三次駅―駅前
(芸備線・みよし) 2011年7月
節電の駅舎から駅前に出ると、アスファルトの照り返しがキツかった。これまで三江線の自然の中の駅ばかりだったので、余計にだ。早くも水分補給がしたくなる。というか、食事したり自由に飲み物が買えるのも、この日ではここだけだ。三次駅前ではやっておかないといけないことがいっぱいある!
にしても、三次駅前は思ったほど特色はなかった。もっと濃いのを想像していたが…
妙な話、僕は駅前の、縁石上にできた薄い小上がりのバス乗り場と植え込みを見る度に、"タウン"というワードが脳裏に浮かぶ。街づくりのおもちゃの重要アイテムだからだ。今はそういうおもちゃも変わってきているかもしれない。だってこんな量産型の駅前も、もう少なくなりつつあるんだから。
しかしタイルもはがれずきれいなままです
こういうの、タウン感
国道183号の駅前通りに出て、車の走りによる風を浴びた。街に来たんだな、と思うことしきりである。軽く焼け痺れるような陽差しを手の甲で遮りながら、少しく歩く。証券会社、不動産屋、音楽教室、メガネ屋…街をもっと活用するよう意識的にみんな行動するべきだ、と僕は思っていた。遠くまで行かずとも、身近にあるじゃないか、と。しかしそれは、遠くへ行く気力や体の不自由でも起きない限り、そうならないのかもしれない。現に、僕は自分の街を顧みもせず、遠出を繰り返している。けれど、行きたいときに行きたいだけ行けてよかった、そんなふうに思うようにになるときは、来てほしくないものだ。
ふだんは入らない、ロータリー中心部の駐車場に入り込む。駅舎はな小窓をいくつもな並べ、城を意識しているかのようだった。重々しいコンクリートの壁が支配的な建築はから、今は窓やガラスがメインの建築に変わってきて久しいが、そうした変化も、さまざまな不正を暴く意識を人々に潜在的に植え付けてきたようにも思う。一方、一般家屋はよりいっそう窓が少なくなり、キューブに近づいているところがある。
脇は官舎もあるが、そんなに使われていないようだった。駅舎の2階も、いまはどうなっているかわからないが、三次発の列車は多いので、休憩、仮眠、宿直、会議、物置などに使われているのだろう。いずれにせよ、縮小に縮小を重ね、あまり使われていない部分も多そうだった。
なんといってよいかわからなかった
食事の時間を取らないといけないので、あまり街歩きないのが残念だが、個人の焼肉屋や美容室を見ると、やっぱ街なんだなぁと。三江線の奥地のようなところに住んでいる、或る三十代後半の女性の話が思い浮かんだ。恵美と名付けよう。恵美はずっと実家住まいで、家の手伝いをしていた。高校生のころに学級で村八分にされて、それっきりだった。しかし手伝いといっても、仕事だ。配送の請負や、畑で野菜を作ったり、爺さんと一緒に米作りも手伝っていた。山間部での畑作は大変だ。野生動物との戦いである。電線を張り巡らすので、電気工学の勉強も齧った。しかし面倒がりで、いつも感覚で電気を流しては、感電していた。
親は結婚や勤めに出ることを迫らなかった。なぜなら器量が親もいいとは思わず、田舎の家はそれが会社であり、子供は労働力になったからだった。ただ、いつまでも世帯の構成員で、扶養に入っているのが負い目だった。
久々の休みに恵美は一日五本しかない三江線の列車に乗り、1時間弱ほどかけて三次に来る。恵美にとっては十分開放的な都会で、楽しいところだった。ここにはなんでもあると思ったし、わざわざ広島に出るなんて、愚かしいことだとさえ思っていた。そんな恵美は服を買ったことすらないと言える。というのは、彼女が買う服というのは二度と商品を入荷することのない洋品店で忘れ去られた在庫をあてがったり、母のおさがりのセーターをきていたりしたからだった。目は細く、黒髪でセミロングで、小さなダルマに近い体形だった。
恵美はまず美容院に赴き、半年ぶりに髪を整えてもらい、そしてそのとなりの木造家屋でやってる焼肉屋で昼食、舌鼓を打つ。別に店の奥さんと話すでもない。恵美は同じ店には行かなかった。
そしてまた商店街のブティックで3000円ほどの洋服を選び、そのお店の女主人がためておいたどこか別の店の紙袋に入れてもらってそれを提げて、街に出る。たこ焼きを買い、江の川のほとりでゆっくり休んだ。
恵美はふと高校生のことを思い出していた。しかし嫌な気持ちにはならない。自分が嫌な思いをする前に、早々に辞めたからだ。同級生などは見かけたこともなかった。なぜなら、彼女らはほとんど転出していたからだった。
江の川の色が黄金色になる前に、買い物を済ませる。スーパーで見るものはそのすべてが、普段の粗食からは考えられないほどおいしそうに見えた。それら食料品と生活雑貨など5000円近く分も買ったら、あとは汽車を待った。冷凍ものは買えないわけじゃない。その必要があるときはクーラーバックを持ってくるのだ。
運転免許は結局取らなかった。しかし父母のためにも、取らなくてはいない。しかし今さら行ったら、何と思われるだろうと考えると、それはできなかった。
「でも取らなくても何とかなってるじゃない。鉄道も走ってるし、街もある。わざわざ広島に出るなんて、おかしいよ。」
そうひねたように考えるのが、恵美の常だった。
下車したころにはもうかなり暗かった。18時の汽車で着くから、来れたら来てと、家族に事前に言づけて置いたのだが、来ていない。仕方なく歩くことにする。田舎というのは本当に体をよく使うものだ。しかしそうして歩いていると、ヘッドライト燈した軽トラが走ってきた。彼女の爺さんだった。
買い物を荷台の開いている隙間に積み、タバコとイグサの匂いの狭苦しい室内で家に向かう。誰も何も困っていない。現金はほとんどないが、食べ物はあるし、集落や地元のためになる仕事もできている。
自宅に帰って食品を冷蔵庫内に並べると、なんだか庫内が富裕層のそれに恵美には見えた。といっても、写りのいいパッケージがそう見せているだけだ。
こんな生活に不満や疑問を抱いたことはなかった。ただあるがままに、すべてはちゃんと動いていた。
別な話も思い浮かんだ。三江線もそれはもうほとんど島根寄りといってもいいほど奥地に住むとある長男だった。哲治と名付けよう。哲治は子供のころからあっけらかんしたはなたれ坊主だった。ふつうに高校に行き、友達もできて、卒業した後は、家業を手伝った。実家は複数の事業を営んでいたのだった。ギフト、宅急便の取り扱から、従業員が親戚のおばちゃん8人ほどの食品会社、そして農業に果樹栽培もやっていた。会社では地元の山の幸、郷土の味をパッキンして土産物屋や旅館、道の駅に卸していた。かつてはそれほど売れていなかったが、自然食品や無添加で注目され、高く値付けしても売れるようになり、会社はうまくいっていた。しかし哲治も20代の後半に差し掛かると、母は心配した。アンタ、このままでいいのかい、こっちの仕事はこっちでやるから、なんかやりたいことあるんなら、ここを出てやりな、そういわれて、たしかにいつまでもこの山の中に引っ込んでいるのはどうも具合が悪いように思えた。会社といっても身内だけのもので、給料の計算もいい加減なもので、多いときで月給10万円ほど、少ないときは8万円ほどで、はたして本業といえるかどうか、母も気がかりだったのだった。
別に哲治は引きこもりがちていうわけではなかったし、いまの家業に拘泥するのも羞かしいと思った。
「おれ、店を出すよ、都会に。飲食店をやるんだ。」
母は喜んだ。父も賛成した。しかしお金は出さなかった。そんなことで哲治の夢をつまらなくしてはいけないと思った。しかし実際には単に父母にも元手らしいものがなかったのだった。
哲治は2年間勉強した。実際に広島で弟子入りして、修行を積み、経営を学び、銀行からお金を引っ張ってこれるようになった。哲治の広島での一人暮らしは、一生の思い出に残るものだった。まるで都市の中に自然と存在している大学に学んでいるようで、学ぶことが楽しかった。すべてが夢に直結するものだったし、理解するにあたって数学や物理が必要なら、そっちの教科書も引っ張ってきた。物理方面は割合覚えがあった。工業高校でいやというほどやったからだった。しかし彼が広島でしていた勉強の内でその割合は少なかった。面倒なところは丸暗記した。そんなことより、行動している方が幸せを感じ、体を動かしていたかった。
どこに店を出そうかという段になって、哲治は考えた。広島は、確かに都会だ。しかし、哲治には最寄りの都、三次の方が相対的に都会に思えたのだった。
「よし、三次にしよう、空き店舗も多いし、賃料も安い。おとうも、おかあも、まだ来やすい」
広島の奥地では、広島市街なんて恐ろしいところで、大層だと思われていたのだった。
そうして哲治は三次に戻ってきた。店はイタリアンと焼肉をセットにした、風変わりに店だった。
開店時に一番乗りしたのは電気屋と水道屋だったが、客としては哲治の両親だった。両親は大層喜んだものだ。店は、哲治の人当たりの良さと素直さと、いつまでも持ち続けそうな青春感のおかげて、客は次第に増え、三次市外では珍しく繁盛した。初めは親せきを中心とする人たちだけだったが、しだいに人は入れ替わった。無理をして深夜営業もした。これが意外と寝付けない客が来てくれるのだ。そんな客のために380円のイタリアンふうおかゆセット(リゾット)などのメニュー、生ハムと少量のアルコールを供すバルなどもメニューに入れてあった。儲けは多くなかったが、やっていけるだけで哲治は十分だった。
30も半ばを過ぎると、哲治はどちらかというと実学よりも虚学に興味を持ちはじめた。店はすでに2店舗に増えていて、人に任せることも増えてきていて、哲治は半ばオーナー化していた。父の会社の食品のインターネット販売も手掛けていて、それらもろもろの収入を頼りに、広大を目指した。受験勉強は大変な苦労だったが、20代のころに体を通して学んだその学び方が、頭の中で再現されていて、案外とうまくいった。欲をかいて、九大やその他ビッグネームも考えたが、事業から離れすぎることはできなかった。
3年もかかってようやく合格。イッパツだった。大学では物理を専攻した。修士の卒論は量子エンタングルメントについてだった。
その後、店に来ていた恵美の、その数少ない知り合いと結ばれた。その子は哲治の店で働いていたのだった。
哲治は68で亡くなった。いつまでも青春が続くように感じられていた矢先のことだった。
さ、自作小説のネタはおいてといて、食事を急ごう。けれど、三次駅前を歩いていて、さっきみたいな話の筋が浮かんだのは事実だ。つまり、この駅前には何かそんな風に想像力を喚起させるものがあるということなんだ。
かなりの早歩きで駅前を塩町方向に歩いた。事前にMapionというネット地図で、そちらの方向にショッピングセンターのあるのを知っていたのだ。もろろんA4半裁にして印刷してもってもきている。
途中、ココスを発見。故郷湖州ではよく見るファミレスがこんなところに…なんと懐かしいじゃないか。ここでもいいかなと思うが、提供時間を考えるとパスせざるを得ない…昨日からまともな食事はしてないんだから、全然高くついてもいいのだが…
結局予定通り? イズミっていうモールに入った。入ってびっくり、駅前の寂れた感じとは打って変わって、中は賑やか。なんだ三次市民はこんなところに集まってたのかって感じだ。にしてもこんなきちんとしたフードコートもあるとは…(これはネットに載ってなかった) 母子や媼がまったりと食事をする中を突っ切って入り込むと、よそ者目線で射抜かれてしまう…中は、ミスドや、スパローという見たこともないバーガー屋の系列店があり、迷わずそこでてりやきバーガーをオーダー。ブザーを持たされて、時間かかるのか? と不安になるも、そんなことはなかった。
お味は…なんともほどよいチープさ…にしてもなんでメロンソーダなんて選んだんだろうなと思う。おかげでなんかスナックを食べているみたいだ。
食後、お茶を買い増しするためにスーパーの方へ移動。途中、催事場で回転行灯がいっぱい展示されていて、お盆なんだなぁと。帰ってくる家族のためにも置きたいのだろう。なんかそういうのは中国地方の故郷感ある三次らしいところである。にしても…小1のころ、祖母の家の盆提灯の回転部を手でぐるぐる高速で回し、しまいには親戚に怒られた。先祖が敬意の対象になるという考えがあんまりなかったのだ。どこかに冷ややかでさえあったのは、自分自身の欠点だろう。
友人の家に遊びに行く年になると、さすがに仏具をおもちゃにすることはなかったが、一事が万事そんな感じで冷めているので、学友たちはかつての軍国少年みたいに、僕に激しく反発したものだ。けど………今となっちゃ、仏間があって、ランドセル背負った子が学校帰ってすぐチーンするみたいな情景も、平成初期までのものになってしまった。
いずれにせよ、なんらこだわりなく夏に自然と集まって仏壇を拝むという、そういう営みをうらやましくも思うわけだ。
セントラルスペースでは地方巡業のお知らせが貼ってあって、こういうところで芸人は張ってるんだなと思う。でもそういう活動は想像以上に人々の記憶に残る。しかし、そこに座って地方の時間を貪食する時間は僕にはなかった。すぐにスーパーに行って、茶を買う。広島牛が幅を利かせていて、わが近江牛の入り込む余地はなさそうだった。
外に出るとどっと疲れる。気温差のせいもあるし、モールの中のconsumaristicな華やかさと、禁欲的な三江線の無人駅の差に疲れたというのもあった。やっぱ駅旅途中にモールに寄るもんじゃないなぁと。ベクトルがあまりに違いすぎる。
素泊まり3500円だそうです
地方バブルが思い出されます
駅は着いたときと変わらず、駅舎内を暗くし、また別な媼や老爺が汽車を待っていた。なんかほっこりするといえば、そうだなと。僕は半袖にハーフカーゴという青年と少年の中間みたいないでたちなので、少し場違いでもあった。しかし夕方にもなれば学生が大挙して降りてくるのだから、そうなれば僕なんてだいぶ歳いってる方だ。
三宮にもあったような
ジャンクションですね
汽車の20分前に改札をくぐった。かなり早いが、ずっと暗がりで待つのは苦痛だ。青空な夏のむわあんとした空気を截って、跨線橋を渡り、ホームに片足を付ける。塩町に向かう列車を待つ間、構内のヤードを堪能した。もうめずらしい列車は何もないが、どんな時間でも無駄にしたくなかった。
本数も減った今、そんなにうるさくもないでしょう
けれど最近のものです
日中の備後落合行きは、わりと地元の乗客がいた。次は2駅先の塩町駅、福塩線の乗換駅に向かう予定だ。