮かんでちょっと、むかついた。
ふいに軽自動車の音がして、背後に停車する。どうせ釣り客か何かだろうと振り向きもしない。
「みやさん、こんなところで何しとるん?」
あいかわらず狭いまちやな、とみやは振り返る。すると隣からは男性が出て来た。みやがついまじまじと見つめるので、三保はおどけるように、
「ああ、これ? 遠い親戚なんよ。車はけとって乗せていうから。なんか青年会で使う流木を集めるそうやわ。」
男性は簡単に挨拶をすると照れながら流木を集めに行った。
三保はコンタクトなのか、いつになくかわいらしくしている。そしてみやの横に腰を下ろした。
こんなところでは親戚の男と近所をドライブするのも、ひとつの楽しみなのだろう。
「みほはいいわな。ここが故郷やし。家族もおるし。」
はじまったばかりの夏の風、潮(うしお)の飛沫のような松籟が延々響きつづけている。
「私、いうてなかったけど、家族はもうおらんようなもんよ? 高校のときに一人亡くしたんじゃ。けど、家守っていかないかんけぇ、ひっしにここで仕事探したんじゃ。
―
でも、もうなにもかもめんどくさなった。町のもんが町のもんを疑ごうて、きっぷ買わせて数字上げるやなんてむなしいだけじゃ。
でも、私がいてると、やっぱり安心してくれる。無人駅じゃなかと。」
そうして三保はまた静かに笑んだ。
しかしこれまでの笑みの裏を初めて知って、みやはみぞおちを食らったようだった。
「そうなんや。それは全然知らんかった。」
互いに真っ直ぐ翡翠と瀝青のうねりを見つめながら
「なんかここは重たいな」
すると三保が険しそうに
「そうやね。一つ一つが重いんよ。」
夏休みがはじまると、自分の企画告知の効果か、日に何人か、よそからの下車客を見かけることが増え、みやは俄然仕事が楽しくなってきた。町で作った、街巡りの割引券を持っている人がいる。みやが掃除するようになったのもそのころだ。その意外なほどの大変さに、みやはびっくりしていた。
人が訪れると刺激されてまた新たしいアイディアが湧いてきて、それを考えているときはもう何か夢中な感じで、みやはいやに楽しかった。駅の広報ブログをしはじめたのもこのころだ。良い意味で自分の重みが感じられ、ウェブで天気の傾向や混み合いについて尋ねられると、うれしかった。
予算は物産館からいくばくか出ていたが、何をしてもたいしてかからなかった。どれも小さな規模からしかはじめていないし、大きな損失もない。
みやは縁故関係でも、経済効果でもない、心の赴きで物事を進めることが多くなっていた。
そもそも他者の故郷について考えることほど無駄なこともないではないか。しかしそこを経済効果の点からも越えていったのは、みや自身も、何か吹っ切れた感じがした。ふと、自分の骨が浜にころがって、それをよそ者のものだと思われてもいいとさえも思った。
夏のあいだには秋に何をするかを考えないといけない。祭りなんかのイベントもある。調べたいことや知りたいことが増え、人と会うことも多くなったし、むしろ向うの方から駅に来てくれるようになった。別にこんなことは自分がやらなくてもいいのだが、勝手に新しい仕事を作っていることを、なんとなしみやは自覚していた。
或る冬を迎えたおり、ストーブを出す提案をして、余ってるからあげるといわれて倉庫から三保と達磨ストーブを夜に引っ張り出して点検したその晩に、正式ではないながら転勤の話が舞い込んだ。
聞けば兵庫のとある支線の駅で、そこそこアーバンなところだ。
みやは初め、たいそう歓んだ。神のおぼしめしだ、と。しかしすぐ、なんともいえない気分の悪さと喪失感に支配された。
小雪の舞うにび色の日本海まで一人で出歩いて、考えていた。三保がなぜ来てくれないのだと思うと泣きたくなった。これまでのことが恐ろしい夜空という劇場にきらびやかに再生されていって、本当にこんなことがあるんだと思うと、目の周りの雪が溶けていった。
翌日、とにかく久しく出ていなかった関西へ向かってみようと、ひっそりと始発に乗った。最後に行ったのは梅雨前のころだろうか。
駅務は書置きして三保にことづけた。本当のことをいって、あの子は何でもできる子だった。
天気はひどくしぐれて涙模様だ。
後ろには法事で来た高齢の夫妻が坐っているらしい。いまどき律儀に黒でまとめ、旦那も黒ネクタイをしている。
「うちもあと何回するかやな。」
「そうやな。神西さんとこは来年でやめよかいうてたけどな。」
「あそこの弟さんは先亡くなったらしいわ。なんやみんな亡くなっていくな。うちらも…」
「…逆や逆。ここに旅しに来てるだけや。みーんなそうなんや。生活してても、仕事してても、みーんなそれは旅なんや。」
「そらそやろけど…」
車窓はしだいに明るくなるが、今日もまた曇雨天だ。しかし日本海の分厚い雲がいっとき裁ちわかたれ、天地開闢のような朝日の稲妻が空に音もなく走った。
「きれいやな」
みやは思わず胸が苦しくなった。それから、以前の自分を思い出し、わけもわからず、心の中でしきりに謝っていた。
三保は静かな二階の寝室で化粧してるとき、わずかに開いたカーテンから鏡台越しにその光が目に入った。ふっと手を止めるが、今日は仕事をみやとどんなふうに進めようか、と、すぐに思い直すと、体や肩がふっと軽くなるようだった。
私が駅に戻ると、その眼鏡の駅員は目を覚ましていた。顔に跡が付いたのか、なにかやたら気にしているようだった。仕切りし直ししようとか冷たいお茶を汲んでいる。
外の立派なコンクリート敷きの駅前は真っ白に輝いて、直視できない。横に長い立派な階段を降りると、そこは波止場のようでもあり、そして海が思い浮かんで仕方ない、それくらい人影も、なーんもないところで、ただただ山の緑も空の青さが、目も眩むほどに濃やかな季節だった。